童子教( 傳安然(平安前期の天台僧)作、「塵添壒嚢鈔」「大蔵経データベース」「童子教故事要覧(加藤咄堂)」等により解説)・・3
「薄衣の冬の夜も、 寒を忍んで通夜誦せよ。 食乏しきの夏の日も、 飢を除いて終日習へ。
酒に酔ふて心狂乱す。 食過ぐれば学文に倦む。(論語、梵網経、楞伽経等に飲酒を戒めたまう。慧遠の無量寿経義疏にも「飲酒の人は善行を修せず、家業をこととせず」と。善悪所起経には三十六の飲酒の咎を説けり。資持記には十の過を出し、竜樹の大智度論には三十五の失を説けり。)
身温まれば睡眠を増す。 身安ければ懈怠起る(業報差別経には睡眠に十二の過を説き、発覚浄心経には二十種の過患ありと。『論語』公冶長に「宰予(さいよ)昼寝ぬ。子曰く、 「朽木は雕る可からざるなり。糞土の牆は(ぬ)る可からざるなり。予に於いてか何ぞ誅めん」と」。阿那律仮寝す、釈尊蛤のそしりをおこせり。(楞厳経)。菩薩善本経に「懈怠は衆行のわずらい」と。遺教経に「懈怠とは心懶惰のゆえに、睡眠とは心悶重の故に」。景行録に「心ほしいままならざれば、形労せずんばあるべからず」)」
匡衡は夜学の為に、 壁を鑿つて月光を招き(童子教故事要覧(加藤咄堂)「匡衡、字は稚圭。東海承の人、家貧しくして灯なし、壁に穴を穿って隣の灯の光をかりて書を読む。その里に家冨て書物あまたもちたる人あり。匡衡その家に雇われて耕作しけるがかって価を取らざる。故に主人怪しみてその仔細を問ひければ、匡衡が曰はく『願わくば君が書を読まん事我望みたり』と。主人その心を感じ書を貸して価としけれ。後についに世に隠れもなき学者となれり」)、
孫敬は学文の為に、 戸を閉ぢて人を通さず(楚国光賢傳にはく「孫敬,字は文寶、楚郡の人、学問を励みて人来れば妨げになる故に戸を閉じて人の通ひをやめて書を読めり、依って世の人「閉戸先生」と称せり、国君より召されけれども出でて仕えざりけるとなり。」)、
蘇秦は学文の為に、 錐を股に刺して眠らず(史記及び李氏蔵書の六歳臣傳に詳しく載せたり。戦国策には蘇秦は洛陽軒里の人なり。十年学文をつとめて家に帰りけるに兄の妻おきてもてなさず、妻もものいふことなし。蘇秦嘆きて曰く『太夫の位に達せねば妻も嫂も我を軽んじめ侮るとて即ちそこを去りて鬼谷先生を師として学文を励む。書を読むうちに眠り兆せば錐を以て足の股を刺し通せり。一寸の日の陰の去るをも惜しみて励みける程に遂に学文の功積もりて斎王に仕へ承相になれり。かくて蘇秦、六国の諸侯達より印書を授かりこれを佩びて我が家に帰へるに嫂も妻も六十里程迎へに出しかば蘇秦、嫂に向ひ、『その上、我を見て少しももてなすことなかりしが、今迎へに出は何事ぞ』といふに嫂『御身今承相といふ官になり、六国の諸侯の印を佩びて来り、名を天下にあげ、親・おほじまでの外聞をすすがれたれば、迎へにこそ来れ』と答ふ。蘇秦これを聞きて曰く『われかくの如く立身の身となりしは皆嫂のおきざりし手柄也』といへり。)、
俊敬(しゆんけい)は学文の為に、 縄を頸に懸けて眠らず(先の蘇秦の錐股の例とあわせて「懸頭刺股」との諺を生む。三教指帰にも「首を懸け、股を指すの勤」とある。俊敬は孫敬のことか。『蒙求』上、「孫敬閉戸」「孫敬、字は文寳(ブンポウ)、常に戸を閉じて書を読み、睡(スイ)してば則ち縄を以て頸(くび)に繋(か )け、之を梁上(リョウジョウ)に懸く」とあり。)
