前叙の如く大師は
法相、三論、天台、華厳等の顕教諸大乗の説は、俗諦因果の世界に生佛の人あるも、真諦は人の仮相を絶すとなす二諦義(絶対的真理(真諦)と世俗的真理(俗諦))の範囲をいでざるものとし、
その絶対不可言の真諦に佛あり衆生あり、所謂[本有の人]ある旨趣を開設するものは真言密教なりとせり。
しかしてこの真諦界中の一切の個別は各々法体界に住し、各々の法の外に余法を見ず、當位絶対なると共に、各々が重々帝網本有加持をなす、即ち生佛(迷いの衆生と悟りの仏)の自体本来霊的融合をなし、一多相即無碍(異にして分かつべからず、一にして同ずべからず)の体を為せり。
一般仏教に一切衆生菩提心を発し、無上の大菩提を欣求するはこれ始覚の智が本有の理を証せんとするものにして、この始覚の大智(修業して覚る智慧)が究竟して本有の理(本来持っている真理)に契合するにいたるを、無上大覚を成じたる究竟の佛果となすものである。しかも衆生はその真諦自性の境に於いて、本来理智冥合(客観としての真理と主観としての智慧の二つが一体となること)し、色身相融するも二にならず、生佛本来自性に於いて加持感応し、如来自性の加被を被るにあらずば、智が理を証せんとする修生の菩提心生起の起因も解し得ざることとなるのである。
即ち我等が、理智冥合・三密加持の境(真理と衆生の智慧が融合し、また衆生と仏とは本来同一であるから,衆生が身に印を結び (身密) ,口に真言を称え (口密) ,心に本尊を観じる (意密) とき,それがそのまま仏の三密と相応して,仏の加護を受けるという境地)
を憧憬し菩提心を起こす所以のものは、その自性に於いて生佛本来霊的融合をなせるよりその本有加持の境を体せんとする菩提心の生起し来るものといはねばならぬ。
法相、三論、天台、華厳等の顕教諸大乗の説は、俗諦因果の世界に生佛の人あるも、真諦は人の仮相を絶すとなす二諦義(絶対的真理(真諦)と世俗的真理(俗諦))の範囲をいでざるものとし、
その絶対不可言の真諦に佛あり衆生あり、所謂[本有の人]ある旨趣を開設するものは真言密教なりとせり。
しかしてこの真諦界中の一切の個別は各々法体界に住し、各々の法の外に余法を見ず、當位絶対なると共に、各々が重々帝網本有加持をなす、即ち生佛(迷いの衆生と悟りの仏)の自体本来霊的融合をなし、一多相即無碍(異にして分かつべからず、一にして同ずべからず)の体を為せり。
一般仏教に一切衆生菩提心を発し、無上の大菩提を欣求するはこれ始覚の智が本有の理を証せんとするものにして、この始覚の大智(修業して覚る智慧)が究竟して本有の理(本来持っている真理)に契合するにいたるを、無上大覚を成じたる究竟の佛果となすものである。しかも衆生はその真諦自性の境に於いて、本来理智冥合(客観としての真理と主観としての智慧の二つが一体となること)し、色身相融するも二にならず、生佛本来自性に於いて加持感応し、如来自性の加被を被るにあらずば、智が理を証せんとする修生の菩提心生起の起因も解し得ざることとなるのである。
即ち我等が、理智冥合・三密加持の境(真理と衆生の智慧が融合し、また衆生と仏とは本来同一であるから,衆生が身に印を結び (身密) ,口に真言を称え (口密) ,心に本尊を観じる (意密) とき,それがそのまま仏の三密と相応して,仏の加護を受けるという境地)
を憧憬し菩提心を起こす所以のものは、その自性に於いて生佛本来霊的融合をなせるよりその本有加持の境を体せんとする菩提心の生起し来るものといはねばならぬ。