徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

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廃藩置県から道州制まで ⑤ -平成の大合併ー

2012年01月27日 08時19分11秒 | 明治維新とは・・・・

現在の市町村の数は、1719(東京特別区23は除く)あります。
内訳は、市が 787、 町が 748、 村が 184となっています。

明治21年(1888年)には 71314もあったのですが、明治の大合併、昭和の大合併、平成の大合併を経て、上記の数になりました。

 過去の水彩画 2008年作 「たぬき」 F6号

明治の大合併は、当時近代的な地方自治行政を実現するための基盤を整備することを目的として小学校や戸籍の事務処理を行うため戸数300~500戸を基準として進められました。
その結果、1888年(明治21年) 71314 が 1889年には 15859 とほぼ1/5に減少しました。

昭和の大合併は、戦後の地方自治、特に市町村の役割を強化する必要性から、中学校1校を効果的に設置管理してゆくために進められました。
1953年(昭和28年) 9868 あったものが 1961年(昭和36年)には 3472 となりました。

では、平成の大合併は、何を目的としたのでしょうか?
その目標とは、地方分権の推進をしてゆくなかで、自治体数を1000にするという方針をの基に進められました。
結果 1999年3月31日 3232 あったものが
    2006年3月31日 1821    2008年3月31日 1793 

平成の大合併は、市町村合併特例新法が期限切れとなる平成22年(2010年)3月末に終了しました。

 

 

それぞれの大合併の最終的な目的は、地方自治行政の効率化なのですが、その評価には色々問題点もあるようです。
合併によって、旧市町村の活力が喪失しており、住民の声が届きにくくなって住民サービスが低下しているとか、旧市町村地域の伝統、文化、歴史的な地名などが喪失しているなど合併による問題点や課題があるようです。


廃藩置県から道州制まで ④ -都道府県庁の所在地

2012年01月20日 13時35分09秒 | 明治維新とは・・・・

都道府県庁の所在地としてどのようにして決められたのでしょうか?
その主流は、城下町と天領が中心に決められました。

最も多数を占めるのが、県内最大の城下町が選ばれました。
23都市がこのケースです。

大分は、幕末は小藩であったのですが、大友宗麟の居館があったので選ばれたそうです。
岐阜も尾張藩領だったのですが、かっては、織田信長の居城のあった城下町でした。

天領では、東京や大阪、京都は当然重要都市として決められたと思われますが、静岡や甲府は、元大名領であったが、移転等で天領になっていました。
奈良、横浜、新潟、大津、神戸、長崎などの天領の諸都市も、単に幕府領だったと言うだけではなく、近隣の天領支配の中心的都市という性格を持っていました。

例えば、大津代官所は近江国内各地に散在する天領を監督しており、その組織がそのまま県庁へ移行しました。

  水彩画2008年の作品 
             ”昼下がり” F8号            

奈良に対する大和郡山、大津に対する彦根、神戸に対する姫路といった選択肢もあったようです。
これら、大きな藩の城下町、天領の重要都市というケースには、いずれも全県的な交通の要所にあり、また県の公共施設としての使用可能な建物も多かったので、スムーズに県政がスタートしたようです。

それ以外には、統廃合に際して地域間バランスをとるために決められた場合他に有力な候補があったにも関わらず、県庁としての建物がないために県庁にならなかったところもあります。
前者の都市には、青森、千葉、宮崎など、後者は高崎、浦和、長野などです。

こうして決まった県庁所在地は、明治17年の栃木県庁の宇都宮移転以降は、変更されたことがありません。

 


廃藩置県から道州制まで ③ -律令制の復活?-

2012年01月17日 08時32分25秒 | 明治維新とは・・・・

今日(1月17日)は、阪神・淡路大震災から17年が経ちました。
昨年は、東北大震災が起こり、あらためて日本は自然災害、特に地震の怖さを知らされました。
まだ、南海・東南海地震の発生が予想されています。
日本の宿命といえばそれまでですが、その対策を社会全体で考えていかなくてはならないと思います。

       ◎          ◎         ◎         ◎

現在の都道府県は、幕藩体制の藩を基礎に設けられたものでありません。
また、藩の領域を近代国家に相応しい地方行政の単位とすることは不適切でもありました。

最初は、版籍奉還がされた時は、江戸時代の藩がそのまま県になり、天領など群小領地はある程度まとめた上で同じく県とされました。

しかし、それが徐々に整理されて、明治4年ごろには北海道。沖縄以外が75府県にまとめられ明治9年ごろにはほぼ現在の形となりました。

その後も微修正が行われ、沖縄、徳島、福井、鳥取、富山、佐賀、宮崎、北海道、奈良の各道県が置かれ、明治21年に香川県が再登場して最終的に現在のかたちになりました。

ここまで書くと、すんなりと決まったようですが、中身は、かなり激しく離合集散がありました。
例えば、佐賀県は一旦三瀦(みずま)県(県庁所在地は久留米)に併合されたあと9年には長崎県に移されていました。
奈良県も堺県に吸収されたあと大阪府に入っています。

     
              今年 辰年だけではなく、今後の平穏、平和を祈らざるを得ません。


そこで、領域の具体的な決め方というのは、何を基準にされたのでしょうか?

