「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

     子供への新型インフル・ワクチン無料接種を!

2009-08-22 05:02:59 | Weblog
新型インフルエンザが本格的に流行し始めてきたが、予防ワクチンが不足していて
国民にどう割りふりするか、その優先順位が話し合われている。先日、厚生省主催
の有識者による意見交換会では、優先順位は医療従事者、持病のある患者、妊婦、
乳幼児ーで意見が一致したという。

毎年,冬が近づくと、区役所から僕ら高齢者に季節インフル予防の任意予防接種用
の通知が届く。たしか一回接種で1500円と比較的安い費用で受けることができる。
しかし、一般は高く、例えば子供の場合は二回の接種で5000円もかかる。これでは
育ち盛り子供が何人もいれば出費が多く、なかなか受けにくい。

新型インフルのワクチンの接種の優先順位を新聞でみた老妻は”年寄りはもうじゅうぶ
ん生きてきたのだから、一番最後でよい”と冗談でいった。老妻は健康で医者嫌いで、
毎年ワクチン接種を拒み周りを困らせ、やっと接種に応じている。

新型インフルのワクチンは、国が一括して薬品会社から買い上げるそうだが、その先が
判らない。どういう順位で接種するのか、有料なのか無料なのか。日本の医療保険は
”診療”を対象にしており"予防"対象ではないので、ワクチンは高い。あと10日ほどで
新学期が始まる。学校が始まればいっそうの流行が心配される。年寄りは後でよい。
緊急マニフェストとして子供たちへの無料ワクチン接種を実施したらどうか。


        想い出の町 両国  "弾丸”巴潟

2009-08-21 04:43:54 | Weblog
昨日、僕は66年來の旧友と二人で両国の江戸東京博物館で開催中の写楽の肉筆画
など江戸時代の浮世絵展を見に出かけた。両国は江戸時代が似合う町で、僕ら昭和
一桁、東京生まれの人間にとっても色々想いでがある町だ。

昔、両国駅は夏休みの時期、海水浴客で賑わった。房総東、西線の始発駅で、昭和30
年代まで、ここから煙を吐いた蒸気機関車が千葉駅までノン・ストップで走っていた。駅
のプラットホームはSL用に低く長かったのを覚えている。

写楽展をみた後、僕らは旧国技館通りを歩いた。双葉山の69連勝で湧いたあの大鉄傘の
国技館があったあたりだ。相撲取りの町だ。9月場所をまえに髷を結った相撲取りの姿が
見かけられる。僕らは横丁を少し入った、ちゃんこ料理店「巴潟」に入った。巴潟は双葉山
時代活躍した小兵の力士で、その速攻相撲から"弾丸”という異名があった。店はかって
友綱部屋があった場所で、今、巴潟の次男が経営している。

僕らは歳相応に軽目のちゃんこ定食「小結」(1890円)を注文したが、量がたっぷり。「年寄り
定食があれば、それを注文すべきだった。さすが伝統のちゃんこだ。僕ら二人は舌づつみを
打ちながら次から次へと昔をかたった。国技館で催された”おばけ屋敷”のこと、菊人形展の
こと、戦争中は軍に接収されて19年の本場所が後楽園で行われたことetc.当時の関取の名
前を二人は競って想い起こした。双葉山,男女の川、玉錦、羽黒山、名寄岩、肥州山、笠置
山、大邱山,金湊、安芸の海、備州山,前田山、九州山、鏡岩、盤若などなどだ。僕らはこれら
の名前をメンコで覚えたものだった。旧友は巴潟と盤若との取り組みを自宅近く(目黒線西小山)
の原っぱで行われた巡業相撲で見たのを覚えていた。戦前は本場所前の触れ太皷が、この
あたりまでやってきていた。相撲協会も商売熱心だった。

         トンボが東京から消えた!

