都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

池袋の都営住宅

2007-05-13 | 豊島区  

 池袋の西口に昨春まで古い都営アパートが建っていた。

池袋都営住宅
所在地:豊島区西池袋1-30
建設年:1950(昭和25)
構造・階数:RC4(1Fには居室なし)
2006年解体
Photo 1997.2.23

 昔は長い建物だったのだが、数年前に一部が取り壊され、半分程度だけが残されて建ち続けていた。

 最後の頃まで、一部に居住者がいた模様だが、老朽化した外観が醸し出す雰囲気などから、池袋の幽霊アパートなどとも囁かれていた物件。なぜか緑色に塗装された上部の壁面が、異彩を放って妙な迫力があった。

 山手線の車内からも見えていたのだが、昨年4月に解体用の覆いが掛けられ、一ヶ月程度の内に解体されてしまった模様。

以下は他のサイトの記事・写真など
廃墟系池袋都営住宅
都営池袋アパート
ニッポン懐景録豊島区西池袋1~2丁目

Tokyo Lost Architecture 
#失われた建物 豊島区  #公営・公団・公社・公立住宅  #集合住宅 
コメント (3)
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愛宕

2007-05-10 | 港区   

 東京は10年もすると全く異なる街が出現する。

青松寺近くの木造モルタルアパート(愛宕荘)
所在地:港区愛宕2-6
Photo 1994.6.24

 愛宕山の東側には山を背にして青松寺という大きなお寺がある。大きな境内地の一部は住宅地として賃借され、木造住宅やアパートが何軒か建ち並ぶ静かな一角になっていた。1981年の住宅地図で確認したら、写真の木造モルタルアパートは、愛宕荘という名で、青松寺の南側にあったことが判った。

 アークヒルズの完成以来、80~90年代に、都心に近い港区では、既に次々に大型再開発の計画が発表されていた。後に愛宕グリーンヒルズとなったこの地区でも、写真の94年当時、既に森ビルによる再開発計画が始動していたようで、周辺の建物は老朽化したまま新築されることがなく、また、空き家も目立ち始めていた。住人が少なくなりひっそりとした町で、撮影がなんとなくためらわれてしまう気配も漂っていた。

 この当時、私はまだ学生だったのだが、何故この写真を撮ったのか、正直なところ記憶にない。恐らく、その古びた姿、打ち捨てられた感じ、失われゆくかもしれない気配、などなどが気になったのだろうとは思うのだが、実は自分でもこの写真が手元にあるのがちょっと不思議でもある。

 愛宕グリーンヒルズの完成は2001年だというから、写真の建物は撮影後2~3年の内に取り壊されたのだろう。ぼんやりしている内に再開発プロジェクトは進行し、青松寺は本堂その他の建物が全て建て替わって真新しくなった。門の両側には、オフィス棟(MORIタワー)と住居棟(フォレストタワー)、2つの42階建て超高層ビルができた。愛宕トンネルの脇には山の頂上に至るエレベーターも設置された。

左:愛宕グリーンヒルズ(手前:住居棟、奥:オフィス棟) Photo 2006.4.15
右:オフィス棟壁面 Photo 2001.9.24

 今、愛宕荘が建っていた場所には、オフィス棟がそびえ立っている。現在の様子からは、昔の町の姿は全く想像できない。日々の建設活動は、真新しい街を出現させ、キラキラして清潔な空間、快適で分かり易い都市空間を増やしている。その一方で、たかだか30年程度前からの生活空間が、次々と消えて行き、街並みの記憶でさえも、どんどん消去され、更新されて行く。

 だからといって、都市開発という行為や、開発業者が悪であるというわけではない。需要があるから供給がある、というのが道理。世間が、人々が、東京が、超高層のオフィスビルや住宅を求め続け、清潔で快適なオフィス環境や、小綺麗な住環境を希求してきた結果が、現在の東京なのだろう。街並みをどんどん更新しながら、変化していくことを、結果としてこの街の人々は求めている。

 でも、街並み自体を更新するだけでなく、記憶からも消し去るというのには疑問を持つ人が少なからずいるだろう。また歴史資料は、現在を相対化し、定位すること、客観視することに役立つのではないだろうか。だから、わずかではあるが、写真や言葉で記録に残し、記憶に残して行きたい。

 もし、みんなが都市開発を求めていないのに、開発が続いているのだとしたら、それは状況を変える努力が足りないか、変えたくても変えられないという不幸な状況に追い込まれているか。ただ、街の変化には時間差がどうしても生ずる。人々の欲求が形になり、街並みにまでなるには10年単位の時間を要する。だから、長い時間をかけてできた頃には、ずれてしまうということは、ままあるかもしれない。そこまでの開発は求めていないよと考えても、しばらくは勢いが止まらないのも事実だろう。

 20年後、東京の都市開発はまだ続いているだろうか? 都心部の街並みはどうなっているだろうか? 想像できないと言われるかもしれないが、そこは努めて想像すべきなのだろう。都市の姿は、そこに関わる人々の欲求の結果として創られているのだから。

#失われた建物 港区  #新しい建物 港区  #街並み 港区 
#高層ビル  #オフィス  #住宅系 
コメント (2)
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麻機遠望

2007-05-08 | 静岡県  
静岡市葵区柳原より葵区北方面。谷に架かる橋は建設中の第二東名。
Photo 2007.5.7

 サギやケリが田で餌をついばむ。望遠が無いので80mm相当でむりやり撮影。こんな時は望遠が欲しくなるな~。

静岡の街並み
#街並み 静岡県  #山
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NTT中野統制無線中継所

