聖徳太子は中国に毅然とされていた。
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今日は高志 大了猊下、護国寺貫首・豊山能化の遷化の日です。高志 大了(たかし だいりょう、1834年(天保5年) - 1898年(明治31年)8月25日)は伊予国温泉郡出身の日本の僧侶。長谷寺55世能化。日清戦争には、勅を奉じて、大元帥法を修した。 16歳、石手寺章栄の弟子。1851年嘉永4年 豊山に登る。1852年嘉永6年 永雅に入壇潅頂を受ける。真浄・覚了に性相、海如・啓本に野沢二流を究め、 . . . 本文を読む
今日は道光普照国師・孤雲懐奘が遷化した日です。以下ウキぺデア等に依ります。懐奘は弘安3(1280).8.24. 83歳で遷化。永平寺第2世。九条相国伊通の曾孫。初め比叡山で顕密と浄土を学ぶ。また,多武峰の覚晏のもとで臨済宗を学んだが,その後道元の弟子となる。『正法眼蔵』『学道用心集』『永平広録』を編集、『光明蔵三昧』 ,『正法眼蔵随聞記』を著す。正法眼蔵随聞記には「若し道有りては死すとも、道のうし . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 6/14巻の12/22
十二、 殺害を免る霊験(今昔物語集巻十七依念地蔵菩薩遁主殺難語 第四にあり)
備中國有津郡(倉敷市矢部付近か)に宮の郷と云所に大藤の大夫文時と云人有り。先祖良家が後胤なり。家豊に子孫富めり。此の従者の中に凶男一人侍りき。其の性にして立居に謀計を巧、出入りに奇怪を執行ひ . . . 本文を読む
恵運は延暦17年(798)生まれ貞観11年(869)9月23日72歳で没。唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。以下密教辞典等に依ります。初め東大寺泰基・薬師寺仲継に法相教学を学び東大寺で得度、戒壇院で具足戒を受ける。後に実恵の門下に入り東寺で両部大法を受ける。842年(承和9年)8月24日唐の商人李処人の船で渡唐。長安青龍寺で義真に伝法灌頂を受け、五台山・天台山を巡拝し . . . 本文を読む
今日八月二十四日は秩父一番四萬部寺施餓鬼堂で「四萬部寺の大施餓鬼会」が行われる日です。秩父三十四観音は数えきれないほど巡拝しました。ここも懐かしさがこみあげてくる寺です。
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お大師様は、紀州高野山開創に当たり、有縁の人々の支援を求るべく「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」を今日8月23日書かれています。「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」 の全文です。「夫れ諸仏の事業は、 大慈を以て先と為し、 菩薩の行願は、 大悲を以て本と為す。 慈は能よく楽を与へ、 悲は能く苦を抜く。 抜苦与楽の基、 人に正路を示す、 是なり。 謂いう所の正路に、 二種有り。 一には定慧門、 二には福 . . . 本文を読む
以下密教大辞典等に依る。
没年:徳治三年八月二十三日(1308)五十一歳。
鎌倉後期の真言僧。近衛良教の子で醍醐寺報恩院の覚雅に師事して出家。醍醐寺報恩院四世として報恩院流の全盛を築く。後宇多帝の幼少時に侍僧として仕えたことから, 後宇多法皇の帰依を受ける。徳治三年二月憲淳疾篤きに及ぶや法皇は勅書を下して法流伝授を求め給ふ。仍って憲淳は徳治三年三月二十五日請文を . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 6/14巻の11/22
十一、 合戦に矢を拾ひ給ふ事
中古江州愛智郡賀野村に古寺あり(滋賀県愛知郡愛荘町岩倉663矢取地蔵堂(仏心寺)は今も平師道が建立した勝負の神様として信仰されている)。其の本尊は地蔵尊を安置す。草創を原(たずぬる)に検非違使平師道が曩祖(のうそ・先祖)の建立する所也。然るに師道其の職として武勇を業とし弓馬を宗とす。時 . . . 本文を読む
お大師様は、紀州高野山開創に当たり、有縁の人々の支援を求るべく「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」を今日8月23日書かれています。「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」 の全文です。「夫れ諸仏の事業は、 大慈を以て先と為し、 菩薩の行願は、 大悲を以て本と為す。 慈は能よく楽を与へ、 悲は能く苦を抜く。 抜苦与楽の基、 人に正路を示す、 是なり。 謂いう所の正路に、 二種有り。 一には定慧門、 二には福 . . . 本文を読む
貞観17年(875年)の銘が入る梵鐘で、日本三名鐘の1つ(「銘の神護寺」「姿の平等院」「音の三井寺」)。この梵鐘は、橘広相が詞書を書き、菅原是善(道真の父)が銘を選び、藤原敏行が揮毫と、当時一流の3名の合作で「三絶の鐘」とも呼ばれます。卜書に「貞観十七年八月二十三日、治工志我部海維以銅千五百斤令鋳成。橘広相之詞、菅原是善銘、藤原敏行書」とあり。 . . . 本文を読む