<足尾銅山鉱毒事件>は<福島の原発事故>を想起させる。
国策と企業のエゴ。
被害に遭い、立ち退きを迫られる住民たち。
いつの時代でも<小さなもの>は犠牲になるのだ。
それはこんな田中正造(柄本明)の言葉に象徴される。
「1軒の家より100軒の家。
村より町。
町より都。
国はそう考えるってな。
だが、それは違う。
100軒の家のために1軒の家を殺すのは野蛮国だ。
町のために村を潰すのも野蛮国だ。
さっちゃんなぜ 野蛮か分かるか?
都をつくったのは 町なんだ。
町をつくったのは 村なんだ。
100軒の家も1軒の家から始まったんだ」
個人よりも国家。
住民よりも国家。
国家存続のためなら個人や住民は犠牲になっていいという考え方。
これは沖縄の基地問題にも通じる。
そして、この考え方を象徴するのが、主人公の兄・信吉(岡田義徳)の言葉だ。
「鉄砲の弾だ。これで俺たちはロシアと戦ったんだ。
こいつのおかげで俺たちは勝ったんだ!
いいか? これは足尾銅山の銅で作られた弾だ。
俺たちが目の敵にしてる銅山で採れた銅なんだ」
一見、正しい主張に見えるが、それで個人や住民が犠牲になっていい、ということではない。
主人公たちの時代では難しかったかもしれないが、少なくとも現在に生きるわれわれは苦難の末、獲得してきた<人権>というものを簡単に手放してはいけないと思う。
それに権力者や上の連中は<国家>や<愛国心>という都合のいい言葉を使って、個人に犠牲を強いてくる。
だが、その背景にあるのは、儲けたいとか自分たちの地位や既得権、贅沢な生活を守りたいということだ。
また、上から押しつけてくる<愛国心>というのも胡散臭いもので、
本当の愛国心とは主人公・新田サチ(尾野真千子)のような、素朴に自分の生まれ育った故郷を愛し、大切に思う気持ちではないか?
さて、本日は後編が放送。
おそらくはサチの目覚めと成長が描かれるのでしょうが、どのように描かれるか楽しみです。
国策と企業のエゴ。
被害に遭い、立ち退きを迫られる住民たち。
いつの時代でも<小さなもの>は犠牲になるのだ。
それはこんな田中正造(柄本明)の言葉に象徴される。
「1軒の家より100軒の家。
村より町。
町より都。
国はそう考えるってな。
だが、それは違う。
100軒の家のために1軒の家を殺すのは野蛮国だ。
町のために村を潰すのも野蛮国だ。
さっちゃんなぜ 野蛮か分かるか?
都をつくったのは 町なんだ。
町をつくったのは 村なんだ。
100軒の家も1軒の家から始まったんだ」
個人よりも国家。
住民よりも国家。
国家存続のためなら個人や住民は犠牲になっていいという考え方。
これは沖縄の基地問題にも通じる。
そして、この考え方を象徴するのが、主人公の兄・信吉(岡田義徳)の言葉だ。
「鉄砲の弾だ。これで俺たちはロシアと戦ったんだ。
こいつのおかげで俺たちは勝ったんだ!
いいか? これは足尾銅山の銅で作られた弾だ。
俺たちが目の敵にしてる銅山で採れた銅なんだ」
一見、正しい主張に見えるが、それで個人や住民が犠牲になっていい、ということではない。
主人公たちの時代では難しかったかもしれないが、少なくとも現在に生きるわれわれは苦難の末、獲得してきた<人権>というものを簡単に手放してはいけないと思う。
それに権力者や上の連中は<国家>や<愛国心>という都合のいい言葉を使って、個人に犠牲を強いてくる。
だが、その背景にあるのは、儲けたいとか自分たちの地位や既得権、贅沢な生活を守りたいということだ。
また、上から押しつけてくる<愛国心>というのも胡散臭いもので、
本当の愛国心とは主人公・新田サチ(尾野真千子)のような、素朴に自分の生まれ育った故郷を愛し、大切に思う気持ちではないか?
さて、本日は後編が放送。
おそらくはサチの目覚めと成長が描かれるのでしょうが、どのように描かれるか楽しみです。