「ふう、たまらんな」
黒光りした丸太のような腕が、同じ色をした額の上を滑る。出来れば冷たい谷川に首ごと突っ込みたいところだが、ここが峠の頂上とあってはそれもかなわない。狂乱の蝉時雨すら虚ろに響く猛暑の昼下がり、鎌倉の清和源氏、榊は、直ぐ後に続く郎党衆を見やりながら、一時休息を号令した。榊は、何人もの旅人が振り仰いだに違いない古木の前で馬を下りた。その脇に、自然石に彫りつけた道しるべがある。その指し示すこれから下りる先は、夢隠、といった。榊は道標を見つめながらつい独り言をこぼした。
「一体この先に何があると言うんだ?」
それは鄙びた山里だろうと心の内で言ってみる。外界との接触も少なく、皆が皆、互いの顔を見知った平和な運命共同体。我々はその平和をかき乱し、桃源郷さながらの浮き世離れした生活に、辱世の混乱を運び込もうとしているのだろうか……。日の出の勢いの当世源氏には珍しく、榊の頭の中には、時折一種冷めた風が吹き込んでくる。鎌倉の二位殿こと源頼朝は、だからこそ数ある侍大将の中から榊にこの重任を与えたのだった。現在、源氏の頭領頼朝の立場はやや微妙である。平氏こそ覆滅したとはいえ、日増しに険悪さを加える弟九郎義経との関係、北にうごめく平泉の老策士、藤原氏の存在、そして西国には、うわべこそ白旗になびいているように見せかけて、心の内ではまだ平氏の赤旗に同情している者も少なくない。大勢が覆ることはなさそうにも思えたが、平氏の凋落も、その始めは誰しもこんなことになろうとは、夢にも思わなかったのである。そうであればこそ、頼朝は慎重だった。頼朝としては、たとえ知る人とて少ない一山村にさえ、自分の声望を傷つけかねない猪武者を派遣するわけにはいかないのである。榊は、そんな微妙な情勢を理解した上で行動できる、数少ない良将だった。
榊がそうしてたたずんでいると、一人の郎党が近づいてきて榊に言った。
「この先の郷には、徐福の墓があるそうですよ」
榊は、それが今しがた呟いた言葉への答えであることに、少しの間気づかなかった。恐らく随分と間の抜けた顔をしていたに違いない、と苦笑をかみ殺しつつ、榊は言った。
「徐福とは、何者だね」
大将に聞いて貰えるのがうれしいのか、その若い郎党は得々として語りだした。
「徐福と申しますのは、今から千二百年前、唐を治めました虎狼国の王に仕えていた隠陽師であります。何でも、その王が不老不死の薬を求めて我が国に徐福を派遣したそうです。上陸後、徐福はあちこち不老不死の薬を持つ仙人を捜して国中を歩いたそうですが、遂にこの地で最後を迎えたとか」
「ほう、それで不老不死の薬は見つかったのか?」
「それが、見つかって自ら仙人になったという者もありますし、見つからずに失意の内に亡くなったという話もあります。本当の所はどうだったんでしょうね」
こっちが聞きたいのだ、と榊は苦笑したが、相手の博識に対する素直な賞賛だけは忘れなかった。
「しかし、それにしても詳しいじゃないか」
すると、その郎党は少しはにかんで榊に言った。
「いえ、実は私の在所にもここと同じような徐福の墓があるんですよ。それについて、幼いときから年寄りが何かにつけて話をするものですからすっかり耳に付いてしまったと言うわけでして」
「成る程な。しかしおまえの話だと、徐福の墓はあちこちにあるようじゃないか」
「はい。他の連中にも聞いて見たことがあるのですが、どうも日本中に墓の類があるそうです」
「ふうん、妙なものだな」
千年も前に、唐から渡ってきた隠陽師か。その存在は榊の想像の手に余ったが、王の命を受け、命を省みず異郷の地に臨んだ男の心情は、理解できるような気がした。果たして薬は見つけたのだろうか。見つけたなら今も生きていて不思議はないはずだが、もしそうなら一言話をしてみたいものだ。榊はまたも道標を見つめながら、見たこともない男の身の上に興味を抱き、他愛ない思いを弄んだ。
榊が遠くを望むように目を細めるうちにも、郎党衆はりく続として峠のさして広くない頂上に集まってくる。さすがにその場にへたり込む者はないが、顔は汗と疲労にまみれ、炎天下のつづら折れのつらさを物語っていた。
「どけ、どかんかこの馬鹿もの!」
突然、場違いな金切り声が疲れ切った空気を切り裂いた。
「いかがなさいました、八条大夫」
空想を中断された榊の、湿り気のない、声量豊かな低音が、郎党衆の頭上を駆け抜けた。臨界点に達しようとした不満と不快が、その声で僅かばかりのゆとりを取り戻す。最も、八条と呼ばれた男の不満は、臨界点をとうに越えていた。
「どうもこうもないわ!」
五位判官代八条雅房は、横幅だけは榊に勝るとも劣らない巨体を揺すりながら、見えているのかと不思議になるような細い目をきっと吊り上げて、榊をにらみつけた。
