今日、長崎は63回目の「原爆の日」を迎えた。
叔父の1周忌の法要で、お寺で読経の前に原爆投下時刻の午前11時2分を迎え、
参列者全員が市役所のサイレンと同時に黙とうをささげた。
義理の父の親兄弟は63年前のこの日に原爆で全員亡くなられ、
終戦で復員してきた義父は一人だけ残されてしまったそうです。
その義父も12年前に70歳で亡くなられましたが、原爆のことはあまり話されませんでした。
私の父は当時、予科練の訓練中で奈良にいて、当日長崎出身者は全員集められ、
長崎には新型の爆弾が落とされ、甚大な被害が出ているらしいと帰省許可が出たそうです。
母は当時中学生ぐらいで、身内で唯一原爆の目撃者です。
当日は燃料にするための松脂の採取に雲仙山麓へクラス単位で行っていたそうです。
原爆投下の時はピカッと稲光りのような閃光が走ったかと思うと、
その後ドドーンという轟音が長崎市内の方から聞こえてきたそうです。
そうしているうちにもくもくと空高くキノコ雲が湧き上がり、
数分後にはそのキノコ雲は風に流され空を覆ってしまい曇り空に変わったそうです。
市内の惨状を直接見てはいないが、この話は孫達にも話して聞かせているようだ。
二度と悲劇を繰り返さないためにも。
戦争を始めたのも人間。原爆を落としたのも人間なのである。
それにしても米海軍の原子力潜水艦「ヒューストン」が放射能垂れ流しての佐世保寄港は
長崎県民を馬鹿にしている。
写真:爆心地から南東約800mの地点にあり、山王神社は跡形もなく崩れたが、
鳥居だけは片方の足を残し、今もなおその柱だけで立っている。
原爆の恐ろしさを伝える貴重な資料である。
叔父の1周忌の法要で、お寺で読経の前に原爆投下時刻の午前11時2分を迎え、
参列者全員が市役所のサイレンと同時に黙とうをささげた。
義理の父の親兄弟は63年前のこの日に原爆で全員亡くなられ、
終戦で復員してきた義父は一人だけ残されてしまったそうです。
その義父も12年前に70歳で亡くなられましたが、原爆のことはあまり話されませんでした。
私の父は当時、予科練の訓練中で奈良にいて、当日長崎出身者は全員集められ、
長崎には新型の爆弾が落とされ、甚大な被害が出ているらしいと帰省許可が出たそうです。
母は当時中学生ぐらいで、身内で唯一原爆の目撃者です。
当日は燃料にするための松脂の採取に雲仙山麓へクラス単位で行っていたそうです。
原爆投下の時はピカッと稲光りのような閃光が走ったかと思うと、
その後ドドーンという轟音が長崎市内の方から聞こえてきたそうです。
そうしているうちにもくもくと空高くキノコ雲が湧き上がり、
数分後にはそのキノコ雲は風に流され空を覆ってしまい曇り空に変わったそうです。
市内の惨状を直接見てはいないが、この話は孫達にも話して聞かせているようだ。
二度と悲劇を繰り返さないためにも。
戦争を始めたのも人間。原爆を落としたのも人間なのである。
それにしても米海軍の原子力潜水艦「ヒューストン」が放射能垂れ流しての佐世保寄港は
長崎県民を馬鹿にしている。
写真:爆心地から南東約800mの地点にあり、山王神社は跡形もなく崩れたが、
鳥居だけは片方の足を残し、今もなおその柱だけで立っている。
原爆の恐ろしさを伝える貴重な資料である。