2009-08-20 04:48:32 | Weblog
僕の住んでいる東京(区部)ではまだトンボをみない。遠い僕の記憶では8月も半
ばをすぎ、桑の実の熟する今ごろになると、赤トンボの姿を見かけた。その赤トン
ボどころか、町中にウヨウヨといたシオカラ・トンボやムギワラ・トンボさえ見かけな
い。子供だった昭和10年代、僕らの遊び場だった皇后陛下の実家があった池田
山へ行けば、ギンやチャンといった大型のヤンマさえ飛んでいたものだが。

トンボがいなくなったのは、やはり河川の暗渠化と関係があると思う。僕の家の近
くにも小川が流れていたが、昭和40年に暗渠となり、桜並木に変わった。その変化
なのだろうか、トンボの代わりに蝉、それもかってはあまりいなかったミンミン蝉の
鳴き声が大きく聞こえるようになった。

自然の変化を一番受けているのは昆虫類だ。戦前、東京の山の手には何処にでも
あった”原っぱ”の消失で、僕らが源氏、平家と呼んでいた殿様バッタは完全に姿を
消した。カマキリや親子バッタ、クソバッタ、トカゲもいなくなった。

ベトナム戦争時代の作家、開高健(1931年ー89年)のエッセーにこんなのがある。
「トンボがいなくなった。泥鰌がいなくなった。蛙の声が聞こえない。鴬の声も聞いた
ことがない」-気がつけば開高健が、このエッセーを書いたのは、もう20年以上も
前のことなのだ。

今朝もラジオ体操へ行く途中のコンクリートの道の上に地上に出てきたばかりのアブ
ラゼミの無残な死体を見た。考えさせられる。

      帰ってきた日の丸 切り裂かれた日の丸

2009-08-19 04:58:23 | Weblog
先日、社民党の福島瑞穂党首が元米国兵から返還された父親の出征時の寄せ書きの
日の丸と一緒に笑っている写真をみた。"帰ってきた日の丸”の記事は時々新聞でみか
けるが、だいたいは激戦地からかっての米国兵が戦いの記念として持ち帰ったものだが、
福島さんの場合は戦後熊本に進駐した米国兵がお土産として持って行ったもののようだ。
この記事を読んで僕は進駐軍がやってきた当時、従弟と一緒に家の玩具を無断で持ち
出し横浜の大桟橋で”エクスチェンジ”と言いながらチョコレートやガムと交換した当時を想い
起こした。事情は知らないが、福島家の日の丸の流失もその当時のものだ。

日本人が国旗、国歌を大事にしなくなったのは戦後のことだ。それも僕らの世代になって
からのような気がする。亡父が生きていた昭和30年代後半までは、わが家でも門の脇に
祝祭日には日の丸を立てていた。わが家の場合は、転勤で集合住宅に住んだりしている
うちに立てる習慣を忘れてしまった。高度経済成長の時代に日本人は、わが家と大同小異
の理由から日の丸を立てなくなった。国旗、国歌に反対している戦後生まれの一部の若い
世代が言っているような嫌悪感は、従軍世代の一部であり、反対もアジアのごく限られた
人たちにすぎない。

驚いたのは、民主党の鹿児島県霧島市の決起大会で、日の丸を切り裂いて党旗を作り掲
揚した事件である。信じられないことだ。鳩山代表は陳謝したが、当事者に口頭で注意し
たに過ぎない。民主党の幹部には国旗、国歌に反対だった日教組出身者もいる。そして同
じ体質の社民党だ。両党が選挙で過半数をとり、連立内閣でもとることになれば、わが国
は”国体”興亡の危機にもなりかねない。

             政治家の無節操

2009-08-18 04:47:13 | Weblog
天下分け目の総選挙が今日から始まった。その前夜、わが家の近くの女子高で佐藤ゆ
かりさんの演説会があった。いわずと知れた"小泉チルドレン”の一人。その”産みの親”
の小泉純一郎元総理も応援にくるというので、大変な人気、僕も野次馬根性から聴きに
行こうと思ったら,周りから年寄りに夜道は危ないと止められた。

結論から行って、僕は自民党に投票するから”ゆかりさん”安心してください。むしろ選挙
に有利になるかもしれない、元民主党議員の無節操な話を一つ。女性議員としての先輩、
田中真紀子・元外相の民主党への夫婦しての転向の逆のケースのようにみえるが、ちょ
っと違うようにも思われる。

貴方の選挙区の一つ、目黒区の青木英二区長の話である。彼は昨夜の貴方の応援弁士
の一人に顔を連ねていたが、元々は民主党都議会の"政策調査会長”である。2004年の
区長選には無所属で当選しているが,実姉は民主党の区会議員である。鳩山兄弟のよう
に党派を異なるケースもあるが、青木区長の場合は、実姉のHPに無所属を表明しながら
応援のメッセージを送っている。同じサイトには民主党の小沢,菅両氏に混じって今回、同じ
選挙区から立候補している手塚よしお氏も推薦文をかいている。

