甲斐の国、霊峰富士の家来の如く林立する深山の一角。谷川に架かるつり橋の下に、その若い僧はいた。
自然石が磨かれて平らになった岩の上で、その僧はじっと座禅を組んでいた。ほとんど巌と化した身はすっかりその世界に溶け込み、時折兎や小鳥が寄り添うように近づくこともある。
僧の名は、円光と言った。長身痩躯、まだ若いながらもその身は長年の荒行に鍛えられ、その心には、恐らく日本でも指折りの術者に数えられる変幻自在の法力を納めている。本人はまだ未熟者だと思いこんでいるが、このまま都にでれば、忽ち時代の寵児として、帝を始め貴賎の別なく絶大な信仰を獲得することが出来るだろう。それだけの実力を、この若者は既に培っているのである。
日本全国、大小の修行場を経巡った円光は、次の場所に霊峰富士を選んだ。こんな名もない山中に引っかかっているのは、清い水と緑に溢れ、格好の滝まですぐそこに落ちているのが気に入って、富士山入峰の前に禊ぎしようと思い立ったからだった。
円光の目に映る吊り橋は、かづらの類を編み込んだごくありふれた山の橋である。が、誰のために架けられたものか、この地に留まって既に何日にもなると言うのに、円光は一人としてそこを渡る者を見なかった。この吊り橋の先には夢隠しの郷と言う山村があるはずだが、既に廃村にでもなっているのか、と円光に考えさせるほど、絶えて人の気配がない。
そんなある日のこと。橋の下でいつものように座禅を組んでいた円光は、初めて吊り橋を渡る人の姿を見た。大きな笠に顔を半ば埋め、簡素にまとめた腰まで届く髪を、長旅にすり切れた小袖の背中に打ち掛けている。
(女だ)
円光は相手の性別を知って、無視しきれなかった己の不徳を恥じた。久米の仙人は、娘のはぎの白さに目が眩んで雲から落ちたと言うが、これでは自分もその仙人を笑うことは出来ない。
自嘲することしきりの円光は、今度はその娘の奇妙な振る舞いに眼がいってしまった。吊り橋は見た目よりも遥かに頑丈に作られており、人一人渡るくらいならそう揺れもしないものだった。ところがその娘が一歩足を進めるごとに、橋は大きく左右に傾ぎ、娘は思わず綱にしがみついて辛うじてその身を支えるばかりである。理由は直ぐに知れた。娘の足が、立っているのもやっとではないかと言うくらいにふらついており、それが橋の揺れに直結しているのである。娘は真ん中まで進んだ所で、とうとう動けなくなったようだった。円光は、座禅をやめて立ち上がった。修行中の身とて女性に近づくのははばかられたが、難渋しているものを放置するわけにもいかなかった。
「娘さん、そのまま動かずに。今助けに参る」
娘が顔を上げたように円光には見えた。だが、仰向けに一瞬のけぞった身は、次の揺れで振り子のように前屈みになり、そのまま崩れて綱の間から身を投げ出した。かぶっていた笠が飛び、後を追うように娘がその身体を下の川へと落としたとき、円光の身も、ほとんど同時に水柱を上げていた。
見た目を遥かに越える力が、円光の身体をぐいと下流に押し出した。立てば足の立つ深さなのだが、瀬の岩に砕ける奔流は、円光が逆らうことを許さない力でその身を下流に連れ去ろうとする。円光は流れを出来るだけいなしながら、上から流れてきた娘の身体を抱き留めた。二人分の体重が危うく足をすくったが、円光は辛くも踏んばった。流れの先は、円光が修行に丁度好いと思っていた滝である。高さ十丈の垂直のほとばしりは、巻き込まれればたとえ円光といえども無傷では済まない。円光は、満身の力を込めて岸に這いあがった。
円光はそのまま娘を抱き抱え、最前まで座禅を組んでいた岩の上にそっと下ろした。改めてその小柄な身体を見た円光は、不浄に触れたことに対する自虐心が吹き飛んでしまうほどの衝撃を受けた。もし円光が冷静だったなら、成る程これが久米仙人を落とした力かと妙に納得したことだろう。しかし、今の円光にそんなゆとりは露ほどもない。冷え切った身体に、何故か顔ばかりが熱い湯に突っ込んだように火照り、高鳴る心臓が円光を狼狽させた。円光は、どうしても娘から眼をそむけることが出来なかった。
娘は、少なくとも見かけは少女と言ってよい幼さを全体に残していた。抜けるようなと言う形容はこの少女のために作られたのではないかと言う肌。長く、形の良いまつげがその先に細かい水玉をつるす様子。腰まで届く緑の黒髪が、濡れた艶を輝かせながらほどけて扇に開き、その衣装から透ける肢体は、あくまでたおやかに円光の心を吸い上げた。円光は、その閉じられた目を見たいと思った。そして、そう思ったことにまた新たな衝撃を受けた。自分が、女性の瞳を覗いてみたいと思うなんて・・・。自分の思いに気がつくたび、円光は慌てて頭を振った。だが、ひとしきり振られた頭は、また目の前の傾城に吸い付いてしまう。これではいけない。そう思いつつも、円光はどうしようも出来ないままただ呆然と立ち尽くしたのである。
自然石が磨かれて平らになった岩の上で、その僧はじっと座禅を組んでいた。ほとんど巌と化した身はすっかりその世界に溶け込み、時折兎や小鳥が寄り添うように近づくこともある。
僧の名は、円光と言った。長身痩躯、まだ若いながらもその身は長年の荒行に鍛えられ、その心には、恐らく日本でも指折りの術者に数えられる変幻自在の法力を納めている。本人はまだ未熟者だと思いこんでいるが、このまま都にでれば、忽ち時代の寵児として、帝を始め貴賎の別なく絶大な信仰を獲得することが出来るだろう。それだけの実力を、この若者は既に培っているのである。
日本全国、大小の修行場を経巡った円光は、次の場所に霊峰富士を選んだ。こんな名もない山中に引っかかっているのは、清い水と緑に溢れ、格好の滝まですぐそこに落ちているのが気に入って、富士山入峰の前に禊ぎしようと思い立ったからだった。
円光の目に映る吊り橋は、かづらの類を編み込んだごくありふれた山の橋である。が、誰のために架けられたものか、この地に留まって既に何日にもなると言うのに、円光は一人としてそこを渡る者を見なかった。この吊り橋の先には夢隠しの郷と言う山村があるはずだが、既に廃村にでもなっているのか、と円光に考えさせるほど、絶えて人の気配がない。
そんなある日のこと。橋の下でいつものように座禅を組んでいた円光は、初めて吊り橋を渡る人の姿を見た。大きな笠に顔を半ば埋め、簡素にまとめた腰まで届く髪を、長旅にすり切れた小袖の背中に打ち掛けている。
(女だ)
円光は相手の性別を知って、無視しきれなかった己の不徳を恥じた。久米の仙人は、娘のはぎの白さに目が眩んで雲から落ちたと言うが、これでは自分もその仙人を笑うことは出来ない。
自嘲することしきりの円光は、今度はその娘の奇妙な振る舞いに眼がいってしまった。吊り橋は見た目よりも遥かに頑丈に作られており、人一人渡るくらいならそう揺れもしないものだった。ところがその娘が一歩足を進めるごとに、橋は大きく左右に傾ぎ、娘は思わず綱にしがみついて辛うじてその身を支えるばかりである。理由は直ぐに知れた。娘の足が、立っているのもやっとではないかと言うくらいにふらついており、それが橋の揺れに直結しているのである。娘は真ん中まで進んだ所で、とうとう動けなくなったようだった。円光は、座禅をやめて立ち上がった。修行中の身とて女性に近づくのははばかられたが、難渋しているものを放置するわけにもいかなかった。
「娘さん、そのまま動かずに。今助けに参る」
娘が顔を上げたように円光には見えた。だが、仰向けに一瞬のけぞった身は、次の揺れで振り子のように前屈みになり、そのまま崩れて綱の間から身を投げ出した。かぶっていた笠が飛び、後を追うように娘がその身体を下の川へと落としたとき、円光の身も、ほとんど同時に水柱を上げていた。
見た目を遥かに越える力が、円光の身体をぐいと下流に押し出した。立てば足の立つ深さなのだが、瀬の岩に砕ける奔流は、円光が逆らうことを許さない力でその身を下流に連れ去ろうとする。円光は流れを出来るだけいなしながら、上から流れてきた娘の身体を抱き留めた。二人分の体重が危うく足をすくったが、円光は辛くも踏んばった。流れの先は、円光が修行に丁度好いと思っていた滝である。高さ十丈の垂直のほとばしりは、巻き込まれればたとえ円光といえども無傷では済まない。円光は、満身の力を込めて岸に這いあがった。
円光はそのまま娘を抱き抱え、最前まで座禅を組んでいた岩の上にそっと下ろした。改めてその小柄な身体を見た円光は、不浄に触れたことに対する自虐心が吹き飛んでしまうほどの衝撃を受けた。もし円光が冷静だったなら、成る程これが久米仙人を落とした力かと妙に納得したことだろう。しかし、今の円光にそんなゆとりは露ほどもない。冷え切った身体に、何故か顔ばかりが熱い湯に突っ込んだように火照り、高鳴る心臓が円光を狼狽させた。円光は、どうしても娘から眼をそむけることが出来なかった。
娘は、少なくとも見かけは少女と言ってよい幼さを全体に残していた。抜けるようなと言う形容はこの少女のために作られたのではないかと言う肌。長く、形の良いまつげがその先に細かい水玉をつるす様子。腰まで届く緑の黒髪が、濡れた艶を輝かせながらほどけて扇に開き、その衣装から透ける肢体は、あくまでたおやかに円光の心を吸い上げた。円光は、その閉じられた目を見たいと思った。そして、そう思ったことにまた新たな衝撃を受けた。自分が、女性の瞳を覗いてみたいと思うなんて・・・。自分の思いに気がつくたび、円光は慌てて頭を振った。だが、ひとしきり振られた頭は、また目の前の傾城に吸い付いてしまう。これではいけない。そう思いつつも、円光はどうしようも出来ないままただ呆然と立ち尽くしたのである。
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