車胤(しやいん)は夜学を好んで、蛍を聚めて燈とす(晋書に、車胤字は武子、南平の人、常に学文に努めて倦むことなし、家貧しくして油を得ず、夏の夜は薄物の袋の中へ蛍をあまた取りてものの本を照らし、夜に日をつぎて学文しけり、遂に吏部尚書の官になれり。)
宣士(せんし)は夜学を好んで雪を積んで燈とす(文館詞林人伝に「宣士は字を演侍といへり、会稽の人、代々農家を務む。家極めて貧しければ夜学を務めんとすれども油無し。冬より春に至れるまでは雪を集めてその光にて書を読めり。後に侍中の官となれり。」)、
休穆(きうぼく)は文に意を入れて 冠(かんぶり)の落つるを知らず(文士傳にみえたり。休穆字は周和、河陽県の人、幼少時より学文を好み怠ること無し。宣帝に仕へて従事の官となれり路を行く時も書を読みて手を棄てず、ある時路の辺にて風吹きて頭の冠落ちたり。然れどもその冠の落ちたるを知らず、といへり。)、
高鳳(こうほう)は文に意を入れて麦の流るゝを知らず (「高鳳漂麦」の諺があり。「後漢書」(高鳳伝)及び李氏蔵書に見えたり。字を文通、南陽葉の人、後漢の人、高鳳は、読書に夢中になって、庭に干した麦がにわか雨で流されるのに気がつかず。後に名儒の誉れを得たり。)、
劉寔(りゅうしょく)は衣を織り乍ら 口に書を誦して息はず(晋の劉寔は広輿記東昌府の人、人物類にみえたり、字は子真、高唐の人、家貧しくして牛の衣を織りて世を渡れり。博学にして司空の官になれり。『崇譲論』を作りて世の風俗を矯むる。)、
倪寛(げいくはん)は耕作し乍ら 腰に文を帯びて捨てず(漢書列伝、李氏蔵書、循良名臣傳等にのせたり。千乗の人、孔安國につかへて学文をはげむ。常にやとはれて耕作しつつ腰に経を佩びて鉏といへり)
此等の人は皆 昼夜学文を好んで文操国家に満つ。
遂に碩学の位に致る。 縦へ塞を磨き筒を振るとも、口には恒に経論を誦し、又弓を削り矢を矧(は)ぐとも、 腰には常に文書を挿せ。 (例え双六の賽子を磨き筒を振る所作をなすとも口にはつねに経と論を誦し、弓を削り矢を作ることになっても、腰には常に文書を挿しはさみなさい。)
張儀は新古を誦して 枯木に菓(このみ)を結ぶ(『史記列伝』の張儀列伝によると張儀は魏の人、鬼谷先生を師とし学術に達す。諸子百家、合従連衡策のうち合従策を説く。諸侯に遊説中、楚でたまたま宰相の璧を失われけるが張儀疑はれて杖にて打たるること数百度、されども盗まぬに極まりて許されしが妻張儀に向かひ「御身書を読みてあらずばなにしに斯の如き恥をかくべき乎」と問ひければ、張儀「我が舌を見よ,ありやなしや」と言ひけり。「新古」の「新」とは三の近き代の書の意味、「古」とは古の書の意味。「枯木に菓を結ぶ」とは張儀がものの本を読めばあまりの弁舌に枯れ木も感応して花咲き菓を結ぶやうに見えしとなり)。
亀耄(きほう)は史記を誦して 古骨に膏(あぶら)を得たり(三教指帰に「亀毛先生といふものあり、天資弁捷にして面容魁悟なり。九経・三史・心蔵に括嚢し、三墳・八策・意府に諳憶せり、三寸わずかに発すれば枯れたる樹栄え華さき、一言わずかに陳ぶれば曝せる骸反って宍つ゛く、蘇秦・妟平もこれに向かえば舌を巻き、張儀・郭象も遥かに瞻て声を飲む。」とあり。亀耄(亀毛)は実在の人物ではなく儒者一般をさす)。
伯英(はくえい)は九歳にして初めて 早く博士の位に至る(国朝名世類苑に、「伯英、字は長花、瑯邪の人、五歳にして文詩をよく作れり。七歳にして経史に達せり。九歳の時元帝に仕えて博士となれり」と)。
