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神長官守谷史料館

今回の旅行は、天候に恵まれました。 地元の方に聞くと1週間ほどずっと愚図ついた天気が続いていたそうで、「今日は久しぶりの晴れ」だったようです。
そんな青空の下、神長官守谷史料館に立ち寄りました。

近くに生家のある建築築史家の藤森照信氏が初めて設計した建物で、躯体はRC造ですが、屋根には地元特産の鉄平石葺き、外壁はワラを混ぜたモルタルとサワラ等の自然素材を用いて、風景の中に溶け込んでいます。
4本のイチイを用いた「屋根突き柱」は諏訪大社の御柱を連想しているとのことです。

近くで見上げると、中の2本の柱何か刺さっているようです。
柱に刺さっているのは「薙鎌(なぎがま)」と云って、本来の用途は、薙ぐ、突く、切る、刃を引っ掛けて相手を倒すなどに用いる『武器』ですが、「魔よけ」とされ、諏訪大社では、御柱に選ばれた木に目印として薙鎌を打ち込むそうですが、御柱を引っ張る時には危険なので外してしまうようで、諏訪大社の境内に立っている御柱に薙鎌はついていませんでした。
神長官守谷史料館の薙鎌は、茅野市長が打ったそうです。
『薙鎌』

狭い館内に入るとそこには江戸時代の「御頭祭」の模様を再現した鹿や猪、串刺しにされた兎(剥製)が並んでいます。

そもそも、守矢家は、諏訪の先住民族の長であった洩矢神(もりや(または「もれや」)のかみ)の子孫と言われ、明治の初めまで諏訪大社の神長(筆頭神官)を勤めてきた一族であったそうですが、この守矢家の祖先と言われる洩矢神は、諏訪大社の成り立ちに大きな関係があるようです。


諏訪の地でも、出雲の神話のような先住民族と後に入ってきた農耕(稲作)民族の争いの歴史があったようで、今の守谷家に繋がる諏訪の先住民族は、現在の前宮周辺を中心に、土着信仰であるミシャグジ神を崇敬し、その祭事を執り行っていましたが、出雲からやってきた稲作民族と、天竜川を挟んで激しく戦いますが、この戦いに勝ったのは出雲から入ってきた稲作民族でした。
戦に勝利した彼らは、諏訪大明神として祭られ、その子孫は生神である「大祝(おおほうり)」と呼ばれるようになります。
その一方で、戦いに敗れた洩矢神の子孫も、「神長」として「大祝」に仕えながら神事を執り行い、祭祀と政治の実権を持ち続けた…という歴史があったようです。


そんな半ば『神話』の世界の話を聞きながら、鹿や猪を眺めていると、太古の昔に引き込まれていく様な気がしてきます。





こちらは、「御頭祭」で神前に供される75頭の鹿の中に必ず1頭入っていると言われる「耳裂け鹿」。
神の矛にかかって耳が裂けたと云われています。



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