福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

原人論(終南山草堂寺沙門宗密述)7/8

2021-04-07 | 諸経

7、原人論(終南山草堂寺沙門宗密述)「五つ目の一乘顯性教(華厳)」

(第三章、第五・一乘顯性教(華厳))

(一乗顕性教(華厳)こそ真実の義理を明らかにした大乗の教えであり、原人の本源を明らかにしたものだと説く第三章。(仏の真実の教え)五つ目の一乗顕性教は、「生きとし生けるものは皆、もともと悟りの智慧による信仰の心を持っている」と説いている。その心は世界が始まった時から、変わることなく何時も存在して清浄であり、はっきりとしていて汚れがなく、賢くて全てを知り尽くしている。この心のことを涅槃経では仏性と呼び、勝鬘経では如来蔵と呼ぶ。世界が始まってこの方、妄想がこの心を覆い隠すので、衆生は気づかぬまま過ごしがちであった。ひたすら愚かな心に拘り、煩悩に災いされて業を重ねて、生死の苦労を重ねたのである。仏陀はこれを憐れんで、「すべては空である」と説き、さらに霊妙な悟りの智慧による信仰心は、清浄であって諸仏と同じものであると説き明かしている。そこで華厳経が語るには、「仏を信ずるものは命あるもののひとりとして、真実の世界から来た者としての智慧を具えているが、妄想心や執着心が邪魔してその智慧を覚らずにいる。もし妄想から離れることが出来れば、あらゆる事物について知る縁覚・声聞の智慧、生来備わっているすぐれた智慧、自由自在な理解能力と表現能力の智慧の三智を目の当たりにすることが出来る」と。すなわち仏法の大道においては、「塵ほどの中にも幾千の経巻があり、 限りなき仏たちがまします」と云う喩えを挙げて、塵は衆生であり経巻は仏の智慧であるとして、ちっぽけな一人の人間にも幾千もの素晴らしい知恵が備わっていると語っている。さらに華厳経が語るには、「如来が最高の悟りを成し遂げた時に、すべての衆生をご覧になって次のように語った。すなわち、珍しいことだ。誠に珍しいことだ。すべての衆生は既に如来の智慧を持ちながら、どうして迷ったり悩んだりしてそのすぐれた智慧を忘れてしまうのだろうか?自分は聖人の道のすばらしさを彼らに教えて永久に妄想を捨てさせ、衆生自身の中には如来と同じ広大で素晴らしい智慧が充ち満ちていることを見せて、仏と同じだと云うことを覚らせなければならない」と(「大方廣佛華嚴經卷第三十五 寶王如來性起品第三十二之三」「爾時如來。以無障礙清淨天眼。觀察一切衆生。觀已作如是言。奇哉奇哉。云何如來具足智慧在於身中。而不知見。我當教彼衆生。覺悟聖道。悉令永離妄想顛倒垢縛。具見如來智慧在其身内。」)。纏めると、「我々は多くの時を過ごしてきたが、未だに正しい真の教えに会えずに来た。省みれば、自身の本源をどう究明すべきか知らなかったのである。ただただ虚妄の姿にとりつかれ、我身を凡夫と思い、或いは畜生と思い、或いはただの人間だと甘く考えてきた。今最高の教えで締めくくることが出来、やっと自身の本源を尋ねることが出来、まさしく自身が生まれた時から仏であることを知った。だから当然の事ながら、己の行いは仏行に適い、己の心は仏心に適うように努め、本源に立ち返り、愚かな習慣を断ち切り、これを徹底的に打ち破って本来の姿に立ち返る事が出来れば、自然と何事にも対応出来るようになろう。これこそが仏の真の姿と云うものである。こうして迷い多き衆生も悟りを得た仏も、同じ真実の心を持っていることが解る。なんと素晴らしい霊妙な仏の教えであろう。こうして人の本源を明らかにすることが出来た」となる。仏は以上の五教を、時には浅い内容の教えから次第に深い教えへと説き進み、またある時には直ちに深い内容の教えを説き、もし仏道修行の素質・能力が,中位の者や、素質・能力の劣った者が居れば、浅い教えから深い教えに進むように配慮された。先ず人天教を説いて悪を離れ善に止まるように仕向け、次に小乗教・大乗法相教を説いて煩悩を捨てさせて清浄な境地に立ち帰らせ、最後に大乗破相教・一乗顕性教を説いて認識対象の存在を否定してその真の姿を明らかにし、大乗の真実の教えに導き入れる方便としての仮説を理解させた上で、真実の教えに導いたのである。この真実の教えに従って修養すれば、成仏出来ることになる。もし仏の教えを理解する能力に長けた者であれば、実の教である一乗顕性教を直ちに示してから後に前の四教を振り返ればよい。すなわち初めから一乗顕性教の教えにより、心を正した時のその心性が仏心であると云うことを直接悟らせるのである。仏心が明らかになれば、すべてが虚妄であり、もともと万物は皆実体が無く空であると云うことを自覚できる。ただ迷いに依って仏心の中に虚妄が現れてくるのである。当然ながら、生まれながらの心性を覚る智慧によって悪を断ち、善を修め、迷いから覚めて仏心に立ち帰るべきである。すべての迷いが取り除かれ、生まれながらの心性が満ち足りて安らかな状態を法身仏と呼ぶ。

