1939年9月第二次世界大戦が勃発、
ドイツと旧ソ連はポーランドを占領し、
約12000人のポーランド系ユダヤ人は当時まだ
独立国であったリトアニアに避難しました。
その年の11月23日、杉原千畝領事代理は、
カウナスに日本領事館を開設しました。
ここが、のちに何千という第二次世界大戦の
亡命者にとって新しい人生の門となる場所です。
(パンフレットより)
1999年にリトアニアとベルギーの知識人と実業家により、
設立された「杉原ー命の外交官基金」は、
何千ものユダヤ人を救い、市民社会と寛容さという
観念を広めた杉原千畝氏とヤン・ツバルテンディク氏の記憶を
不朽にする目的で設立されました。
杉原千畝氏の紹介映像を先に見ることになりますが、
日本の杉原千畝記念館が制作したもので、既に承知している内容、
この時間を利用して展示物などを鑑賞したかったと思います。
(ツアーの不便さを感じました)
展示物をゆっくりと読む時間はありませんでした。
日本の旅行会社のツアーがこの狭い記念館に集中し、
長蛇の列の化粧室に並んだり、お土産を購入したためです。
前年の12月に唐沢寿明主演の映画「杉原千畝」の公開もあって
バルト三国のツアーは人気を博したようです。
ちなみにロケは全てポーランドで行われており、
こちらで撮影があったわけではありません。
杉原千畝氏の執務室です。
ナチスの迫害を恐れ、日本を通過するビザを求め、
ユダヤ難民が1940年7月領事館を訪れるようになりました。
当時日独伊防共協定を結んでいたため、
日本政府が許可するはずもなく、杉原氏は
「命のビザ」を発行することを決断するのです。
それは苦渋に満ちたものでした。
ソ連のポーランド侵攻でソ連領になっていたヴィリニュス。
それを一旦リトアニアに戻した時期に
多くのポーランド系ユダヤ人がヴィリニュスに移動、
各国の大使館が集まるカウナスを目指しました。
ナチスやソ連に捕まる前にどこかの国のビザを取得し、
安全なところへ逃れる、それが彼らが生き延びる
唯一の手段だったのです。
ペンが折れても、出発の汽車でも書き続けた貴重なビザ。
その日本通過ビザを手に受け入れ国を目指したユダヤ難民は、
モスクワ、ウラジボストークを経て海路、敦賀へと逃避行。
最終的には多くの難民が新天地へ渡航できたのですが、
杉原氏の意志を繋ぎ、強い絆でリレーした
日本人がいたからできたことなのです。
ここまで来たからには記念品を購入。
スタッフの日本語の美しいことといったら感激です。
リトアニアでは、中学校から日本語を選択できるとか。
(目的は日本のサブカルチャーのようですが・・・)
ご家族と共にこの領事館で過ごされた杉原氏。
「私達はどんな危険なところでもパパについていきます」
幸子夫人の支えも大きかったことでしょう。
杉原千畝氏のことを初めて知ったのは、
テレビ「知っているつもり」で放送された1991年。
杉原氏の功績は讃えられるべきものが多いのですが、
その功績を日本政府が長い間封印し続けたため、
私達は知ることさえできないでいたのでした。
彼らは人間で、助けが必要だった。
喜ばしいことは、自分のなかにその助けを与える
決定する力を見出したことである。
(パンフレットより)
リトアニア・カウナス
2016.9.22