文治元年 (1185)七月九日 大地震 あり、守覚は七月十日 地震御祈りのため、院御所で 一字金輪法、八月十九日から廿日まで院御所で孔雀経法を修法(山槐記) . . . 本文を読む
弘仁三年812八月十九日 伝教大師は弘法大師に書を送られました。 文中、「但し遮那宗は天台と融通し、疏宗亦同じ」「亦一乗の旨、真言と異なることなし」と記し、「法華一乗と真言一乗は等しくなんら異なることはない」との密教観が窺えるものとなっている。「辱くも金札を抂げられ、仏法の旨を告ぐ。歓ばしきかな、先期を忘れず、今に膠漆を存つ。両家方を伝うること、朝夕慮となす。今高計を承り、仰ぎ□婿と極りなし。然る . . . 本文を読む
今日は鰐淵寺に後醍醐天皇が宸筆御願文を書かれた日国宝「御願文 島根県鰐淵寺蔵敬白 右心中所願 速疾成就せしめたまはば 根本薬師堂造営急速に其の功終り顕密の興隆致すべき之状件の如し。元弘二年八月十九日 花押」「宸翰英華」に「出雲鰐淵寺は天台宗の古刹。・・・後醍醐天皇は隠岐にましまし、皇道の再興を思召立たされ、元弘二年八月十九日 国分寺行在所よりこの御願文を鰐淵寺南院の住僧頼源に賜り、御宿願 . . . 本文を読む
元亨四年具注歴裏書「康和二年1100八月十九日、癸丑、宮中御修法始めらる。薬師・仁覚座主、不動・仁源、降三世・實慶、軍荼利・静意、大威徳・尋仁、金剛夜叉・兼賢。」(五壇法記にはこの年九月三日にも「中宮御邪気、五壇法修せらる」とあります。)天皇は堀河天皇。中宮は後三条天皇第四皇女篤子内親王。 篤子内親王は、30歳近くになってから19歳も年下の甥である堀河天皇の后となりますが、嘉承2年(1107年)7 . . . 本文を読む
元亨四年具注歴裏書「康和二年1100八月十九日、癸丑、宮中御修法始めらる。薬師・仁覚座主、不動・仁源、降三世・實慶、軍荼利・静意、大威徳・尋仁、金剛夜叉・兼賢。」(五壇法記にはこの年九月三日にも「中宮御邪気、五壇法修せらる」とあります。)天皇は堀河天皇。中宮は後三条天皇第四皇女篤子内親王。 篤子内親王は、30歳近くになってから19歳も年下の甥である堀河天皇の后となりますが、嘉承2年(1107年)7 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 6/14巻の7/22
七小児井戸に墜つるを夢中に救給ふ事
常州筑波山の傍に年七旬に傾ける入道の地蔵尊の像を求め願ひ奉りけるが餘の事に自信に地蔵の尊形を造立し奉り・・刻み刻りて念比の渇仰し奉る。家内は云ふに及をよばず知音朋類に至るまで此の地蔵尊を拝敬せぬ人を或いは恨み或いははずかしめけるほどに心中は染まざれども外面を信ずる躰するものあり。亦は宿善の輩は彼の真心に呼び起こされ俱 . . . 本文を読む
今日は後水尾法皇崩御の日です。後水尾法皇は、延宝八年(1680)八月十九日に八十五歳でご逝去されました。泉涌寺において葬礼が行われ、月輪陵に葬られています。京都万福寺では毎年此の日に後水尾法皇忌がとりおこなわれているようです。法皇は、正明寺と地安寺(甲賀市土山町前野)の御開山である龍渓禅師に深く帰依され、弟子となり、 法を嗣がれ、黄檗宗の開山隠元禅師の法孫になられています。和歌を重んじ、廃絶しかけ . . . 本文を読む