黒光りした丸太のような腕が、同じ色をした額の上を滑る。出来れば冷たい谷川に首ごと突っ込みたいところだが、ここが峠の頂上とあってはそれもかなわない。狂乱の蝉時雨すら虚ろに響く猛暑の昼下がり、鎌倉の清和源氏、榊は、直ぐ後に続く郎党衆を見やりながら、一時休息を号令した。榊は、何人もの旅人が振り仰いだに違いない古木の前で馬を下りた。その脇に、自然石に彫りつけた道しるべがある。その指し示すこれから下りる先は、夢隠、といった。榊は道標を見つめながらつい独り言をこぼした。
「一体この先に何があると言うんだ?」
それは鄙びた山里だろうと心の内で言ってみる。外界との接触も少なく、皆が皆、互いの顔を見知った平和な運命共同体。我々はその平和をかき乱し、桃源郷さながらの浮き世離れした生活に、辱世の混乱を運び込もうとしているのだろうか……。日の出の勢いの当世源氏には珍しく、榊の頭の中には、時折一種冷めた風が吹き込んでくる。鎌倉の二位殿こと源頼朝は、だからこそ数ある侍大将の中から榊にこの重任を与えたのだった。現在、源氏の頭領頼朝の立場はやや微妙である。平氏こそ覆滅したとはいえ、日増しに険悪さを加える弟九郎義経との関係、北にうごめく平泉の老策士、藤原氏の存在、そして西国には、うわべこそ白旗になびいているように見せかけて、心の内ではまだ平氏の赤旗に同情している者も少なくない。大勢が覆ることはなさそうにも思えたが、平氏の凋落も、その始めは誰しもこんなことになろうとは、夢にも思わなかったのである。そうであればこそ、頼朝は慎重だった。頼朝としては、たとえ知る人とて少ない一山村にさえ、自分の声望を傷つけかねない猪武者を派遣するわけにはいかないのである。榊は、そんな微妙な情勢を理解した上で行動できる、数少ない良将だった。
榊がそうしてたたずんでいると、一人の郎党が近づいてきて榊に言った。
「この先の郷には、徐福の墓があるそうですよ」
榊は、それが今しがた呟いた言葉への答えであることに、少しの間気づかなかった。恐らく随分と間の抜けた顔をしていたに違いない、と苦笑をかみ殺しつつ、榊は言った。
「徐福とは、何者だね」
大将に聞いて貰えるのがうれしいのか、その若い郎党は得々として語りだした。
「徐福と申しますのは、今から千二百年前、唐を治めました虎狼国の王に仕えていた隠陽師であります。何でも、その王が不老不死の薬を求めて我が国に徐福を派遣したそうです。上陸後、徐福はあちこち不老不死の薬を持つ仙人を捜して国中を歩いたそうですが、遂にこの地で最後を迎えたとか」
「ほう、それで不老不死の薬は見つかったのか?」
「それが、見つかって自ら仙人になったという者もありますし、見つからずに失意の内に亡くなったという話もあります。本当の所はどうだったんでしょうね」
こっちが聞きたいのだ、と榊は苦笑したが、相手の博識に対する素直な賞賛だけは忘れなかった。
「しかし、それにしても詳しいじゃないか」
すると、その郎党は少しはにかんで榊に言った。
「いえ、実は私の在所にもここと同じような徐福の墓があるんですよ。それについて、幼いときから年寄りが何かにつけて話をするものですからすっかり耳に付いてしまったと言うわけでして」
「成る程な。しかしおまえの話だと、徐福の墓はあちこちにあるようじゃないか」
「はい。他の連中にも聞いて見たことがあるのですが、どうも日本中に墓の類があるそうです」
「ふうん、妙なものだな」
千年も前に、唐から渡ってきた隠陽師か。その存在は榊の想像の手に余ったが、王の命を受け、命を省みず異郷の地に臨んだ男の心情は、理解できるような気がした。果たして薬は見つけたのだろうか。見つけたなら今も生きていて不思議はないはずだが、もしそうなら一言話をしてみたいものだ。榊はまたも道標を見つめながら、見たこともない男の身の上に興味を抱き、他愛ない思いを弄んだ。
榊が遠くを望むように目を細めるうちにも、郎党衆はりく続として峠のさして広くない頂上に集まってくる。さすがにその場にへたり込む者はないが、顔は汗と疲労にまみれ、炎天下のつづら折れのつらさを物語っていた。
「どけ、どかんかこの馬鹿もの!」
突然、場違いな金切り声が疲れ切った空気を切り裂いた。
「いかがなさいました、八条大夫」
空想を中断された榊の、湿り気のない、声量豊かな低音が、郎党衆の頭上を駆け抜けた。臨界点に達しようとした不満と不快が、その声で僅かばかりのゆとりを取り戻す。最も、八条と呼ばれた男の不満は、臨界点をとうに越えていた。
「どうもこうもないわ!」
五位判官代八条雅房は、横幅だけは榊に勝るとも劣らない巨体を揺すりながら、見えているのかと不思議になるような細い目をきっと吊り上げて、榊をにらみつけた。
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