「空の意義及び理趣経の根本的立場」福井威麿
「仏教は空の思想に立脚していることはいうまでもないことであり、大乗の至極であるところの理趣経においてももとよりその例にもれない。理趣経に「諸法空相なり、無自性と相応するが故に」とある。(我々が毎朝となえる理趣経に「時薄伽梵一切無戲論如來 復説轉字輪般若理趣 所謂 諸法空相與無自性相應故 諸法無相與無相性相應故・・」とあります。)
そこでは一切のものが総て空なりとして否定せられている。・・・差別の諸法が否定せられているのは・・一切が刹那も住することなき流動の姿においてあるからである。
たとひ一刹那であろうと住する刹那があるならそこには一定の自性をもったものがあり、したがってそれが刻々に生滅するということになるのであるがそこには住する刹那が無いのであるから一定の自性をもてるものがなく随って生滅するものもないことになる。・・・つきつめていくと・・・「若し法の自性すべて所有なければ即ち生あることなし(すべては刻々と変化しているのだから恒常的に生きているとはいえない。すなわち生の要素は無いことになる。)。若し生あることなければ即ち滅あることなし。もし生なく滅なきときは即ち本来寂静なり。もし本来寂静なるときは即ち自性涅槃なり。」(解深密経無自性相品)。
生死のすがたをつきつめていくとそこに涅槃の姿があるのである。われわれが普段疑いも無くあるとおもっている生死の差別界は実は生することも滅することもない一如の涅槃界としてあるのである。涅槃界こそ真実の世界なのである。
これに対して生死の差別界のごときは何らあることのない、ただ凡夫のみが有ると考えるところの虚妄の世界にすぎない。
・・・凡夫はその一々の経験に即して差別の境を観念的に現出することになる。普通にあると考えられる一切のものは実に凡夫的経験の内容としてのみあるのである。
この意味において大乗に於いては三界唯心の説がたてられるに至るのであるが、空観を代表する大般若においても次のように説かれる。「諸行は幻の如く虚妄にして実ならず。・・・ただこれ虚妄分別所起、一切皆是自心の所変なり。」(大般若波羅蜜多經 無雜品)・・・
涅槃の実に目覚めた時、そこから生死を見てはじめてそれが空だといはれることになる。・・・無明長夜の眠りの中に眠りつつある世人には生死は疑うべくも無い真実の存在であって、それが空だということは知る由も無い。
それを知るには・・・一如の涅槃界が真実あるところの世界であるという自覚の上に立って初めて生死の差別界が空なることが知りうるのである。
・・・それは実に主観も客観も分別せられる以前の本来それ自身あるところの不思議清浄の法体である。・・ただ一切の分別を滅した宗教的行によってのみ達しうるところの絶対世界である。
・・・かくのごとく「空」そのものまでも否定することによって分別の最後の影を滅し、一切の差別を超脱して無相一如の法界そのものに帰一せしめんとするものであって、如実にもの理に目覚めると時に、人はこの身このままにして人間的生死から脱して法界そのものを己の身とし、法界そのものの動きを己の生活とする大自性大安楽の境地に到達することとなる。
・それは色即是空と破りさることによって現出する空即是色の世界である。真空に即して有るところの妙有の世界である。そこで・・一切がそのありのままの姿において肯定せられることになる。・・・
理趣経の根本的立場は此の不可思議清浄の法界の功徳を高調せんとするところにある。
・・・遣り遣りて更に遣るべきものの有る事なき境に達した時は夜の暗黒が終わることによって朝の光明が自ずからにして輝きわたるように、浄土荘厳の姿が現出するのである。
・・しかして一切衆生をそこへ目覚めしめなければならぬこととなる。この世界のことは言説を越えたものであるが善巧方便めぐらして・・・仮の言説を用いることによって説くことは不可能ではない。ここに「涅槃に趣かず」「恒に衆生の利をなす」(百字の偈に「菩薩勝慧者 乃至盡生死 恒作衆生利 而不趣涅槃.・・」とあります)ところの菩薩の世界がある。これが仏教の最後の段階である。
