相続にはいろいろある。親の遺産相続。過去の人々からの文化遺産。そして、一番問題になっている地球環境を守るための緑の遺産。
今を生きている私達の立ち位置は、今、この瞬間の現在。一番大切な遺産は、過去から延々と未来に続いていくであろう地球の環境であり、自然だろうと思う。人類が生きて行く為に、全ての地球上の、ミクロからマクロまでの生命体の為にも。
そして問題になるのは親からの遺産相続だろう。この遺産相続は住んでいる所、生まれた所により、比べられないほどの差がある。私にとっては眩暈がするほどの格差である。
私の知っている稲城市の農家の未来の跡取りは、過去の遺産相続に苦しんでいる。バブル時におじいさんが亡くなったために、私には実感の出来ない天文学的な(私の感覚)額の相続税に苦しんでいる。
それは彼だけではない。たくさんの遺族が背負い切れない税金の為に、土地を失って行く。そして、売られたり、物納された土地は、細かく細分されて住宅地として売り出される。そして、農地だったり雑木林だったりした自然は次々と姿を消して行く。
果たして、この時代にそれでいいのだろうか。地道に農業を生業にしている人の土地を相続税として取り上げていいのだろうか。そんな事の為に、貴重な自然環境を破壊していいのだろうか。
「家屋敷が無くなっても、アパートの一室にしか住めなくなったとしても、この緑豊かな里山を未来の子供達に残したい。このままでは、数年後には里山が無くなってしまう。どうしたらいいのだろう」と。私は、それを聞いて胸が一杯になった。
たとえ、78haの南山がなくなったとしても、せめて、それに連なる東山はどうしても開発させたくない。奇跡的に生き残った里山や雑木林が、開発の名の下に破壊されて行くのは、東京近郊の宿命なのだろうか。
そして、思い出されるのは、私の亡くなった父の事。私の生家は田中角栄さんの選挙区だった。三方を、今で言う里山に囲まれて実り豊かな田んぼが広がっていた。
団塊世代の私が小さい頃は、家にも村にも溢れるほど沢山の人々が住んでいた。私の家は祖母と両親と3姉妹の6人家族で、珍しいほどの小家族だった。
戦後、整地された田んぼは見渡す限りの黄金の稲穂で揺れていた。三方の里山は、春のパステルカラーに、夏の濃緑に、秋は紅色や黄金色に萌え、冬は白色に佇む。
何と、豪華な風景だった事だろう。まだ、TVの無かった頃は、人々の世界は村の中だけだった。鬱陶しい事もあるが、貧しいながらも濃密な関係の豊かな人々の生活があった。
TVが普及し、マイカーと言われる車が普及し、子供達が都会の大学に行くようになり、減反政策が実施され、村々は少しずつ少しずつ変わって行った。
帰るたびに、虫食いのように広がって行く減反の田んぼ。帰るたびに田んぼの中に車の通る道路が出来て行く。帰るたびに村中の店が無くなって行く。帰るたびに家々の家族数が減って行く。
田中角栄さんは、貧しい裏日本を豊かな表日本のようにしたいと、必死に働いてくれた。人々は本当に期待した。都会の人のような生活がしたいと。バラ色の未来を想像して。
豊かさとは何だろう。
今、豊かな農地は虫食いのような水田に変わり、里山は一年中が緑の杉林に変わろうとしている。
もっと奥地に入れば、崩壊集落が点在している。家々が建っていただろう場所も田んぼや畑だっただろう場所も山に帰ろうとしている。そして、誰も住んでいない集落でも、舗装された道がどこまでも伸びている。
そんな風景を見て、いつも「つわものどもの夢の後、後は野となれ山となれ」と空しく口ずさむ。
私の生家のある村は、町に近くて大きな集落だが、大きな家に住んでいるのはほとんど老人。子供達の声も聞こえず、姿も見えない。
私の家は9反の田んぼと、東山と西山にどれだけあるか分からない面積の山林があり、あっちこっちにある畑の面積もはっきりとは分からないが、平均的な農家である。家屋敷も都会に比べれば無駄に広い。
3年前に父がなくなったが、相続税など、ほとんどかからない。ホッとしながらも、何の価値も無いんだと空しさも感ずる。
先祖達が守り耕してきた実り豊かな農地が、無用な荒地となり、山際の棚田から木々に覆われて行くのを、帰るたびに見ていると、田中角栄さんに聞いて見たくなる。
「あなたが考え努力した、あなたの故郷の農民達の幸せとは、何だったのでしょうか」