推薦文といえば、青木区長は先日の都会議員選挙では、公明党候補の推薦人の一人にな
っていた。要するに"無所属”というのはなんでもよいのである。青木区長はまさか今回の選
挙でも,裏にまわって民主党候補にエールを送っているとも限らない。

    インドネシア独立記念日(2) 心と心のおつきあい

2009-08-17 14:26:59 | Weblog
インドネシア独立式典に参加する旧日本軍従軍世代は年々減り、今年は僅か5人に
減ってしまった。むりもない。平均年齢は85歳を越えている。64年前、独立当時、この
人たちは祖国を離れて、自分たちの国の独立のために一緒に戦ってくれたという同士
愛なのかもしれない。インドネシア人の戦争を知らない若い世代の5人への対応には本
当に頭がさがる。今年も式典後の会食では、一番先に従軍世代を代表して山下信一
昭和女子大名誉教授(89)がナシクニン(お祝いご飯)の光栄に浴した。(写真 右)
教授は昭和17年スラバヤ上陸作戦に従事、21年復員までインドネシア各地でお世話
になったそうだ。

日本とインドネシアとの友好の言葉は福田赳夫元首相が唱えた"心と心のつきあい”で
あったはずだ。残念なことに、この独立式典に最近は外務省からも赳夫元首相の息子さ
んの康雄元総理が会長をしている日本インドネシア協会から一人も顔を出さなくなった。
式典が朝早いというのは欠席の理由にはならない。日本人の心はどこへ行ってしまった
のだろうか。

       インドネシア独立記念日(1) 二人の日本人

2009-08-17 05:24:21 | Weblog
今年も朝早く家を出て午前8時から始まるインドネシア独立式典に出席した。式典は
東京五反田の大使公邸の庭で64年前の1945年8月17日、ジャカルタのスカルノ(初
代大統領)邸前庭の独立宣言当日の模様を再現した形で行われる。ここ数年、僕も
招かれ参加しているが、いつも僕は、この国の独立にかかわった日本人の先人に対
して思いをはせることにしている。

僕の知人(物故)の中に、インドネシア独立時、ジャカルタにいて、それぞれの立場から
独立に直接間接に関係した方が二人いる。一人は、独立宣言文書が起草された前田
精海軍武官府の嘱託だった西嶋重忠氏(のちに北スマトラ石油常務)と陸軍第16軍軍
政監部政務班長だった斉藤鎮男氏(のちに在インドネシア大使)のお二人である。

西嶋氏の著書「証言インドネシア独立革命」(昭和50年 新人物往来社)によると、独立
宣言の起草が終了したのは17日午前2時すぎだった。宣言文は前田中将の暗黙の了
解を得ていたが、軍政主担当の陸軍の了解が得られていなかった。海軍の独走の批判
を恐れて、陸軍側の窓口であった斉藤政務班長に連絡をとったところ、斉藤氏は"君らの
やり方は天皇に不忠であり国賊だ”と拒絶されたという。斉藤氏、陸軍側にすればポツダ
ム宣言を受諾した直後であり、連合軍に無断で独立を許認するわけにはいかなかった。

結局、陸軍側の同意のないまま、それから数時間後の午前10時(本来の現地時間は午前
8時だが、日本の軍政下では日本時間を使用していた)スカルノ邸前にインドネシア国旗
が掲揚され、国歌が歌われ、独立宣言がスカルノによって読みあげられた。この式典には
一人の日本人の参加者もいない。独立前後の当時の模様については斉藤鎮男氏の著書
「私の軍政記」(財日本インドネシア協会 昭和52年)に詳しい。

           国立追悼施設は必要ない

2009-08-16 04:53:08 | Weblog
「国立追悼施設」建設問題がまた浮上してきた。民主党の岡田克也幹事長は追悼施設
建設について「国民・国家のために命を落とした方を祀る場が不可欠だ」と言い同党の
鳩山代表は「特定の宗教性を持たない国立追悼施設に向けて取り組む」と政権発足後に
建設する意欲をみせている。が、僕にはなぜこの戦後生まれの若い政治家がこんなに
追悼施設を欲しがるのか理解できない。

わが国には、昔から靖国神社という国家レベルの追悼施設もあるし、地方レベルでも護国
神社(招魂社)があるのをご存知ないのだろうか。神社が「神道」という特定の宗教でまずい
というなら、岡田幹事長が理事をしている千鳥が淵戦没者墓苑もある。まさか、この人たち
は外国からの来客用にアメリカのウェリントン墓地やインドネシアのカリバタ墓地的なものが
必要といっているわけではあるまい。多分推測で言わせて貰えば、8月15日の終戦記念日
に総理大臣が靖国神社に参拝すると、その度に他国からクレームをつけられ、政治問題化
するからであろう。

僕に言わせれば、何も総理大臣がこの日に靖国神社に参拝する必要はまったくない。終戦
記念日には政府主催の戦没者追悼式が武道館で行われている。今年も天皇・皇后両陛下
が出席され、麻生総理大臣や閣僚、参院議長も臨席し挨拶されている。(鳩山代表はなぜか
欠席)戦争体験者の一人として、英霊の気持ちを代弁させて貰えば、僕はこの国家的な追悼
式でじゅうぶんな気がする。

ただし条件がある。英霊への追悼式である。追悼の場で自虐的な加害者意識にたって謝罪
の挨拶は避けるべきだ。英霊は侵略者でも加害者でもない。

     ”記憶せよこの日を!”64回敗戦記念日

2009-08-15 04:54:59 | Weblog
64回目の「8月15日」がめぐってきた。東京は今日と同じように暑い日だった。
僕は動員先の工場が電力不足による”電休日”のため休みで家にいて、庭
先の防空壕で母親と二人で天皇陛下の敗戦を告げる「玉音」を聞いた。わが
家は父の勤務先の関係で「敗戦」は、すでに"不快な情報”として、なんとなく
伝わっていた。そんなこともあってか、当時中学3年生だった僕はそれほどの
感動もなく”これで明日から工場へ行かずにすむ”と思った。

亡父は当時、定年後の仕事で大東亜省関係の協会で嘱託として働いていた。
その関係で敗戦は"不快な情報”として、すでに8月11日の日記に記載がある。
僕も当然、それを父親から聞いて知っていたが、友人など他人に言うことなど
できなかったのを覚えている。

亡父の日記によると、64年前の8月15日は木曜日で、東京では前夜の午後10
時55分に空襲警報が発令され、いったん15日午前3時半に解除されたが、午前
5時40分再度発令され「玉音」放送の正午まで続いている。この間,敵機が上空
にきて空襲があったかどうかは不明だが、「玉音」放送直前まで警報下にあった
わけだ。

亡父のこの日の日記は次のように書いてある。
「空襲警報解除後,氷川神社に月参、帰ってきて神仏に月礼祈願して朝食、午前
7時40分の放送にて本日正午畏くも天皇陛下御自ら勅語御放送ある旨発表あり
恐懼に堪へず。9時半出勤、正午より勅語拝聴式あり。一同最敬礼裡に朗々たる
玉音に接し粛然襟を正し、嗚咽各所に起こる。感無量なり(以下略)」そして欄外に
赤インクで”「記憶せよ!この日よ!」と記してある。
(戦前までは天皇陛下は「生き神」で、お声は聞けなかった。また毎月1日と15日に
神仏にお参りする家が多かった)
(写真は亡父の日記。1ページを2日にわたって使用。赤字は空襲警報)

             薮入り時代の日本

2009-08-14 04:34:25 | Weblog
娘婿の会社が昨日から盆休みに入った。新暦で盆をする東京では、昔は勤め人がこの時期
一斉に休みをとる風習はなかった。僕がサラリーマンになった戦後まもない東京では”原住民”
が多かったのか、盆に故郷へ帰る人はそんなに多くなかった。今のように盆の期間、街が”カ
ラ”になるような現象はなかった。

戦前、昭和の初めの頃までは薮入りの習慣が東京でもあった。旧暦の1月と7月の盆の16日
前後に休みを貰い、実家の父母のもとにに帰った。今は落語の世界さけになってしまったが、
小さかった僕の記憶の中にも薮入りの日の浅草六区の映画街の賑わいが残っている。

「蟹工船」の作家、小林多喜二の初期の作品にも「藪入」がある。弟が奉公に出てそのおかげで
大學に通っている主人公が薮入りの日、実家に戻ってくる弟と顔を合わせる複雑な心情を描いた
ものである。

大正から昭和の初期にかけての日本は、多喜二の作品に描かれているように貧しく貧富の差が
大きかった。平成の今の世ではとても想像もつかない。百年来の不況だといっても高速道路は帰
郷の車で渋滞しているし、新幹線も飛行機も満員だそうだ。生活が苦しいといっても最低のセーフ
テイ・ネットの保障はある。なによりも平和なことは最高の幸せである。