宋吏(さうし)は七十にして初めて 学を好んで師伝に登る(獻徴録に、宋吏は幼少の時より年老いたるまで耕作を営みけり。然るに七十にして始めて陳丘という人に随ひて学問セリ。日に夜をついで学びしに遂に大学の誉れを得て詩史百家の書に通ず。位三公に登れり。三公とは、太師・太傳・太保なり。故に師・傳に登るといへり。)
智者は下劣なりと雖も 高台の閣に登る。 愚者は高位なりと雖も奈利の底に堕つ。(涅槃経に、「戒を保つ人を有智と名ずけ、保たざるを愚痴という」。「高台の閣」とは佛果をいう。)
智者の作る罪は 大いなれども地獄に堕ちず、 愚者の作る罪は 小さけれども必ず地獄に堕つ。(大般涅槃経の大意。衆生に二種あり、有智と愚痴なり。戒定慧を修するを智者といい、戒定慧を修する事のできないものを愚痴という。往生要集(諸経要集)に愚人の如きは悪を作りて後に罪を得ること多いなり。智人は悪を作れども罪を得る事少しなり。たとへば黒鉄を火に焼きて地に置くとき、一人は焼けたることを知り、一人は知らず、知らざる者は手のうちおおいに爛れ、しれるものは破るること少なし。愚者は自ら罪を悔いることなし、かるがゆえに罪を得るなり。智者は悪を作れども自ら悔いることをなす故にその罪少なし。)
愚者は常には憂を懐く。たとへば獄中の囚の如し。 智者は常に歓楽す、 猶(なを)光音天の如し(正法念誦経に「智者は常に憂いを懐く、而も獄中の人に似たり。愚人は常に歓楽す、猶し光音天の如し」と。光音天とは、三界のうち色界18天の下位から数えて第6 番目の天。色界第二禅の第3番目の天。極光浄天ともいう。 この天は、音声(おんじょう) がなく、何かを語るときには口から浄らかな光を発して言語の作用とするので、光音天と名づく)の如し。
「薄衣の冬の夜も、 寒を忍んで通夜誦せよ。 食乏しきの夏の日も、 飢を除いて終日習へ。
酒に酔ふて心狂乱す。 食過ぐれば学文に倦む。(論語、梵網経、楞伽経等に飲酒を戒めたまう。慧遠の無量寿経義疏にも「飲酒の人は善行を修せず、家業をこととせず」と。善悪所起経には三十六の飲酒の咎を説けり。資持記には十の過を出し、竜樹の大智度論には三十五の失を説けり。)
身温まれば睡眠を増す。 身安ければ懈怠起る(業報差別経には睡眠に十二の過を説き、発覚浄心経には二十種の過患ありと。『論語』公冶長に「宰予(さいよ)昼寝ぬ。子曰く、 「朽木は雕る可からざるなり。糞土の牆は(ぬ)る可からざるなり。予に於いてか何ぞ誅めん」と」。阿那律仮寝す、釈尊蛤のそしりをおこせり。(楞厳経)。菩薩善本経に「懈怠は衆行のわずらい」と。遺教経に「懈怠とは心懶惰のゆえに、睡眠とは心悶重の故に」。景行録に「心ほしいままならざれば、形労せずんばあるべからず」)」
匡衡は夜学の為に、 壁を鑿つて月光を招き(童子教故事要覧(加藤咄堂)「匡衡、字は稚圭。東海承の人、家貧しくして灯なし、壁に穴を穿って隣の灯の光をかりて書を読む。その里に家冨て書物あまたもちたる人あり。匡衡その家に雇われて耕作しけるがかって価を取らざる。故に主人怪しみてその仔細を問ひければ、匡衡が曰はく『願わくば君が書を読まん事我望みたり』と。主人その心を感じ書を貸して価としけれ。後についに世に隠れもなき学者となれり」)、
孫敬は学文の為に、 戸を閉ぢて人を通さず(楚国光賢傳にはく「孫敬,字は文寶、楚郡の人、学問を励みて人来れば妨げになる故に戸を閉じて人の通ひをやめて書を読めり、依って世の人「閉戸先生」と称せり、国君より召されけれども出でて仕えざりけるとなり。」)、
