かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

05.転機その1

2010-06-19 22:53:00 | 麗夢小説『夢の匣』
「ふぁあああぁあぁ……、い、いけないっ!」
 慌てて口元に手をやり、焦った視線を隣に泳がせる。その目に飛び込んだのは、今にもこらえきれぬとばかりに大きく口を開けてあくびをする、恐怖の権化の姿だった。
「あぁあ……、っと、失礼、昨夜はどうも寝苦しくてね」
 軽い涙目で私を見やった教頭先生は、再び口を開きそうになると、珍しく慌てたように遠近両用メガネを外し、目頭をもんだ。私はほっと一息つくと、教頭先生に同調した。
「わ、私も、なんだかひどい夢を見たようで、あまり寝た気がしなくて……」
「ほう、それは奇遇ですね。実は私も何ともひどい夢を見たのですよ。ただ、ひどかった、ということしか覚えてなくて、内容は全く記憶に無いのですがね」
 同じだ。
 私は、目の前で日頃の謹厳実直さがいくらか割引かれたように少し気が抜けた教頭先生の言葉に、軽く目を瞠った。危うく私もと言いかけて、慌てて口をつぐむ。危ない危ない。ここで気を許したら、放課後の恐怖のカウンセリングが待っているに違いない。私は今度こそ緊張の汗を手に握ると、目の前の授業に集中した。
 今は理科室での授業で、テーマはカエルの解剖。私の子供の頃には普通にやられてた授業だけれど、イマドキの小学校ではもうほとんど教えるところはないらしい。でも、この南麻布学園は別で、動物の体の仕組みや生命の尊厳を理解するため、今でも欠かさず六年生の授業に取り入れられているのだ。もっとも、私の時は子供たち自ら近所の小川や田んぼから採ってきたカエルを使っていたが、さすがにこの都会でカエルを捕まえられるところなどないから、教材メーカーさんから仕入れた実験用のカエルを使っている。まあ昔は、先生がダメって言ってるのに大きなウシガエルを自慢げに持ってくる男の子グループがいたりして先生を困らせていたから、今は同じ種類、同じ大きさのカエルで実験できるだけありがたいかもしれない。今自分が教師になって初めて判ったと思う。昔の先生は偉かったんだなって。
 そうこうするうちにも、子供たちがワイワイガヤガヤと班に分かれ、今日のやることや手順などが書かれた黒板の前の実験台から、解剖用のバットやはさみをセットで持っていく。やがて、実験台の上からカエルが入ったガラス水槽と幾つかの蓋付きのガラスビーカーだけが残されたところで、教頭先生がげんなりした顔で私に言った。
「さて、本当に申し訳ないが、私はどうもこの解剖と言うのが苦手でね。綾小路先生、後は頼みましたよ」
「判りました。万事お任せ下さい!」
 私は少しの不安も残さないよう、痩せぎすの背中を丸める教頭先生の常ならぬ弱々しい姿を、最敬礼で見送った。嬉々として自らメスを振るいそうな、と思い込んでいただけに、授業の準備の下打ち合わせの時、初めて解剖が苦手だ、と聞いた時は、思わず声に出して、「うそでしょう?」と驚いてしまい、「そんなに意外ですか?」とあの目で冷たく睨みつけられたものだ。それでも直前まで疑っていたのだけれど、この様子だと本当に苦手なんだな、と判る。あの死神の弱点が見つかったと思うと、なんとなく嬉しい。それに何といってもお目付け役がいないと言うのは、私の精神衛生上とても都合がいい。寝不足は私も同じだけれど、そこは若さでカバーするのだ!
「先生、準備出来ました」
 副委員長さんの報告で、私は生徒たちに向き直った。そう、今日は何故かクラス委員長の荒神谷さんも体調が良くないと朝から休んでいる。いつも元気一杯の彼女にしては実に珍しいことだ。一応一番仲の良い纏向さん、斑鳩さん、眞脇君にそれとなく様子を聞いてみたが、ちょっと疲れが出たみたい、と私とさして変わらない程度の情報しか得られなかった。まあ女の子だし、具合の悪くなる時もあるだろう。荒神谷さんのことは、また後で確認するとして、ともかく今は目の前の授業に集中しないと。
「じゃあ次はカエルを配るから、グループからひとりずつ前に来て!」
8つの実験台に分かれていた子供たちから、選ばれた一人が出てきた。ほとんどは男の子だけれど、2人ほど女の子が混じっているのは、ジャンケンに負けたのかはたまた好奇心が旺盛なのか。精一杯胸を張って自信満々を演出している子や見るからに恐る恐ると言う感じの子とそれぞれ個性的な生徒たちの姿を微笑ましく見ながら、さり気なく理科室全体に目を配る。窓……OK。ちゃんと全開になっている。換気扇は……ちゃんと廻っている。火の気は……大丈夫。どこにもない。理科室の後ろの水槽には、いつも通り金魚のアルファ、ベータが静かにプカプカと浮かんでいるばかりで、変わったことも危ないことも何一つない。室温で気化して、麻酔効果が高く、しかも引火性もあるという危険物のジエチルエーテルの刺激的な匂いがかすかに鼻に届いている今、子供たちを昏睡や爆発の危険から遠ざけるためには、安全確認はしつこいほどしておくに越したことはないのだ。
「じゃあ一つづつ持っていってね。あ、蓋はまだ開けちゃダメよ!」
 私はカエルを一匹ずつ大きなピンセットでつまんでは、用意しておいたビーカーに入れ、手早くエーテルを少量注ぎこんで蓋をしては子供たちに渡す作業を繰り返した。シンナーのような独特の匂いが強くなり、目の前の子供たちがあからさまに顔をしかめる中、少数派の女子の一人、斑鳩星夜さんだけが、少し目を輝かせて順番を待っているようだ。
「この匂い……、何か懐かしいモノが有るな……」
 キミは幾つだ? と突っ込んでみたい衝動にかられるが、相手は生物なら既に博士号クラスの実力を持つスーパー小学生、斑鳩星夜さんだ。南麻布学園は日本の学校だから、教育基本法や学校教育法で認められていない以上、義務教育期間中の飛び級は出来ない。ただ、ある特定の科目について特別に優秀な成績を示す生徒には、その教科だけ上位クラスの授業を受けられるよう便宜を図る制度は、他の私立学校同様に存在する。斑鳩さんはその制度を最大限利用して生物学だけ高等教育を済ませた天才児だ。本来なら私などよりも余程理科の授業で教鞭をとれるだけの知識と経験を積んでいるはずなのに、こういう彼女にしたら幼稚なレベルに思える実験でも、特に嫌がったり偉ぶったりすることもなく、結構嬉々として授業を受けている。本質的にこういう事が好きでたまらないのだろう。学習の進度が異なる子たちが集まる教室で、もっとも先頭を走っている子がこういう態度で授業を受けてくれるのは、先生として本当にありがたい。
 最後に斑鳩さんが、エーテルでぐったりとなったカエル入りのビーカーを持って跳ねるように一番後ろのグループに戻った。いよいよ始まりだ。
「じゃあみんな、ピンセットでカエルを取り出して、仰向けにして解剖台に置いて!」
 きゃあ、とか、わぁ、とかにわかに理科室が騒がしくなり、私も自然声を大きくして、各実験台を見て回りながら、子供達に指示を出す。
「ピンで手足を止めたら一旦席について。全員準備ができたら始めるわよ!」
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