かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

お葬式に参列したりすると、「死」その物を考えてみたくなります。

2005-10-08 23:14:08 | Weblog
 16日用の記念誌、帯の印刷は色あわせに苦労しつつも何とか終わり、あとはカッティングと製本・仕上げを残すのみ。30も出るとはとても思えませんが、余ったら冬に有明へ送ればいいか、と思っております。

 職場の同僚の身内が昨日亡くなり、今日は午後7時からその通夜に参列いたしました。まあ御年90近いと言うことでしたから、日本人としては平均よりやや長生きされたわけで、天寿を全うされたと言って差し支えないでしょう。面識もなく、写真の顔がその同僚によく似ているな、と思ったくらいで、その故人の死については、私自身にはなんの感慨もありません。でも、葬式というのは間違いなく一人の人間の死を象徴する出来事なわけで、私自身の身内にもそろそろ彼岸に旅立つ準備をしていてもおかしくないお年の人がいることを思えば、いろいろ普段はそう意識しない「死」その物について考える機会を与えてくれるのです。
 私は霊魂の存在についてはかなり懐疑的です。あって欲しいと思う一方で、それが自然法則に矛盾しない形で存在出来るとは信じ難いからです。意識や心は有機物である脳が生みだすものであり、その脳が個体の死によって機能停止すれば、それらは消えてあとかたも無くなるという考え方を、今の所首肯しております。心や意識と霊魂は別物かも知れませんが、どちらにしてもその個体が死ねば、その時点で雲散霧消するものと、私は思っております。故にこそ、畏れを抱くのです。死によって全てが消失すると言うのは、自分だけでなく、自分の身の回りにいる親しい人にも等しく起こりうる現象です。その人達の死に直面したとき訪れるであろう巨大な喪失感に自分が耐えられるかどうか、今現在では正直少々心許ないのです。と言って永遠に生きることは誰にとっても不可能ですし、私が期待する科学の今後の進歩でも、大甘に見積もってもせいぜい寿命を倍ほどに伸ばすのがせいぜいでしょう。中国の仙人に李八百と言う人がおり、八百才も生きていよいよ往生を遂げるとき、「まだ死にたくない」と宣ったそうですが、結局幾ら生きようとも、自分自身はもちろん、自分にとって大きな影響を持つ人達にもいつか必ず来る終わりに、私は備えねばならないと思うのです。長年連れ添った夫婦の片方が無くなった途端、もう片方も程なく後を追うという事があり、これは喪失感の巨大さが強いストレスとなり、健康を損なったり精神を蝕んだりするためだそうです。私自身は極力長生きして、先々の世の移り変わりを眺めたいと希望するのですが、私がそう言う事態に遭遇したとき、そのストレスに抗しきれるかどうか。そうなったとき、もう未来はいいや、と投げ出してしまいそうな気が、現在の私にはあり得ると自己分析しております。これを避けるためには、最終的には何れかの宗教が受け皿になってくれそうですが、出来ればそういうものに安直に頼らず、色々検討した結果、神仏に頼るのがもっとも良い、と判断するくらいは、自分で考えたいのです。

 ところで自分自身の「死」については、全てが消失する以上、自分についてはあれこれ考えても仕方がない、と思っています。幽体離脱やいわゆる三途の川が見える、と言った臨死体験は、死という大きなストレスに晒された脳の異常活動による幻影、という事のようですが、もし、本当に死後の世界という物があり、死後も意識を保ち得るなら、是非体験してその仕組みを研究してみたい、とは思うのですけど、ね。そんなことをまじめに考えるくらい、自分の死については不真面目なようです。

コメント
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