今日(延暦23年80410月13日)は大師が藤原葛野麻呂に代わり福州観察使に上陸を求める書を出された日です.高野大師御高傳に「延暦二十三年十月十三日、大師賀能の為に書を作し衝州観察使いに云う・・」とあり、以下の文があります。「大使、福州ノ観察使ニ与フル為ノ書」賀能啓ス。高山澹黙ナレドモ、禽獣労ヲ告ゲズシテ投リ帰キ、深水言ハザレドモ、魚龍倦ムコトヲ憚ラズシテ逐ヒ赴ク。故ニ能ク西羌、険シキニ梯シテ垂衣 . . . 本文を読む
「一代要記」に(文永十一年1274十月)「同十三日、異國軍兵壹岐島に亂入す、同十四日、彼の島の守護代荘官以下悉く打取らる云々」
(守護平景隆は、樋詰城から、家来100余騎で応戦しましたがあっという間に殲滅されています。壱岐では蒙古軍は老人、子供、男はすべて切り殺し、赤ん坊は股裂き、妊婦はお腹を切り裂き、お腹の中の胎児を殺し、女は集めて乱暴、暴行の後で、手に穴を開けて綱を通して、数 . . . 本文を読む
三代実録 / 貞観十一年(869)十月十三日丁酉条
(発生年:869 [貞観11年] / 発生地域:陸奥 / 災害種別:地震・火山 地震 海の災害 高潮・津波 被害 家屋被害 被害 その他の建造物被害)
十三日丁酉 (清和天皇)詔曰 (中略) 如聞 陸奥国境 地震尤も甚だし 或は海水暴溢而して患を為す 或は城宇頽圧して殃を致す 百姓何ぞ辜って 罹斯る禍毒に 憮然として媿はじ懼る . . . 本文を読む
類聚国史に「淳和天皇弘仁十四年823十月癸巳十三日、皇后院に於いて大僧都空海法師に息災の法を行わせしむ。三日三夜なり。」
淳和天皇后・正子内親王は、第52代嵯峨天皇の皇女で弘仁14年(823年)頃、叔父の淳和天皇に入内し3人の皇子を産まれました。大師が息災の法を修せられたのはこの頃と思われます。 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 10/14巻の6/10
六、中夭を助給ふ事
常州より北の方に金山あり。其の山の金を掘る男あり。家はをのずから豊にして一子もなかりけり。女房は慳貪愚痴にて後生と云ことをしらず。夫は是をすすめければ腹立しけるほどには思ひけれども言にいはざりければ、うとき人に向ふに似たり。情けをしらねば由ある物語なんどをも語りて心をなぐさむべき由もなし。夫は深く因果をつつしみをそれけるほどに、法 . . . 本文を読む
今日は和歌山興国寺開山忌です
興国寺の建立は源実朝の側近葛山五郎景倫が出家し願性と名乗り、由良の地に真言宗「西方寺」を建立したのが始まりとされますが、興国寺そのものが通称「開山(法燈国師心地覚心のこと)」と呼ばれ親しまれています。心地覚心は、高野山金剛三昧院で退耕行勇禅師に、永平寺で道元禅師や東福寺開山聖一国師などにつき、真言密教・禅の奥義を極めましたがその後入宋六年、杭州護国寺 . . . 本文を読む