徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

桜を求めて石山寺

2010年04月07日 21時11分21秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

4月6日、新聞の”桜だより”によると、七分咲きとのことで、行ってみることにしました。(4月7日の朝刊では、満開でした)
また、西国三十三か所十三番札所でもあり、まだ納経帳に記載していませんでしたので、花見を兼ねて行ってきました。

巡礼を思いついて大分経つのですが、どちらがついでか分からなくなり、この調子ではいつ、納経帳を完成出来るのやら、心細い限りです。

   

JR石山駅から徒歩で石山寺に向かいました。
20数年前に行ったことがあるので、その時の記憶では、近かったように思ったのですが、思った以上に時間がかかりました。

石山寺といえば、紫式部で、ここでも、以前の記憶とは、外れていました。
紫式部が執筆したという部屋は、山の上の舘の薄暗い所と記憶していました。
薄暗い部屋というのは、合っていたのですが、山の上ではなく、本堂の傍の部屋でした。
記憶といものは、案外あてになりません。
先日、某TV番組でも、古い記憶というものは、自分の良いように解釈して、ねつ造され、複数の事項が、絡まって記憶されている場合が多いそうです。

歳(加齢)は、多くの出来事がいつの間にか、頭の中の記憶と記録には、絶対と言うことが出来ないようにしてゆくようです。

  

  

話が逸れました。
さて、石山寺の桜は、ほぼ満開でした。
古木にはじけるほどの花びらを寄せ合っている様子は、やっと咲けたという思いがあふれています。

石山寺は、桜だけではなく、四季を通じて、色々な花が境内を飾っているようです。
まだ水仙も咲いており、その横には、すでにつつじが咲いていました。
他に椿、梅、藤、ユリ、もみじもありました。

   

境内を一回りしましたが、新しい建物などがあり、これも以前より徐々に拡大していったのではと思われました。
紫式部の銅像などは、新しく、その周りもきれいに整地され、新しい柵や道が作られているようです。

帰りは、京阪電車の石山寺駅から浜大津で乗り換え、三条に出て帰るのですが、蹴上で途中下車して、京都の桜の名残を惜しんできました。
その様子は、後日に。


飛鳥路を行く ⑤ -飛鳥寺ー

2009年10月29日 13時24分26秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

西国三十三か所第七番札所の岡寺を中心に飛鳥路巡りも最後の目的地である飛鳥寺に到着しました。

石舞台からここ飛鳥寺までの道は、きれいに舗装されて、自転車で10分ほどでした。
周りは、静かな田園風景で、古の人もあの山々などと同じ景色を眺めたのでしょうか?

飛鳥寺は、日本最古のお寺で飛鳥の大仏で有名です。

            

欽明13年(552年)、百済から仏教が日本に伝わり、それ以来、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との争いが35年も続いたのですが、蘇我氏が勝利し、その結果、百済から職人を呼び、蘇我馬子の発願で建立を開始し、推古4年(596年)に建立したのが、この飛鳥寺です。

初めのお寺の名前は、法興寺でしたが、都が平城京に移るとともに元興寺となり、建久7年(1196年)には、落雷による火災により焼失後、衰退が著しく、江戸時代の書物には、門もなく、「かりそめなる堂」と称された建物に本尊の釈迦如来像が安置されるのみだったようです。
現在のお寺は、法興寺金堂跡に建てられた小寺院で公称安居院(あんごいん)と呼ばれており、馬子が建立した寺院とその法灯を継いで現存する寺院を包括して「飛鳥寺」と呼ばれています。

    
   
多くのお寺の内部は撮影禁止が多い中、ここは撮影が許されました。

その本尊の「飛鳥大仏」は、法隆寺の釈迦三尊像より17年早く、全長2.7mの金銅製で、法隆寺と同様顔と手が大きく、面長です。
が、国宝より1ランク低い国指定の重要文化財になっています。
というのも、傷みが激しく、当初の部分は、顔の上半分、左耳、右手の第2,3,4指のみだそうです。

  

