清水坂
所在地:文京区湯島2-1と3-1の間 Google Map
Photo 2011.10.9
湯島天神前の道を南下すると清水坂に至る。神田明神の北西側にあるこの清水坂もなかなか良い景色を持った坂。タモリさんも坂道の本で語っておられるが、カーブしたり折れている坂は美しい。清水坂の場合、折れ曲がりはわずか5°程度なのだが、それが景色にアクセントを与えている。
坂を下りて蔵前橋通りを横断し、向かいの坂を少し上ると右側が東京医科歯科大学で左側は湯島の聖堂。そしてその先は聖橋、ニコライ堂だ。残念ながら湯島聖堂やニコライ堂は清水坂からは見えない。奥に見える高層ビルは御茶ノ水駅前の御茶の水サンクレール。その手前に聖橋があるようだが、ほとんど分からない。
清水坂の石柱
裏側に大正十三年一月と書かれている。
Photo 2011.10.9
坂道の東側の歩道上には「清水坂」と記された石柱がある。自治体が立てた説明標識には「大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。そこで、町の人が、清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。」とある。
石柱には「大正十三年一月」とあった。関東大震災の翌年だなぁと思い、帰宅後、帝都復興街路事業の地図を見てみると、東京市執行の補助線街路として事業が行われた道だった。また周辺は全て震災復興土地区画整理事業が行われた地域でもある。ちょっと調べたら逆になんだかよく分からなくなってきた。
説明として微妙なのは「清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。」という部分で、「会社が坂道の整備もした」とも取れるし、「会社が土地を提供した結果、(東京市が)坂道を整備できた」とも読める点だ。この坂はそもそも清水家が造ったのか、帝都復興事業に際して清水家が土地を提供して東京市が整備したのか、どちらなんだろう?
清水家が坂道を造ったとして、かつ帝都復興事業との関係を整理すると、以下のようになる。
清水坂自体は震災よりも前に清水家によって造られたが、震災後、帝都復興事業で拡幅整備され、その際、石柱が立てられた。大正5~10年に作成された1/10,000地形図にはこの道は画かれていないので、大正中期のわずかな期間の間のどこかで清水家が建設した後、すぐに震災になり帝都復興で再整備されたことになるが、可能性がないわけではない。
もう一つは、帝都復興街路事業と土地区画整理事業に際して、清水家が土地を提供して坂道ができた可能性。
清水坂という名が付いた由来もあるので、清水家が関わったのは事実だろう。だが、東京市は帝都復興街路事業として道路を整備している。また、区画整理事業を行ったのなら、地域が協力して減歩して街路分の土地を捻りだしたのだろう。大半を清水家が所有していたので、事実上、清水家が道路分を全て提供したのかもしれない。だから御苦労様、有り難うございますということで、石柱を立てたということだろうか。土地提供だけでなく道路整備も清水家がやったのか、整備は東京市なのか、そのへんは資料を細かく見ないと分かりそうにない。
帝都復興街路事業による整備についても看板でちょっと書いてあると、大正13年1月という石柱と坂の由来の関係性が分かるのだが・・・。細かいことなんだけど、気づいてしまうとどうも気になる~。
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