「神道大意」
兼直撰(卜部兼直、鎌倉時代、吉田神道の神官、冷泉歌人ともいわれた、吉田兼好の縁戚)
それわが国は天地あめつちとともに神明顕座かみかげのあらわれまします故に、國を神の國といひ、道を神道かみのみちといふ。國とは千堺ちち゛のさかいの根本はじめなり。故に日本ひのもとといふ。天竺漢土は星の形なり、故に月氏つきのくに、震旦ほしのくに、といふ。日は大陽てるたま、月は陽てるたまの耦生たぐひなり。星は陽てるたまの散気ちれるいきなり。三光みはしらのかみ皆わが國より出て、三神みはしらのかみ此土このくにに垂迹あとをたれます。神とは常の神に非ず。天地に先だてるを神といひ道とは常の道に非ず。乾坤あまつちに越えたるを道といふ。神性かんさが動かずして動き、霊體無形みかたちなきがごとくにして形あらわれまします。是則ち不側はからざるの神體なり。天地にありては神といひ、万物よろずのものに有りては霊みたまといひ、人倫ひとにありては心といふ。
心は則ち神明(かみかげ)の舍(みあらか、家)、混沌(まろかれたる)の宮なり。混沌まろかれたるとは、天地陰陽不分あめつちみぎのわいためなり。喜怒哀楽未発こころばえいまだおこらず、皆これ心の根本なり。心とは一神ひとつのかみの本もととするところなり。一神とは吾わが國常立尊くにのとこたちのみことといふ、國常立尊とは無形の形なきがごときのみかたち、無名の名なずくることなきのみな、なり(ここは密教で心を大日如来とするのと同じ)。これを虚無太元尊神(おおぞらのみたましい)といふ。この太元おおしもとより、一大三千世界成よろずのさかひをなして、一心ひとつのこころより大千の形(ちじのかたち)を分わかつ。なんぞいわんや森羅万象蠢動含霊ありとしあらゆるもの、すべて一神(ひとつかみ)の元(はじめ)より始まりまして、天地の霊気あめつちのみけを感ずるに至りて、生成無窮なりなりてきわまりなきなり。心の本源(もと)は一神ひとつの神より起こり、國の宗廟(あまつやしろ)は萬洲を照らす。譬えば一水の徳をもって(よるべのみずのうつくしみをもて)萬品(よろずのもの)の生(あ)れませるを育(やしな)ふが如し。儒佛(ひじりほとけ)の二教とは、一心の源より、万法の流れを分かつ。釈迦孔子共に、性命(みいのち)を天地(あまつち)に受け、徳行(みいきをい)を夙夜に施す(常に徳行を施している)。是吾神明(かみあげ)の託(かんがかり)するに非ずや。佛とは則ち神の性ひととなり、人は則ち神の主なり。梵漢の両聖、心地(さとり)のこころを和光(やわらげるひかり)に開き、天地の一神ひとはしらのかみ、通化(おもむけ)を塵埃(けがらわしき)に同(まじえ)ます。大道一元(みちのはじめ)の元(はじめ)、天心一貫(かみのさとりのさとり)、貫さとりこれ吾あが神道かみのみちに非ずや。そもそも開闢の初運くにつちのひらくるのはじめ、宗廟あまつやしろの元由おこり、他邦殊ことなりといえども蓋しその源は吾國にあり。その宗むね吾神にあり。誰か吾國を仰がざらんや。(終)
兼直撰(卜部兼直、鎌倉時代、吉田神道の神官、冷泉歌人ともいわれた、吉田兼好の縁戚)
それわが国は天地あめつちとともに神明顕座かみかげのあらわれまします故に、國を神の國といひ、道を神道かみのみちといふ。國とは千堺ちち゛のさかいの根本はじめなり。故に日本ひのもとといふ。天竺漢土は星の形なり、故に月氏つきのくに、震旦ほしのくに、といふ。日は大陽てるたま、月は陽てるたまの耦生たぐひなり。星は陽てるたまの散気ちれるいきなり。三光みはしらのかみ皆わが國より出て、三神みはしらのかみ此土このくにに垂迹あとをたれます。神とは常の神に非ず。天地に先だてるを神といひ道とは常の道に非ず。乾坤あまつちに越えたるを道といふ。神性かんさが動かずして動き、霊體無形みかたちなきがごとくにして形あらわれまします。是則ち不側はからざるの神體なり。天地にありては神といひ、万物よろずのものに有りては霊みたまといひ、人倫ひとにありては心といふ。
心は則ち神明(かみかげ)の舍(みあらか、家)、混沌(まろかれたる)の宮なり。混沌まろかれたるとは、天地陰陽不分あめつちみぎのわいためなり。喜怒哀楽未発こころばえいまだおこらず、皆これ心の根本なり。心とは一神ひとつのかみの本もととするところなり。一神とは吾わが國常立尊くにのとこたちのみことといふ、國常立尊とは無形の形なきがごときのみかたち、無名の名なずくることなきのみな、なり(ここは密教で心を大日如来とするのと同じ)。これを虚無太元尊神(おおぞらのみたましい)といふ。この太元おおしもとより、一大三千世界成よろずのさかひをなして、一心ひとつのこころより大千の形(ちじのかたち)を分わかつ。なんぞいわんや森羅万象蠢動含霊ありとしあらゆるもの、すべて一神(ひとつかみ)の元(はじめ)より始まりまして、天地の霊気あめつちのみけを感ずるに至りて、生成無窮なりなりてきわまりなきなり。心の本源(もと)は一神ひとつの神より起こり、國の宗廟(あまつやしろ)は萬洲を照らす。譬えば一水の徳をもって(よるべのみずのうつくしみをもて)萬品(よろずのもの)の生(あ)れませるを育(やしな)ふが如し。儒佛(ひじりほとけ)の二教とは、一心の源より、万法の流れを分かつ。釈迦孔子共に、性命(みいのち)を天地(あまつち)に受け、徳行(みいきをい)を夙夜に施す(常に徳行を施している)。是吾神明(かみあげ)の託(かんがかり)するに非ずや。佛とは則ち神の性ひととなり、人は則ち神の主なり。梵漢の両聖、心地(さとり)のこころを和光(やわらげるひかり)に開き、天地の一神ひとはしらのかみ、通化(おもむけ)を塵埃(けがらわしき)に同(まじえ)ます。大道一元(みちのはじめ)の元(はじめ)、天心一貫(かみのさとりのさとり)、貫さとりこれ吾あが神道かみのみちに非ずや。そもそも開闢の初運くにつちのひらくるのはじめ、宗廟あまつやしろの元由おこり、他邦殊ことなりといえども蓋しその源は吾國にあり。その宗むね吾神にあり。誰か吾國を仰がざらんや。(終)