平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

ロッキー・ザ・ファイナル

2007年09月20日 | 洋画
 エイドリアンを亡くし過去に生きているロッキー。
 過去の実績からそれなりのリスペクトを受け、レストラン「エイドリアンズ」も盛況。自分の選手時代の話を聞きに客がやって来る。
 精肉会社を首になったポーリーや過去に闘ったスパイダー、街の不良少女だったリトル・マリーらも自分の店で働かせ、愛情を注いでいる。
 親の七光りと言われロッキーから距離をおいている息子のことは気になるが、それなりに穏やかな生活だ。

 この枯れ方がいい。
 リトル・マリー(←ロマンスの相手)や息子との距離の取り方も一定で、敢えて近づこうとしない。彼らとの気持ちの問題を解決しようとしない。マリーの息子と犬を見に行くくらいの関わり。
 愛を歌いあげ、高らかに平和をメッセージした(「ロッキー4」)ギラギラしたロッキーとは全然違う。
 僕は今回のロッキーの方が好きだ。
 「ロッキー4」のロッキーはマンガだが、こちらには現実や実人生に根ざしたリアリティがある。
 作品全体はモノトーンで短調。

 ということで名作の期待。
 しかし、ロッキーが再びボクサーに復帰する意思を持ち、瞬殺のチャンピオン・ディクソンと闘い始める所からリアリティがなくなる。
 ロッキーの闘う理由に説得力がないからだ。
 まだ燃え尽きていなかったことが、今回復帰する理由なのだが、それが十分に描写されていなかったため、唐突に見える。
 くすぶっていた火が燃え上がるきっかけはコンピュータのディクソンとのシュミュレーション映像を見たことだが、それだけでなぜ闘う気になうのか?
 「まだ燃え尽きていない」というせりふの一言だけでは説得力がない。
 それまでの枯れっぷりがあまりに見事だっただけに、実にもったいない。
 距離をおいていた息子にも「自分がうまくいかないのを他人のせいにするな」「自分を信じろ」と言い始めるし。
 これらの気持ちの動きをもっと丹念に描いてほしかった。
 
 しかしまあ、そこは「ロッキー」シリーズ。
 トレーニングシーンから試合シーンになるとそんな理屈関係なく引き込まれてエキサイトしてしまう。
 今回のトレーニングは相手を粉砕するメガトンパンチを習得すること。関節が錆びついた(←見事な表現)ロッキーにはそう闘うしかないらしい。
 試合では飛びそうになる意識の中で過去が去来するという描写が見事。ゴングが鳴ると観客席のマリーと目をかわし合ってファイトに向かうというのもいい。コーチの檄や息子の「父さんはもう笑い者じゃない」という言葉が試合を盛り上げる。

 中間の物足りなさはあるが、作品の前半と後半は見事!

★追記
 エイドリアンのお墓の前で折りたたみイスに座り亡き妻を思うロッキー。
 帰る時は、お墓のそばにある大木に折りたたみイスを置いていく。
 この描写だけでロッキーがお墓に頻繁に来ていることがわかる。
 1シーンが単なるお墓参りでなく、いろいろなことを想像させる。
 作品の1シーンはこうあるべき。

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