井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ヤンソンスと言えば

2010-12-07 21:37:41 | オーケストラ

マリス・ヤンソンスのことを言うのが普通なのだろう。最近,どんどん評判を上げている一流指揮者である。

でも私は,ヤンソンスと言えばアルヴィド・ヤンソンス(マリスの父)なのである。クライバーと言えばエーリッヒ・クライバーと言っているのと段々同じになってきて,どこの化石だと言われそうだが,アルヴィド・ヤンソンスは本当に素晴らしい指揮者だと思ったのだ。

四半世紀前の日本のオーケストラは、指揮者次第でガラッと変わるところが多かった。それは今でもそうなのだが、今以上に極端に変化したように思う。(今それほどでもないのは,オーケストラの水準がかなり上がったからと言えよう。)

一番わかりやすいのはピアニシモがどれだけ弱音になるか。ヴァイオリン・パートの後方で弾いていると,これは如実に感じた。名指揮者の場合,水をうったように静まり返って,全ての見通しが良くなる。そうなれば演奏会の内容が半分保証されたようなものだ。

デ=ブルゴスが振った読響,小澤征爾が振った新日本フィルなどというところが思い出されるが,アルヴィド・ヤンソンスが振った時の東京交響楽団が,まさにそれだった。

プログラムの後半、俗に言うメイン曲はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。指揮者にとってもオーケストラにとってもおなじみの曲で、悪かろうはずがない。

・・・のだが、第2 トロンボーンに若干の問題が生じた。第2主題の直前にトランペットとトロンボーンのパッセージで、第1 奏者と第2奏者が交互に分散和音を吹くところがある。それが、どうしても音色がそろわなかった。それを何とかしようと、ヤンソンスは毎日繰り返させたのだった。

こういうことは当時でも珍しいことだ。ことに、このオーケストラの音楽監督は二回やってダメならさっさとあきらめる人だったから、それに慣れているオーケストラにとっても珍しい体験になる。

しかも、何度やってもあまり進歩が感じられなかったのである。当時20代前半の筆者など、いくらやっても無駄なのでは、と内心思っていた。でもヤンソンスはあきらめなかった。

本番がうまくいったかどうかは覚えていない。多分うまくはいっていないと思う。

だが、コントラバスのある先輩が言っていた。「あれ、途中で止めたら本人腐っちゃうよ」つまり、ぎりぎりまで練習させるのが最善の方法だろう、ということだ。

現在プロフェッショナルの団体では、そのようなことはまず起こらない。でも当時は戦中戦後のプレーヤーの生き残りの皆さんがほんの少し残っていた時代で、まれにこのようなケースもあったということになる。

想像するに本国ソビエト連邦でも、このようなトレーニングをしていたのだろうし、東京交響楽団とは、一旦解散する以前からの付き合いで、特別な義務感もあったかもしれないし、何より東京交響楽団の熱意に応えたいという気持ちが強かったことに起因するとも考えられる。

一方、前半のプログラムはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。ソリストは、当時新進気鋭のゲルハルト・オピッツ。ドイツのピアニストはエッシェンバッハ以降、この人しかいないというふれこみだった。それは今でもその通りと思うが、それを抜きにして、すばらしい演奏に感動したのだった。

ところが、こともあろうにヤンソンスの方が、あまり得意でないことが露呈してしまった。これもびっくり。

第2楽章にオーケストラが一回だけ和音を「ジャン」と入れるところがある。これが何度やっても「合わない」のである。ヤンソンスが力を入れれば入れるほど合わなくなる。オピッツもいやな顔一つせず、何度となくつきあってくれるのだが、何回やっても近似値が続く。

前述の音楽監督は、合わせることに関して全く問題が生じない人だけに、オーケストラの方も不思議な面持ち。なぜできないのだろう?

他人のみならず、ご自身に対しても繰り返しを要求するマエストロ、不器用なところを持ちながらも、感動的な音楽を作りだす指揮者、筆者はいっぺんで好きになってしまったのである。

その後、ほどなくしてトロンボーン奏者は入れ替わり、何年か後にアルヴィド・ヤンソンスは亡くなられた。

そしてヤンソンスと言えばマリスの時代になっている。マリスの演奏はテレビで聴くのみ、生でないと真価ははかれない。だから、どうのこうの言う資格はないのは百も承知だが、アルヴィドに心酔してしまった筆者としては、どうしてもマリスが良いなどという気持ちにはならないのだ。マリスさん、ならびにマリスファンの皆さん、ごめんなさい。

アルヴィド・ヤンソンス・フォーエヴァー!



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