今日は回数は少ないですが、余震がまだあります。このまま先細りのように消えて行って欲しいと思うのは誰も同じこと。なかなかそうならないですが、なって欲しいです。
わが家の桜も、染井吉野が咲きました。これは昨日の桜です。
こちらが今日で、ほぼ満開になりました。ここに来て急に暖かい日が続いていますので、桜もパッと咲きました。
この木は大木で、それは見事に沢山の花を咲かせていたのですが、テングス病にやられて枯れたので、太い幹は切り倒したのですが、根元や途中から枝が生えだしたので、形は整いませんが、そのまま生やしておいたらだんだんきれいに花を咲かせるようになってきました。復活です。
昨日、コブシの大木の遠景を出しましたが、コブシがなかなか見られない地域もあるようです。幸い、今日のウォーキングで背の低いコブシが見つかったので、撮ってきました。
まず花弁はこのようになっています。直径はマグカップの口径くらいかなと思います。こぶし(拳)を握ったくらいの大きさです。
このように咲いています。もっと大きな写真なら枝の様子も分かると思いますが、枝はほんの少し青みがかっています。ザラザラごつごつした木肌ではありません。
千 昌夫の 「 北国の春 」 の歌詞から判断すると、コブシは北国の木のように思われます。しかし、ウィキペディアによりますと、九州、本州、北海道および済州島に分布とあります。
夕方の団地遠景。
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読売新聞 から
「此処(ここ)より下に家を建てるな」
東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東橋の姉吉地区(12世帯約40人)ではすべての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。
「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想へ惨禍の大津波」
本州最東端の魹ヶ埼(とどがさき)灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処よりーー」と戒めている。
地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。
地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、まがりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65){幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。
(2011年3月30日07時22分 読売新聞(ネット)から)