かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

巻向遺跡の桃の種が卑弥呼の時代のものと判明したのだそうな。

2018-05-14 20:13:18 | Weblog
 今朝の奈良市アメダスの最低気温は16.7℃、最高気温は25.8℃、五條市アメダスの最低気温は16.3℃、最高気温は25.1℃でした。昨日の雨は未明になってようやく上がったようで、今朝はまだ雲が多く晴れ間が覗く程度だった空模様も、昼には雲ひとつない快晴に恵まれました。気温もグングン上がって25℃を超えましたが、明日は更に気温が上がるのだそうで、ようやく本格的な初夏を迎え、上着も脱いで衣替えできそうです。

 さて、邪馬台国最有力候補地、奈良県桜井市の巻向遺跡で、2010年に出土した2800個にのぼる桃の種について、このほど放射性炭素年代測定法でいつ頃のものかが調査されました。その結果、西暦135年〜230年とみられることが判り、纒向学研究センター研究紀要「纒向学研究第6号」で発表されました。桃の種は、3世紀前半と見られる南北19.2m 東西12.4mの大型建物跡の南5mに掘られた穴から見つかったものですが、他にも時に付着していた炭化物やウリの種子も分析にかけられ、この年代を導き出したとのことです。邪馬台国については、九州説と畿内説の論争が侃々諤々と続けられてきました。この大型の建物跡についても、畿内説の研究者が出土した時の型式編年などの考古学的手法で3世紀前半と主張してきたのに対して、九州説の研究者はどういう根拠か判りませんが4世紀以降のもので邪馬台国とは無関係のもの、という主張がなされていました。今回の、恐らくは呪術に用いられたと思われる桃の種の測定年代は、その論争に大きな波紋を投げかける一石を投じたことになるでしょう。畿内説側は決定的証拠として欣喜雀躍となるでしょうし、九州説はこれにどう対抗するのか、今後の論争に期待したいものです。
 もっとも個人的には邪馬台国がどこにあって卑弥呼がどこに住んでいたかなど正直どうでも良いことです。もともと中国の歴史書にしか登場しないものですし、我が国に邪馬台国しか国がなかったのならともかく、大小様々な国が群雄割拠していて、そのうちの邪馬台国と中国から呼ばれた国が魏の都まで使者を遣わしたというだけで、邪馬台国が当時最強最大の国であったかどうか判りませんし、後の大和朝廷に繋がり、万世一系の源流となる国であったかどうかも証明のしようがありません。そんなことよりも、その当時、九州にも奈良にも、恐らくは他の多くの地にも、日本の礎となった様々な国や人々が居てしのぎを削っていた事のほうが面白そうです。そこから大和朝廷がどのように立ち上がり、天皇陛下が絶対者として君臨するに至ったかは大いに興味深いのですが、それは多分奈良や大阪にある巨大前方後円墳を発掘するなどしないと探るのは難しいように感じます。



邪馬台国の所在地をめぐっては、主に九州説と近畿説が対立してきた。大型建物の年代は、センターが土器形式など考古学の手法で3世紀前半とみてきた一方で、九州説を唱える専門家を中心に4世紀以降とみて、邪馬台国とは無関係との見方もあった。今回の分析結果は所在地論争に影響を与えそうだ。
コメント
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