都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

湯立坂と網干坂

2011-10-17 | 文京区  

 以前は大して気に留めていなかった湯立坂と網干坂。でも調べてみたらなかなか興味深い名前だった。

湯立坂(ゆたてざか)
所在地:文京区大塚3丁目と小石川5丁目の間   Google Map
Photo 2011.9.27

 湯立坂の標識には、「里人の説に往古はこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは河を隔てて渡ることを得ず。故に此所の氏子ども此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり。」と、昔の記録(江戸志、御府内備考)に記されていると書かれている。標識板の方には更に、

我方を 思ひふかめて 小石河
   いづこを瀬とか こひ渡るらむ
道興准皇「廻国雑記」(文明18年(1484)6月より3月までの
北陸、関東、奥州諸国の遊歴見記)より。

とも記されている。坂下の小石川(千川)は、室町時代には船でも渡りにくい大きな河だったようなのだ。

網干坂(あみほしざか)と簸川神社
所在地:文京区千石2丁目と白山3丁目の間   Google Map
Photo 2011.10.3

 網干坂の方も、昔は坂下の谷地が入江になっていて舟の出入りがあり、漁師が網を干していたという話から付いた名だという。大きな川だったから舟で漁をする漁師もいたということだろうか。小石川の方には旧戸崎町という町があるが、この町名も岬の地形から付いたとか、船が舳先を並べて泊まったことから舳先町になり、それが変化して戸崎になったという話があるそうで、なにかと川や海に関連のある場所である。

 約6,000年前の縄文時代前期には、気候変動により現在より海面が数m高かったそうだが(縄文海進)、坂下の共同印刷通りとの交差点付近の現在の標高は9.5mなので、やはりその頃でも海ではなかっただろう。だが小石川植物園内では貝塚が発掘されているとのことなので、海に近かったことは事実らしい。また、現在と縄文海進時の海面の差については、2~10m程度まで諸説あるそうなので、縄文期に坂下の谷地が海中だった可能性も無くはない。

 もちろん室町時代は当然それよりずっと後なので、海水面が高く海だったなどということはない。ただ、谷地はほとんどが湿地や水田で、川の水量もかなりあって、船で往き来するような場所だったようだ。水郷のような場所をイメージすれば良いのだろうか? 徳川家康が江戸に来た頃でも現在の大手町のあたりまでは日比谷入江が入り込んでいたというので、それより前の室町時代なら、小石川近辺が川の入江近くだったというのも分からなくはない。でもやはり、今の街並みを見ていると、大河の入江だったなどということは俄には想像できない。

 大正期に宅地化が進み、洪水がたびたび起こるようになったため、千川(小石川)は1934年(昭和9)に暗渠とされ、千川通りになったという。今では川の痕跡を示すものもほとんどなくなっているが、水辺の記憶が相対する二つの坂名に残されて生き続けているのが興味深い。

東京23区の坂道
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#階段・坂 文京区

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