  「直に眞源を顕す第三                

五に一乘顯性教とは、説かく、一切有情に皆な本覺の眞心あり。無始以來、常住清淨にして昭昭と昧からず、了了として常に知る。亦た佛性と名く。亦た如來藏と名く。無始際より妄相は之を翳して自ら覺知せず。但だ凡質を認めるが故に、躭著して業を結し生死の苦を受く。大覺之を愍れんで、一切皆空を説き、又た靈覺の眞心清淨にして全く諸佛に同じと開示す。故に華嚴經に云く「佛子よ、一衆生として如來の智慧を具有せざるはなし。但し妄想執著を以て證得せず。若し妄想を離るれば、一切智・自然智・無礙智、即現前することを得。便ち一塵に大千經卷を含む」の喩を挙げて塵を衆生に況し、經を佛智に況す。次後に又(華厳経に)云く「爾時、如來普く法界一切衆生を觀じて是の言を作さく。奇哉奇哉。此諸衆生。云何んが如來の智慧を具有して迷惑して見ざるや。我當に教ふるに聖道を以てし、其をして永く妄想を離れ自ら身中に於いて如來廣大智慧の佛と異ることなきを見るを得せしむべし」と。評して曰く、我等多劫に未だ眞宗に遇はず、返って自ら身を原(たずぬ)ることを解せず。但し虚妄之相に執して甘んじて凡下、或は畜或は人なりを認ず。今、至教に約して之を原たずねれば、方に本來是佛なりと覺るべし。故に須からく行は佛に依り、心は佛心に契(かな)ひ、本に返り、源に還り、凡習を斷除して之を損し又た損して以って無爲に至るべし。自然の應用恒沙なるを之を名け佛と曰ふ。當に知すべし、迷悟は同一の眞心なり。大なる哉、妙門の原人、此に至れる。

然れば佛の前五教を説きたまへるは、或は漸、或は頓。若し中下之機あれば、則ち淺より深に至り、漸漸誘接して先ず初教を説き、悪を離れて善に住せしめ、次に二三を説き、染を離れて淨に住せしめ、後に四五を説き、相を破し性を顯はし、權を會し實に歸し、實教の修に依り乃ち成佛に至らしむ。若し上上根智ならば則ち本より末に至る。謂く初めは便ち第五に依り頓に一眞の心體を指し、心體既に顯れて自ら一切皆是虚妄、本來空寂なりと覺る。但だ迷を以ての故に眞に託して起る。須からく眞を悟るの智を以て斷惡修善し息妄歸眞すべし。妄盡きて眞圓(まどか)なるを是を法身佛と名く。」

 

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