今日夕方、またアマゾンからメールが届きました。表題は、「 ご注文の発送 」???
なんと、昨日のメールでは1ヶ月以上かかりそうなことを告げるメールを寄越しておきながら、一夜明けた途端今度は送りました、到着予定は12日です、と来たもんだ。
こういうことは、アマゾンではよくあることなのでしょうか? それは、届いてくれるのはうれしいのですが、たまたま明日は急に仕事で大阪へ出向くことになったので、この際当てにならないアマゾンはキャンセルして、休憩時間にでもついでに本屋さんに立ち寄ってみよう、と画策していたところだったのです。タイミングよく(?)、今日メールが届いたからその画策は未遂で済みましたが、このメールが明日来ていたら、と思うと、どうもなんというか釈然としない気持になります。なかなか神経太く行かないと、翻弄されてヘンに疲ればかりたまりそうな感じです。無事届くまでは気が抜けませんね。
さて、滋賀県の西浅井町にある塩津港遺跡という、琵琶湖の最北端にある考古遺跡で、平安時代後期の神像5体が発掘されたのだそうですhttp://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008111000622。写真を見ると、相当朽ち果てた姿をしており、中にはもう人型と認識するのも難しいのも含まれておりますが、専門家によると、服装から3体は女神像、一体は平安貴族の礼装で、冠を頂く男子像なのだそうです。高さは12-15センチということですから、正に手のひらサイズ、と言えます。発掘調査している滋賀県教育委員会の発表によると、昨年この遺跡から「起請文」という神様への誓約を記した木簡55本が出土しており、今回の神像発掘とあわせて、この遺跡がかつて神社だったことが証明された、としています。
その神社が歴史から消えてしまった背景には、どうやら当時の大地震で本殿が倒壊した可能性があるそうです。県教委と一緒に調査していた県文化財保護協会の見解ですが、確かに1185年(元暦2年)7月に、京都を中心に大地震があった、という記事が、当時の貴族が書いたいくつかの日記に記されています。中でも「山槐記」という、内大臣中山忠親の残した日記には、7月9日の本震以降、毎日余震の回数が記されており、それが8月26日まで続いたと記録されています。相当な大地震でもこれだけ揺れ続けるというのはまれなんじゃないでしょうか? そんな地震なら、ちょっとした神社が倒壊する、というのもうなづける気がいたします。
ところで1185年というと、2月に八島の合戦、3月に壇ノ浦の合戦で平家が滅んだ年。夢御前麗夢様や平智盛卿が無念の最期を遂げた、というお話がある重要な年です(笑)。出土した女神や貴族神像も、ひょっとしたら新品の当時は麗夢様や智盛卿のようなかわいらしくもりりしい姿だったのかもしれませんね。
なんと、昨日のメールでは1ヶ月以上かかりそうなことを告げるメールを寄越しておきながら、一夜明けた途端今度は送りました、到着予定は12日です、と来たもんだ。
こういうことは、アマゾンではよくあることなのでしょうか? それは、届いてくれるのはうれしいのですが、たまたま明日は急に仕事で大阪へ出向くことになったので、この際当てにならないアマゾンはキャンセルして、休憩時間にでもついでに本屋さんに立ち寄ってみよう、と画策していたところだったのです。タイミングよく(?)、今日メールが届いたからその画策は未遂で済みましたが、このメールが明日来ていたら、と思うと、どうもなんというか釈然としない気持になります。なかなか神経太く行かないと、翻弄されてヘンに疲ればかりたまりそうな感じです。無事届くまでは気が抜けませんね。
さて、滋賀県の西浅井町にある塩津港遺跡という、琵琶湖の最北端にある考古遺跡で、平安時代後期の神像5体が発掘されたのだそうですhttp://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008111000622。写真を見ると、相当朽ち果てた姿をしており、中にはもう人型と認識するのも難しいのも含まれておりますが、専門家によると、服装から3体は女神像、一体は平安貴族の礼装で、冠を頂く男子像なのだそうです。高さは12-15センチということですから、正に手のひらサイズ、と言えます。発掘調査している滋賀県教育委員会の発表によると、昨年この遺跡から「起請文」という神様への誓約を記した木簡55本が出土しており、今回の神像発掘とあわせて、この遺跡がかつて神社だったことが証明された、としています。
その神社が歴史から消えてしまった背景には、どうやら当時の大地震で本殿が倒壊した可能性があるそうです。県教委と一緒に調査していた県文化財保護協会の見解ですが、確かに1185年(元暦2年)7月に、京都を中心に大地震があった、という記事が、当時の貴族が書いたいくつかの日記に記されています。中でも「山槐記」という、内大臣中山忠親の残した日記には、7月9日の本震以降、毎日余震の回数が記されており、それが8月26日まで続いたと記録されています。相当な大地震でもこれだけ揺れ続けるというのはまれなんじゃないでしょうか? そんな地震なら、ちょっとした神社が倒壊する、というのもうなづける気がいたします。
ところで1185年というと、2月に八島の合戦、3月に壇ノ浦の合戦で平家が滅んだ年。夢御前麗夢様や平智盛卿が無念の最期を遂げた、というお話がある重要な年です(笑)。出土した女神や貴族神像も、ひょっとしたら新品の当時は麗夢様や智盛卿のようなかわいらしくもりりしい姿だったのかもしれませんね。