遍路道が途絶え仕方なく崖を降りて海辺に出ましたが、岩ばかりで標識などあるわけがありません。岩の間を這うようにして前にすすみます。しかし行けども行けども海と岩ばかり。暗い灰色の海からはドドーンと絶えず大波が打ち寄せます。そうしているうち突然原因不明の呼吸困難に陥り、岩の間にかがみこまざるをえなくなりました。 なぜかまったく息ができなくなりました。必死に息を吸い込もうとしますが吸えません。肺が詰まってしまったような感覚です。息が出来ないまま岩の上にうつぶせにならざるを得ません。是で死ぬのかなと思いました。相当な時間が経ったような気がします。寄せくる灰色の大波を見ながら、なぜか太平洋戦争で潜水艦で戦死した叔父のことが突然頭をよぎりました。遠い南洋の海中で息ができず溺死したときは、さぞかし寂しく、苦しく無念だったろうと思いました。大波をみながら自分も自宅から遥かに離れたこんなところで窒息死するのだという恐怖心が頭をよぎります。
昔のお遍路さんならもともと死出の旅ですから「有難い、これでお大師様のところにいける」と思ったかもしれませんが自分はいざとなると全く覚悟ができてないことを思い知らされます。今迄現役時代をふくめて何十年、もさんざんお大師様を拝んできたつもりなのにすっかりそういうことは忘れてしまっています。現世への未練たらたらでした。自分は行者としてこれから本格的な行をしなければならないし、まだ家族の面倒もみなければならないのだと思い、必死で八十八所掛け軸や納経帳を抱きしめました。「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」と唱え続けました。
そのうち目の前の岩が明るくみえはじめました。なぜかそこへ行けば助かると思いました。必死でそこへ這っていくと徐徐に呼吸もできるようになりました。「ありがたいこれで助かった」と思いました。額を岩に擦り付けてお大師様にお礼をしました。
「お前の死ぬときはこうして呼吸困難で死ぬことになるぞ」と教えていただいたのかもしれませんし、また遥か南洋で潜水艦で死んだ伯父の供養もせよとのお諭だったのかもしれません。それにしても不思議なそして不気味な出来事でした。真念「四国徧礼功徳記」には遍路修業の心得として「・・徧礼する人の中にもさまざまなことがある。例えば若く健康な人でもにわかに足がすくみ気分が悪くなることがある。しかし懺悔し願を立てればやがてよくなる。また年が七十八十になる老人ですら、健康のまま巡ることもある。人々の信心の程度に応じていろいろな相が現れて、かつは恥ずかしく、かつは尊く思えるのである」とありました。まさに自分自身を恥ずかしく思った次第です。
続日本紀には土佐の国は神亀元年(724)遠流の地にさだめられたとあります。万葉歌人として名高い石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)は密通により土佐にながされ「父君にわれは愛子(まなこ)ぞ 母刀自(ははとじ)に われは愛子(まなこ)ぞ 参上(まいのぼる)八十氏人(やそうじびと)の手向けする恐(かしこ)の坂に幣奉り われはぞ退(まか)る遠き土佐道を」(都へ上る多くの旅人が手向けをして越えていく恐ろしい国境の峠で私は遠い土佐への道を下っていく。)という歌を万葉集に残しています。
日本霊異記にも「親王(長屋王)の骨は土佐国にながしつ。ときにその国の百姓死ぬるひと多し。・・・親王の気によりて国の内の百姓みな死に亡すべし。」などという記述があることをあとで知りました。奈良時代は橘奈良麻呂の乱に連座した大友古慈斐、藤原仲麻呂の乱に連座した池田親王、その後道鏡に連座した弟の弓削浄人、広方、広田、広津などおおくの貴種が流されてきています。こういう流人の地として 土佐の海岸は恐れられていたようです。
その後海岸の岩から岩へと歩き続けて、やっとはるか上に国道のガードレールが姿を現したので、背丈以上の萱草を掻き分けつつよじのぼりました。国道に這い上がるとすぐそこが番外鯖大師でした。
◇
昔のお遍路さんならもともと死出の旅ですから「有難い、これでお大師様のところにいける」と思ったかもしれませんが自分はいざとなると全く覚悟ができてないことを思い知らされます。今迄現役時代をふくめて何十年、もさんざんお大師様を拝んできたつもりなのにすっかりそういうことは忘れてしまっています。現世への未練たらたらでした。自分は行者としてこれから本格的な行をしなければならないし、まだ家族の面倒もみなければならないのだと思い、必死で八十八所掛け軸や納経帳を抱きしめました。「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」と唱え続けました。
そのうち目の前の岩が明るくみえはじめました。なぜかそこへ行けば助かると思いました。必死でそこへ這っていくと徐徐に呼吸もできるようになりました。「ありがたいこれで助かった」と思いました。額を岩に擦り付けてお大師様にお礼をしました。
「お前の死ぬときはこうして呼吸困難で死ぬことになるぞ」と教えていただいたのかもしれませんし、また遥か南洋で潜水艦で死んだ伯父の供養もせよとのお諭だったのかもしれません。それにしても不思議なそして不気味な出来事でした。真念「四国徧礼功徳記」には遍路修業の心得として「・・徧礼する人の中にもさまざまなことがある。例えば若く健康な人でもにわかに足がすくみ気分が悪くなることがある。しかし懺悔し願を立てればやがてよくなる。また年が七十八十になる老人ですら、健康のまま巡ることもある。人々の信心の程度に応じていろいろな相が現れて、かつは恥ずかしく、かつは尊く思えるのである」とありました。まさに自分自身を恥ずかしく思った次第です。
続日本紀には土佐の国は神亀元年(724)遠流の地にさだめられたとあります。万葉歌人として名高い石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)は密通により土佐にながされ「父君にわれは愛子(まなこ)ぞ 母刀自(ははとじ)に われは愛子(まなこ)ぞ 参上(まいのぼる)八十氏人(やそうじびと)の手向けする恐(かしこ)の坂に幣奉り われはぞ退(まか)る遠き土佐道を」(都へ上る多くの旅人が手向けをして越えていく恐ろしい国境の峠で私は遠い土佐への道を下っていく。)という歌を万葉集に残しています。
日本霊異記にも「親王(長屋王)の骨は土佐国にながしつ。ときにその国の百姓死ぬるひと多し。・・・親王の気によりて国の内の百姓みな死に亡すべし。」などという記述があることをあとで知りました。奈良時代は橘奈良麻呂の乱に連座した大友古慈斐、藤原仲麻呂の乱に連座した池田親王、その後道鏡に連座した弟の弓削浄人、広方、広田、広津などおおくの貴種が流されてきています。こういう流人の地として 土佐の海岸は恐れられていたようです。
その後海岸の岩から岩へと歩き続けて、やっとはるか上に国道のガードレールが姿を現したので、背丈以上の萱草を掻き分けつつよじのぼりました。国道に這い上がるとすぐそこが番外鯖大師でした。
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