寒い冬が終わりを告げる桜の季節がやって来た。
そして、桜が咲く頃に裸の木々が芽吹き、山々が薄い柔らかい緑色にもやって来る。
里山は、縮こまっていた背が伸びて来たように、ちょっと大きくなったように感じる。
新生活が始まる桜の季節は、心が希望と華やかさに溢れて来る。
さくら、サクラ、桜。
私にとっての桜は、どの字が当てはまるのだろう。
この季節は、私の心が涙で溢れる季節でもある。
さくらを、風に舞い上がるさくら吹雪をみると、この青い空の、もっとずっとずっと奥深い蒼い世界で、このさくらを見下ろしているだろう私の亡くなった家族の事を思う。
父も母も、さくらが満開になると、農作業を休んで車で美しく咲くさくらを愛でに、あちこちにでかけていた。
そんな両親の為に、田んぼの一角にピンクの八重桜の苗木を植えたっけ。
田植えをしながら見れるようにと。
亡くなった姉は、私の所に何回も遊びに来ているのに、三沢川の満開のさくらの季節には来ていなかった。
「一度、三沢川のさくら並木を見に来て」
「じゃ、来年に行くね」
でも、姉に来年は無かった。
翌年、さくら吹雪の三沢川を歩きながら、涙を抑えきれず天を仰いだ。
そして、その時に夫は病院のベッドの上で、三沢川のさくらに想いを馳せていた。
転勤族だった私達は、それぞれの場所で桜を見に出かけていた。
東京に戻って来ても、有名な桜の名所に出かけて行った。
でも、今の稲城に住み始めて、三沢川の桜木が大きくなって見事な桜並木になってからは、三沢川しか桜を見に行かなくなった。
その、さくら満開の風景をカメラに収め、夫に見せながら
「来年は、一緒に見に行こうね」と。
でも、来年は無い事を私も子ども達も知っていた。
このさくらの季節になると、亡くなった私の家族たちの思い出に浸りながら、三沢川のさくら並木を歩く。
さくらを見上げ、舞い散るさくら吹雪にかれらの声が聞こえたような気がして、流れる涙をこらえる事が出来ない。
どんなに望んでも、彼らに会う事は叶わない。
そして、いつか私も彼らと一緒に、あの青空のずっとずっと奥の彼方から、この満開のさくらを見下ろすのだろう。
私の子どもや孫が、このさくら並木を歩く姿を。
夜桜。
「稲城の梨」の花。
その他の目に付いた花。