「仏教は空の思想に立脚していることはいうまでもないことであり、大乗の至極であるところの理趣経においてももとよりその例にもれない。理趣経に「諸法空相なり、無自性と相応するが故に」とある。(我々が毎朝となえる理趣経に「時薄伽梵一切無戲論如來 復説轉字輪般若理趣 所謂 諸法空相與無自性相應故 諸法無相與無相性相應故・・」とあります。)
そこでは一切のものが総て空なりとして否定せられている。・・・差別の諸法が否定せられているのは・・一切が刹那も住することなき流動の姿においてあるからである。
たとひ一刹那であろうと住する刹那があるならそこには一定の自性をもったものがあり、したがってそれが刻々に生滅するということになるのであるがそこには住する刹那が無いのであるから一定の自性をもてるものがなく随って生滅するものもないことになる。・・・つきつめていくと・・・「若し法の自性すべて所有なければ即ち生あることなし(すべては刻々と変化しているのだから恒常的に生きているとはいえない。すなわち生の要素は無いことになる。)。若し生あることなければ即ち滅あることなし。もし生なく滅なきときは即ち本来寂静なり。もし本来寂静なるときは即ち自性涅槃なり。」(解深密経無自性相品)。
生死のすがたをつきつめていくとそこに涅槃の姿があるのである。われわれが普段疑いも無くあるとおもっている生死の差別界は実は生することも滅することもない一如の涅槃界としてあるのである。涅槃界こそ真実の世界なのである。
これに対して生死の差別界のごときは何らあることのない、ただ凡夫のみが有ると考えるところの虚妄の世界にすぎない。
・・・凡夫はその一々の経験に即して差別の境を観念的に現出することになる。普通にあると考えられる一切のものは実に凡夫的経験の内容としてのみあるのである。
この意味において大乗に於いては三界唯心の説がたてられるに至るのであるが、空観を代表する大般若においても次のように説かれる。「諸行は幻の如く虚妄にして実ならず。・・・ただこれ虚妄分別所起、一切皆是自心の所変なり。」(大般若波羅蜜多經 無雜品)・・・
涅槃の実に目覚めた時、そこから生死を見てはじめてそれが空だといはれることになる。・・・無明長夜の眠りの中に眠りつつある世人には生死は疑うべくも無い真実の存在であって、それが空だということは知る由も無い。
それを知るには・・・一如の涅槃界が真実あるところの世界であるという自覚の上に立って初めて生死の差別界が空なることが知りうるのである。
・・・それは実に主観も客観も分別せられる以前の本来それ自身あるところの不思議清浄の法体である。・・ただ一切の分別を滅した宗教的行によってのみ達しうるところの絶対世界である。
・・・かくのごとく「空」そのものまでも否定することによって分別の最後の影を滅し、一切の差別を超脱して無相一如の法界そのものに帰一せしめんとするものであって、如実にもの理に目覚めると時に、人はこの身このままにして人間的生死から脱して法界そのものを己の身とし、法界そのものの動きを己の生活とする大自性大安楽の境地に到達することとなる。
・それは色即是空と破りさることによって現出する空即是色の世界である。真空に即して有るところの妙有の世界である。そこで・・一切がそのありのままの姿において肯定せられることになる。・・・
理趣経の根本的立場は此の不可思議清浄の法界の功徳を高調せんとするところにある。
・・・遣り遣りて更に遣るべきものの有る事なき境に達した時は夜の暗黒が終わることによって朝の光明が自ずからにして輝きわたるように、浄土荘厳の姿が現出するのである。
・・しかして一切衆生をそこへ目覚めしめなければならぬこととなる。この世界のことは言説を越えたものであるが善巧方便めぐらして・・・仮の言説を用いることによって説くことは不可能ではない。ここに「涅槃に趣かず」「恒に衆生の利をなす」(百字の偈に「菩薩勝慧者 乃至盡生死 恒作衆生利 而不趣涅槃.・・」とあります)ところの菩薩の世界がある。これが仏教の最後の段階である。