蘇秦は学文の為に、 錐を股に刺して眠らず(史記及び李氏蔵書の六歳臣傳に詳しく載せたり。戦国策には蘇秦は洛陽軒里の人なり。十年学文をつとめて家に帰りけるに兄の妻おきてもてなさず、妻もものいふことなし。蘇秦嘆きて曰く『太夫の位に達せねば妻も嫂も我を軽んじめ侮るとて即ちそこを去りて鬼谷先生を師として学文を励む。書を読むうちに眠り兆せば錐を以て足の股を刺し通せり。一寸の日の陰の去るをも惜しみて励みける程に遂に学文の功積もりて斎王に仕へ承相になれり。かくて蘇秦、六国の諸侯達より印書を授かりこれを佩びて我が家に帰へるに嫂も妻も六十里程迎へに出しかば蘇秦、嫂に向ひ、『その上、我を見て少しももてなすことなかりしが、今迎へに出は何事ぞ』といふに嫂『御身今承相といふ官になり、六国の諸侯の印を佩びて来り、名を天下にあげ、親・おほじまでの外聞をすすがれたれば、迎へにこそ来れ』と答ふ。蘇秦これを聞きて曰く『われかくの如く立身の身となりしは皆嫂のおきざりし手柄也』といへり。)、
俊敬(しゆんけい)は学文の為に、 縄を頸に懸けて眠らず(先の蘇秦の錐股の例とあわせて「懸頭刺股」との諺を生む。三教指帰にも「首を懸け、股を指すの勤」とある。俊敬は孫敬のことか。『蒙求』上、「孫敬閉戸」「孫敬、字は文寳(ブンポウ)、常に戸を閉じて書を読み、睡(スイ)してば則ち縄を以て頸(くび)に繋(か )け、之を梁上(リョウジョウ)に懸く」とあり。)
車胤(しやいん)は夜学を好んで、蛍を聚めて燈とす(晋書に、車胤字は武子、南平の人、常に学文に努めて倦むことなし、家貧しくして油を得ず、夏の夜は薄物の袋の中へ蛍をあまた取りてものの本を照らし、夜に日をつぎて学文しけり、遂に吏部尚書の官になれり。)
宣士(せんし)は夜学を好んで雪を積んで燈とす(文館詞林人伝に「宣士は字を演侍といへり、会稽の人、代々農家を務む。家極めて貧しければ夜学を務めんとすれども油無し。冬より春に至れるまでは雪を集めてその光にて書を読めり。後に侍中の官となれり。」)、
休穆(きうぼく)は文に意を入れて 冠(かんぶり)の落つるを知らず(文士傳にみえたり。休穆字は周和、河陽県の人、幼少時より学文を好み怠ること無し。宣帝に仕へて従事の官となれり路を行く時も書を読みて手を棄てず、ある時路の辺にて風吹きて頭の冠落ちたり。然れどもその冠の落ちたるを知らず、といへり。)、
高鳳(こうほう)は文に意を入れて麦の流るゝを知らず (「高鳳漂麦」の諺があり。「後漢書」(高鳳伝)及び李氏蔵書に見えたり。字を文通、南陽葉の人、後漢の人、高鳳は、読書に夢中になって、庭に干した麦がにわか雨で流されるのに気がつかず。後に名儒の誉れを得たり。)、
劉寔(りゅうしょく)は衣を織り乍ら 口に書を誦して息はず(晋の劉寔は広輿記東昌府の人、人物類にみえたり、字は子真、高唐の人、家貧しくして牛の衣を織りて世を渡れり。博学にして司空の官になれり。『崇譲論』を作りて世の風俗を矯むる。)、
倪寛(げいくはん)は耕作し乍ら 腰に文を帯びて捨てず(漢書列伝、李氏蔵書、循良名臣傳等にのせたり。千乗の人、孔安國につかへて学文をはげむ。常にやとはれて耕作しつつ腰に経を佩びて鉏といへり)
此等の人は皆 昼夜学文を好んで文操国家に満つ。