大まかに言って、各県の大きさが極端に違っては困るということが根底にありました。
特に江戸時代の藩には飛び地が多くあり、その整理をもしてゆかなくてはなりませんでした。

そこで、新政府が注目してのが、律令時代の国だったのです。
ナポレオンの時代、フランスでは、馬で日帰り出来るくらいを基準に決められほぼ同じ面積の領地にしたと言われています。

そのため、フランスの県は、ほぼ丸い形をしています。
県の数も83、また秦の始皇帝も分捕った国々は全国同じ面積とし、それが48に分けたと言われています。

これが中央集権的に行政を進めていくのに都合の良い目安と考えられているようです。
従って、明治政府も、これらを参考に、中央集権体制を目指して決められた律令制の国の復活を基本としてことは、充分、合理的であったのです。


廃藩置県から道州制まで ②ー府藩県三冶体制ー

2012年01月15日 13時07分57秒 | 明治維新とは・・・・

このテーマの1回目(12月29日付)から少し日が経ちましたが、2回目をやっと載せることができました。

第1回で廃藩置県当時は、3府302県もあった行政区画が、今は1都1道2府43県となり、これが今後もっと少なくなる道州制が取りざたされていることを書きました。

江戸時代の行政区画が、その当時から”藩”と呼ばれていた訳ではありませんでした。
当時幕府による公式な呼称は、”領分”とか”領知”あるいは”知行地”でした。

そもそも藩というのは、本来の行政区画と一緒に考えない方がいいのかもしれません。
と言うのも、大名領は、将軍から臣従した大名に対して知行地として将軍からあてがわれたものです。
だから、将軍は、必要に応じてあてがった領地を追加したり、削ったり、没収したり、はたまた、領地替えをも出来ました。

   
     跳ね橋 (昨年の思い出 オランダにて)  水彩画F10号  

明治維新後の政体書によって始めて藩が公式の行政区画となり、そして、各藩は原則として藩庁のある所在地の名前によって藩名がつけられました。
例えば、「仙台藩」、鹿児島藩」など・・・・・

明治元年末までの戊辰戦争で若干の領地の入れ替えがあったものの、ほとんどの藩は幕末以来の領地をそのまま行政区画としました。

明治2年6月17日(太陽暦1869年7月25日) 版籍奉還で藩が明治政府の下で行政区画として、藩主が知藩事に任命され、ここで府藩県三冶体制が確立しました。
その体制は、廃藩置県ですべての藩が廃止されるまで続きます。

このように、廃藩置県の明治4年(1871年8月29日)まで、色々と変革しながら藩が廃止され、県が出来ました。

 


廃藩置県から道州制まで ①

2011年12月29日 16時04分44秒 | 明治維新とは・・・・

今、道州制が叫ばれています。
この「道州制」は、明治維新の「廃藩置県」に匹敵する大革命です。

「廃藩置県」が幕藩体制を解体させ中央集権制に移行させたのに対して、「道州制」は中央集権体制の解体を必然とする制度で、どちらも既得権の排除という難しい事象が伴います。

この難しい「廃藩置県」がなぜ成功したのか?

そして、廃藩置県が行われた当時は、3府302県あったのが、統廃合を重ねて、どうして今の1都1道2府43県になったのかを考えていきたいと思います。

そして、今県民性というのが言われていますが、これが藩体制とどう関わったのでしょうか?
もともと江戸時代には、藩という概念がなかったのですが・・・・・

  過去の水彩画
   2008年作  ”日吉神社のもみじ”  F8号

「廃藩置県」というのは、明治4年(1871年)、明治政府が藩を廃止して、中央直結の府と県を置き中央集権体制を完成させた政治的な変革のことです。

明治2年(1869年)に「版籍奉還」が行われ、これは、諸大名から天皇への領地と領民の返還で、この時点で土地と人民は明治政府が所管すると言うことになったのですが、その後も、まだま封建的藩体制が実質的に続いており、これをなくするために行われたのが「廃藩置県」なのです。

「版籍奉還」は、まず薩摩、長州、土佐、肥後の4藩主が奉還し、他藩もこれにならい、明治政府は全国の支配権を手中に収め、藩主を藩知事に任命しました。

「廃藩置県」では、これまでの藩知事を東京に住まわせ、県には、政府から別の知事を送りました。
この時、3府302県ありましたが、1871年の末までに統廃合を行い、3府72県に減っています。

ともかく、廃藩置県が行われた背景には、藩の財政の困窮がありました。
多くの借金があった上に、 戊辰戦争で財政の破たんが追い打ちをかけ、藩から新政府に投げだしたとも思われる節があります。

ちなみに、摂津国は、江戸末期は、天領(旧豊臣家直轄地と廃藩になった茨城藩、中島藩、断絶した味舌藩)と高槻藩、尼崎藩、三田藩、麻田藩がありましたが、廃藩置県で大阪府、高槻県、尼崎県、三田県、麻田県、兵庫県になっています。