あの震災とは関係ないけど、この時期になると私自身も辛く悲しくなる。
何日か前からTVの放送でも特集が流され、新聞でも沢山の記事が載る。
あの1年間は私にとっても、辛い1年だった。
あの震災の3カ月ほど前に最愛の姉との突然の別れがあり、毎日泣いていた。
お正月も、家族の為にお料理は作ったが色彩のないお正月だった。家族は私に凄く気を使ってくれていた。
そして少しずつ前を向き始め、夫と2月にFC東京の九州でのキャンプと、鹿児島観光に行った。
そこで、サッカーの仲間の一人が鹿児島に移り住んでいたので、一緒に食事をし、磐田との練習試合を応援した。
そして、あの地震と津波。
夫と声も無くTV中継を見ていた。こんな事があるのだろうか、まるで、現実のものとは思えなかった。
東日本大震災。その頃の私の手帳を見ると、その日に赤字で“東北関東大震災”と書いてある。始めはそう言ったのだろう。
そして、その夜、風邪ひいたと言っていた夫が「インフルかも」と言うので、翌日の土曜日に一緒に病院に行った。
病院は凄く混んでいて、長く待たされ夫が「苦しいと」ソファに横になったので、看護婦さんに言ったら、車椅子を持って来て直ぐに診察室に連れて行ってくれた。
診察を終えお医者さんに「直ぐに入院してください」と言われた。
翌日、入院の準備をして病院に行ったら「直ぐに、大きな病院に行ってもらいます」と言われ、救急車で運ばれた。
その夜、私と子供たちが主治医に言われたのは、「早くて1週間、長くても1か月」と言われた。
後は、どういう治療を受けるかという事だった。
姉の時にも言われた、同じ言葉。
姉の時は「早ければ2~3日、長くて1週間」と言われ、どういう治療を受けたいかと。
私は、姉の子供たちに「残りの時間が少ないのなら、無理やり延命をするよりも、苦しまないで穏やかに見送りたい。これは私の願いだけど、それを決めるのはあなた達」と。
子ども達も3人で話し合ってそれを受け入れた。
私はその日まで傍にいようと泊まり込んだが、私の目にもその日が近い事が実感された。
それで、長男に「辛い事だけど、直ぐにお葬式の準備をして」と言った。
そして、その日は思いの他早かった、
辛い治療がなかったので、本当に穏やかな、今にも起きて来そうな優しい顔の永遠の眠りだった。
だから、夫も苦しまないでその日を迎えたいと思った。
桜の季節かなと思っていたが、少し持ちこたえた。
「三沢川の桜が見たいな」と夫が言った。毎年、二人で桜の季節は、「どこに行かなくても、この三沢川の桜が一番だね」と二人で桜を見上げた。
夫は、新緑が美しく萌えあがり始めた季節に逝った。
今日は、仏壇の夫や姉たちに話しかけながら、涙が止まらなかった。
この日は、毎年、一人悲しみに浸る。
娘とも話したけど、あの一年間の記憶が無い。
二人で、振り返っても断片的にしか思い出せない。
あの年は日本の国にとっても、個人的にも悲しい辛い年だった。
今日の朝日新聞に別すりが入っていた。
一面は「春へ 一歩ずつ」の言葉に一面、満開の桜。
ページをめくると、2ページ、3ページはそれぞれ東北の満開の桜木と、桜の木を植え続ける人々の話。4ページめは、今の日常。
特に、NPO法人「桜ライン311」の活動を、感動を持って知った。
高田市が、津波が到達した地点に10メートル間隔で、170キロに桜を植えるという。
津波が来たら、その桜よりも上に逃げるんだよとの教訓と癒しのためだという。
1千年も残る桜並木のために、ソメイヨシノではなくオオシマザクラや八重桜などを植えるという。
そういえば、三沢川の桜並木は、ソメイヨシノもあるが、大島桜や山桜も数多く植えられている。
桜が咲いたら、娘を誘って三沢川を歩こうと思っている。