遂に碩学の位に致る。 縦へ塞を磨き筒を振るとも、口には恒に経論を誦し、又弓を削り矢を矧(は)ぐとも、 腰には常に文書を挿せ。 (例え双六の賽子を磨き筒を振る所作をなすとも口にはつねに経と論を誦し、弓を削り矢を作ることになっても、腰には常に文書を挿しはさみなさい。)
張儀は新古を誦して 枯木に菓(このみ)を結ぶ(『史記列伝』の張儀列伝によると張儀は魏の人、鬼谷先生を師とし学術に達す。諸子百家、合従連衡策のうち合従策を説く。諸侯に遊説中、楚でたまたま宰相の璧を失われけるが張儀疑はれて杖にて打たるること数百度、されども盗まぬに極まりて許されしが妻張儀に向かひ「御身書を読みてあらずばなにしに斯の如き恥をかくべき乎」と問ひければ、張儀「我が舌を見よ,ありやなしや」と言ひけり。「新古」の「新」とは三の近き代の書の意味、「古」とは古の書の意味。「枯木に菓を結ぶ」とは張儀がものの本を読めばあまりの弁舌に枯れ木も感応して花咲き菓を結ぶやうに見えしとなり)。
亀耄(きほう)は史記を誦して 古骨に膏(あぶら)を得たり(三教指帰に「亀毛先生といふものあり、天資弁捷にして面容魁悟なり。九経・三史・心蔵に括嚢し、三墳・八策・意府に諳憶せり、三寸わずかに発すれば枯れたる樹栄え華さき、一言わずかに陳ぶれば曝せる骸反って宍つ゛く、蘇秦・妟平もこれに向かえば舌を巻き、張儀・郭象も遥かに瞻て声を飲む。」とあり。亀耄(亀毛)は実在の人物ではなく儒者一般をさす)。
伯英(はくえい)は九歳にして初めて 早く博士の位に至る(国朝名世類苑に、「伯英、字は長花、瑯邪の人、五歳にして文詩をよく作れり。七歳にして経史に達せり。九歳の時元帝に仕えて博士となれり」と)。
宋吏(さうし)は七十にして初めて 学を好んで師伝に登る(獻徴録に、宋吏は幼少の時より年老いたるまで耕作を営みけり。然るに七十にして始めて陳丘という人に随ひて学問セリ。日に夜をついで学びしに遂に大学の誉れを得て詩史百家の書に通ず。位三公に登れり。三公とは、太師・太傳・太保なり。故に師・傳に登るといへり。)
智者は下劣なりと雖も 高台の閣に登る。 愚者は高位なりと雖も奈利の底に堕つ。(涅槃経に、「戒を保つ人を有智と名ずけ、保たざるを愚痴という」。「高台の閣」とは佛果をいう。)
智者の作る罪は 大いなれども地獄に堕ちず、 愚者の作る罪は 小さけれども必ず地獄に堕つ。(大般涅槃経の大意。衆生に二種あり、有智と愚痴なり。戒定慧を修するを智者といい、戒定慧を修する事のできないものを愚痴という。往生要集(諸経要集)に愚人の如きは悪を作りて後に罪を得ること多いなり。智人は悪を作れども罪を得る事少しなり。たとへば黒鉄を火に焼きて地に置くとき、一人は焼けたることを知り、一人は知らず、知らざる者は手のうちおおいに爛れ、しれるものは破るること少なし。愚者は自ら罪を悔いることなし、かるがゆえに罪を得るなり。智者は悪を作れども自ら悔いることをなす故にその罪少なし。)
愚者は常には憂を懐く。たとへば獄中の囚の如し。 智者は常に歓楽す、 猶(なを)光音天の如し(正法念誦経に「智者は常に憂いを懐く、而も獄中の人に似たり。愚人は常に歓楽す、猶し光音天の如し」と。光音天とは、三界のうち色界18天の下位から数えて第6 番目の天。色界第二禅の第3番目の天。極光浄天ともいう。 この天は、音声(おんじょう) がなく、何かを語るときには口から浄らかな光を発して言語の作用とするので、光音天と名づく)の如し。