今を生きている私達の立ち位置は、今、この瞬間の現在。一番大切な遺産は、過去から延々と未来に続いていくであろう地球の環境であり、自然だろうと思う。人類が生きて行く為に、全ての地球上の、ミクロからマクロまでの生命体の為にも。
そして問題になるのは親からの遺産相続だろう。この遺産相続は住んでいる所、生まれた所により、比べられないほどの差がある。私にとっては眩暈がするほどの格差である。
私の知っている稲城市の農家の未来の跡取りは、過去の遺産相続に苦しんでいる。バブル時におじいさんが亡くなったために、私には実感の出来ない天文学的な(私の感覚)額の相続税に苦しんでいる。
それは彼だけではない。たくさんの遺族が背負い切れない税金の為に、土地を失って行く。そして、売られたり、物納された土地は、細かく細分されて住宅地として売り出される。そして、農地だったり雑木林だったりした自然は次々と姿を消して行く。
果たして、この時代にそれでいいのだろうか。地道に農業を生業にしている人の土地を相続税として取り上げていいのだろうか。そんな事の為に、貴重な自然環境を破壊していいのだろうか。
「家屋敷が無くなっても、アパートの一室にしか住めなくなったとしても、この緑豊かな里山を未来の子供達に残したい。このままでは、数年後には里山が無くなってしまう。どうしたらいいのだろう」と。私は、それを聞いて胸が一杯になった。
たとえ、78haの南山がなくなったとしても、せめて、それに連なる東山はどうしても開発させたくない。奇跡的に生き残った里山や雑木林が、開発の名の下に破壊されて行くのは、東京近郊の宿命なのだろうか。
そして、思い出されるのは、私の亡くなった父の事。私の生家は田中角栄さんの選挙区だった。三方を、今で言う里山に囲まれて実り豊かな田んぼが広がっていた。
団塊世代の私が小さい頃は、家にも村にも溢れるほど沢山の人々が住んでいた。私の家は祖母と両親と3姉妹の6人家族で、珍しいほどの小家族だった。
戦後、整地された田んぼは見渡す限りの黄金の稲穂で揺れていた。三方の里山は、春のパステルカラーに、夏の濃緑に、秋は紅色や黄金色に萌え、冬は白色に佇む。
何と、豪華な風景だった事だろう。まだ、TVの無かった頃は、人々の世界は村の中だけだった。鬱陶しい事もあるが、貧しいながらも濃密な関係の豊かな人々の生活があった。
TVが普及し、マイカーと言われる車が普及し、子供達が都会の大学に行くようになり、減反政策が実施され、村々は少しずつ少しずつ変わって行った。
帰るたびに、虫食いのように広がって行く減反の田んぼ。帰るたびに田んぼの中に車の通る道路が出来て行く。帰るたびに村中の店が無くなって行く。帰るたびに家々の家族数が減って行く。
田中角栄さんは、貧しい裏日本を豊かな表日本のようにしたいと、必死に働いてくれた。人々は本当に期待した。都会の人のような生活がしたいと。バラ色の未来を想像して。
豊かさとは何だろう。
今、豊かな農地は虫食いのような水田に変わり、里山は一年中が緑の杉林に変わろうとしている。
もっと奥地に入れば、崩壊集落が点在している。家々が建っていただろう場所も田んぼや畑だっただろう場所も山に帰ろうとしている。そして、誰も住んでいない集落でも、舗装された道がどこまでも伸びている。
そんな風景を見て、いつも「つわものどもの夢の後、後は野となれ山となれ」と空しく口ずさむ。
私の生家のある村は、町に近くて大きな集落だが、大きな家に住んでいるのはほとんど老人。子供達の声も聞こえず、姿も見えない。
私の家は9反の田んぼと、東山と西山にどれだけあるか分からない面積の山林があり、あっちこっちにある畑の面積もはっきりとは分からないが、平均的な農家である。家屋敷も都会に比べれば無駄に広い。
3年前に父がなくなったが、相続税など、ほとんどかからない。ホッとしながらも、何の価値も無いんだと空しさも感ずる。
先祖達が守り耕してきた実り豊かな農地が、無用な荒地となり、山際の棚田から木々に覆われて行くのを、帰るたびに見ていると、田中角栄さんに聞いて見たくなる。
「あなたが考え努力した、あなたの故郷の農民達の幸せとは、何だったのでしょうか」
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