高野春秋・(嘉承元丙戌年)「十一月十一日、検校明算大徳、病患無く安祥にして中院密室に円寂す。門弟子一心院谷菩提塔中に殯斂す。行年八十六、治山十六年。案ずるに菩提塔の所は分明ならず。蓋し是一心院池上に塔婆を号して聖道場となす有り。奥端に塔有り、是其の遺跡歟。」
明算大徳は、長元四年1031定誉に師事して高野山で出家。頼尋から伝法灌頂を受け、高野山御影供をはじめた。ついで康平七年1064山城国小野随心院で成尊に東密小野流を享け、高野山に戻って中院流を開いた。以後生まれ故郷の紀伊国田中荘に龍蔵院を開き、年寛治4四年1090には高野山検校。この間、奥院の拝殿や大塔を造営し、各種法要を始行。弟子に、良禅・教真・明範・眞譽・明寂など。