2007-05-05 | 中野区  
NTT中野統制無線中継所
所在地:中野区上高田5-15
建設年:1947〜53(昭和22〜28)の間に5基の鉄塔が建てられた。
Photo 1987.6.21

 戦前から使われていたという噂を聞いていたので、昔の地図などを調べていたが、戦前からあった証拠は見つからなかった。そして代わりに広尾の都立中央図書館で資料を偶然発見したことで、これらの塔が戦後すぐの時期に建てられたことが分かったのだった。

 「帝都地形図 第3集」(株式会社 之潮(コレジオ)、2005.3.20発行)という地図集成の中に、「帝都地形図、上高田、1/3,000」(株式会社日本地形社、昭和22年9月発行(S8.3測図、S22.7補修))が収められている。

 解説によれば、NTT中野統制無線中継所があった敷地は、もともとは三井家の墓地だったところなのだそうだ。

 三井家の墓地は、墨田区の真盛寺から1915(大正4)に移転してきたという。墓地には参詣者用の控所や、葬儀を行う礼拝堂(持仏堂)があったが、空襲で焼失。戦後は西側半分を電電公社に売却し、西側の北半分に電波塔が建てられ、南半分は公社の職員住宅となった、と記されている。

 1947(昭和22)時点の地図には、まだ三井家の墓地が大きく記され、後に無線中継所になった場所も墓地内となっている。敷地は分割売却されておらず、鉄塔も建っていない。

 1953(昭和28)の「東京航空写真地図 第二集」(写真測量所編、創元社刊、1953年3月発行、東京都立中央図書館蔵)には5基の鉄塔が写っている。従って、鉄塔が建てられたのは1947〜53の間ということになるようだ。

 この後、1956年版の国土地理院の地形図(1/10,000 新井)には5基の鉄塔が記載されており、1963〜84年の国土地理院の航空写真にも5基の鉄塔が写っている。

 しかし、1988年発行の住宅地図では4基になっており、1基が80年代半ばに既に取り壊されている。この1基は現在の中野区立上高田図書館・児童館の場所にあったもので、建物の建設に伴い解体されたようだ。


Photo 1987.10.11 朝焼けの中の鉄塔


Photo 1989.7.6 解体途中。残るは一基


Photo 1989.7.12 最後の一基も解体される。


Photo 2000.4.16 無線中継所跡地 消防訓練場として利用されていた頃の様子。

 1987年時点では3基の鉄塔が残っていたが、1989年に全て解体。その後、しばらく空地となり消防訓練場として使用された後、マンションが建設された。

 呼称は、時代と共に多少替わっている。(名称記載法の資料による違いの可能性もあり)
「江古田無線中継所」東京都全住宅案内図帳(1958・人文社)
「日本電信電話公社・江古田統制無線中継所」住宅案内地図帳(1968・住宅協会地図部編集室編 1/2,000)
「日本電信電話公社・江古田統制無線中継所」航空住宅地図帳・中野区版(1978・公共施設地図航空株式会社 1/1,720)
「NTT中野統制無線中継所」ゼンリン住宅地図(1988・ゼンリン 1/1,500)

 注)真盛寺も1922(大正11)に、墨田区横川から杉並区梅里1-1-1に移転。

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 中野区  #街並み 中野区 
#塔  #眺望  #夕景・夜景 

2007.04.29 訂正加筆。
2007.12.20 上高田地域センターを上高田図書館・児童館に訂正。
2019.1.14 写真と記事を集約して情報を再整理。
コメント (4)
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帝都地形図

2007-05-01 | 本    

 「帝都地形図」(株式会社 之潮(コレジオ)、2005.3.20発行)という大判の地図集が、都立中央図書館の東京室にある。

 帝都地形図は、株式会社日本地形社が、大正10年から昭和22年にかけて断続的に調査、作成、発行した1/3,000の地形図で、行政が都市計画を行うために使用した、都市計画用基図だそうだ。大正8年の旧都市計画法の公布・施行に伴い、当時の東京市内の詳細な地図が必要になったために、内務省の依頼により作成された地図で、その後、関東大震災の後の震災復興計画にベースマップとして使用された。戦後も昭和22年まで補修を行い、戦災復興計画においても使われたという。

 今までほとんど知られていなかったこの地図が、2年ほど前になって地図集成として復刻刊行されたわけだが、ぼんやりしていて今まで全然知らなかった。

 この頃の東京の地図のほとんどが1/10,000であることを考えると、非常に資料価値のあるものだと思う。また、各図に様々な解説が付けられているのもとても有り難い。

 戦前、戦後の詳細な地図としては火災保険特殊地図が比較的良く知られている。ただ、これは都市化が進んでいる地域に限られていて、例えば、今回知りたかった中野区の北部、上高田のあたりはまだ農村に近かったために地図が作成されていない。また、火災保険特殊地図は、まだ全集のように集成図として復刻されていないため、検索するのがなかなか大変。各区の図書館に、その区の分があるようだが、ちょっと知りたいという程度で、その区まで出向いて調べるのは少々面倒でもあった。

 確認し損ねたが、帝都地形図は恐らく23区の大半を納めており、一括して見ることができるという意味でも、有り難い資料だ。また帝都地形図は、中野区の区立図書館などにもあった。これならちょこちょこ便利に閲覧することができそうだ。

#地図
コメント (2)
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