平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

足尾から来た女 前編~福島や沖縄を想起させる国家のために犠牲にされる個人や住民たち。

2014年01月25日 | その他ドラマ
 <足尾銅山鉱毒事件>は<福島の原発事故>を想起させる。
 国策と企業のエゴ。
 被害に遭い、立ち退きを迫られる住民たち。

 いつの時代でも<小さなもの>は犠牲になるのだ。
 それはこんな田中正造(柄本明)の言葉に象徴される。
「1軒の家より100軒の家。
 村より町。
 町より都。
 国はそう考えるってな。
 だが、それは違う。
 100軒の家のために1軒の家を殺すのは野蛮国だ。
 町のために村を潰すのも野蛮国だ。
 さっちゃんなぜ 野蛮か分かるか?
 都をつくったのは 町なんだ。
 町をつくったのは 村なんだ。
 100軒の家も1軒の家から始まったんだ」

 個人よりも国家。
 住民よりも国家。
 国家存続のためなら個人や住民は犠牲になっていいという考え方。
 これは沖縄の基地問題にも通じる。
 そして、この考え方を象徴するのが、主人公の兄・信吉(岡田義徳)の言葉だ。
「鉄砲の弾だ。これで俺たちはロシアと戦ったんだ。
 こいつのおかげで俺たちは勝ったんだ!
 いいか? これは足尾銅山の銅で作られた弾だ。
 俺たちが目の敵にしてる銅山で採れた銅なんだ」
 一見、正しい主張に見えるが、それで個人や住民が犠牲になっていい、ということではない。
 主人公たちの時代では難しかったかもしれないが、少なくとも現在に生きるわれわれは苦難の末、獲得してきた<人権>というものを簡単に手放してはいけないと思う。
 それに権力者や上の連中は<国家>や<愛国心>という都合のいい言葉を使って、個人に犠牲を強いてくる。
 だが、その背景にあるのは、儲けたいとか自分たちの地位や既得権、贅沢な生活を守りたいということだ。

 また、上から押しつけてくる<愛国心>というのも胡散臭いもので、
 本当の愛国心とは主人公・新田サチ(尾野真千子)のような、素朴に自分の生まれ育った故郷を愛し、大切に思う気持ちではないか?

 さて、本日は後編が放送。
 おそらくはサチの目覚めと成長が描かれるのでしょうが、どのように描かれるか楽しみです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする