この自転車のポテンシャルは、オフロードバイクに匹敵するものがある。
そして、ライダーのレベルもマウンテンバイクチャンピオンを完全にしのいでいる。
箱の自重は12~3キロ有る。さらに氷とキャンデーで12~3キロで合計25キロ
を超えている。
昭和30年1955年当時は、国道でもまだ未舗装路が多かった。
舞台は国道ではなく、県道と市道(市道が存在したかは不明)が主だ。
どちらの道もバス通りは、道路管理者がいて、穴ぼこや出っ張りを、ならしていたが
それでもテニスボールぐらいの石は、いっぱい有った。
市道の管理は地域の住人にまかされていた。市は4~5トンのボンネットトラックを
ドライバー付きで貸し出し、住人が河原でジャリを積み込んで、道の穴ぼこを補修
した。そのためにジャリの選別が面倒なので、グレープフルーツぐらいの石がごろ
ごろしていた。この石で4輪のオイルパンやデフを割った人がかなりいた。
バス通りの道以外の主役は、トラックではなくて馬車だった。道幅は市のトラックが
やっと通れる幅があるが、両側から草が張り出してきて、馬のひづめと馬車のタイ
ヤとの間に、2本の草の線が続いていた。
この写真に、草の線を1本足して、グレープフルーツから、みかん大の石を
一面にばら撒けば、当時の道がほぼ完成するはずだ。
キャンデー屋さんが鳴らす鐘の音は、規則正しく鳴り響いていたのを覚えている。
ということは、ジャリの浮いた道を、片手で運転していたことになる。
箱の重みで荷台が振れて、もろにハンドルを揺らすのに片手で耐え、ペダルをこぐ。
しかも、下駄でだよ。まいったでしょ。