  
    蘇我入鹿の首塚               首塚から飛鳥寺を望む   

飛鳥寺から西に100mほどのところに、蘇我入鹿の首塚があります。
飛鳥寺の南には、大化の改新の舞台となった伝飛鳥板蓋宮跡があり、首が飛んできたところに首塚があるとか・・・・・ 真偽のほどは???です。

飛鳥路の一日は、これで終わりですが、1400年間同じ場所に座っている大仏は、これまでの歴史を見てきたことでしょう。
日本の歴史がこの静かな山里で起こったことを思うと、もう一度訪ねて見たい思いがしました。


飛鳥路を行く ④ -石舞台古墳ー

2009年10月26日 13時02分24秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

岡寺から自転車で数分のところに「石舞台古墳」があります。
石舞台古墳は、奈良県明日香村の飛鳥歴史公園内石舞台地区の中央に位置する我が国最大の古墳時代後期の古墳で、昭和27年に国の特別史跡に指定されています。

    
    石舞台の周りに堀があります。       石舞台        

30数個の岩の総重量は約2300トンで、特に天井石は約77トンとかなりの重量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれます。

盛り土の上部が、剥がされているため、その形状は、2段積の方墳とも上円下方墳とも下方八角墳とも考えられています。
古くから石室の天井石が露出されていたようで、そのことは各種の文献に書かれています。

  
  石舞台 裏側から              側面から   

被葬者は、蘇我馬子であったとする説が有力で、盛土が剥がれているのは、蘇我氏と対立するものが懲罰的に墓を暴いたのではないかとも言われています。

天井石の上部が広く平らで、まるで舞台のように見えるその形状から古くから「石舞台」と呼ばれています。
石舞台という以外に、地元では「石太屋(いしふとや)」とか「石蓋(いしぶた)」などの名前で呼ばれており、「キツネが女に化けて古墳の上で踊ったことから「石舞台」と言われているという伝説もあるようです。・・・近年に創作された話とも言われています。

  
  内部への通路                  石舞台の内部 隙間から光が・・・

昭和8年からの発掘調査で方形の墳丘、堀が存在すること、6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されており、その上で築造は7世紀初め頃と推定されています。

いずれにしても、かなりの重量の石をどのようにして運搬したのか、そしてこの石を持ちあげたのか、不思議です。
エジプトのピラミッドのようにして、石を運んだのであろうと思われますが、その技術は、当時としては一級であったのには間違いがないようです。


飛鳥路を行く ③ -岡 寺ー

2009年10月25日 14時44分14秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

今回の目的、岡寺に・・・・
橘寺から自転車で5分ほど行くと鳥居があり、そこをくぐるとかなり急勾配の坂道が続きます。
到底、自転車では行けないので、押して坂を上がりました。
10分ほどで、岡寺の仁王門に着きました。

  

西国三十三か所第7番の岡寺は、通称で正式名は「龍蓋寺」です。
その仁王門の石碑には、岡寺と書いてあるのですが、仁王門の上部には正式名である「龍蓋寺」と書いてあります。

          

そもそも、このお寺の名前の由来にも、やはり、伝説がありました。
開基の義淵僧正は、両親が観音に祈願して生まれ、観音の申し子といわれ、それを聞いた天智天皇が、義淵に岡宮を与え、それを寺にしたのですが、その創建年は不明だそうです。

  

お寺の名前の由来は、この義淵が、近くに住む龍が村人を苦しめているのを見て、法力で龍を池に閉じ込め石で蓋をしたという伝えから「龍蓋寺」という名称になったということです。

こうした伝説は、「災いを取り除く」信仰に発展して、平安以来の観音信仰に、厄除け信仰が加わり、ここが最初の厄除け霊場となったようです。


 


飛鳥路を行く ② -橘 寺ー

2009年10月24日 14時16分41秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

亀石から自転車で2,3分の距離でした。
当初は、左手に見えるのが橘寺と思ったのですが、そこは川原寺跡で、橘寺は、道路を挟んで真向かい、道路から右手にありました。

  橘寺の全景

橘寺は「新西国三十三か所」のお寺で、「西国三十三か所」に比べると、その選定の歴史は新しく、昭和7年(1932年)に聖徳太子の和の道を基準に、当時の神戸新聞、京都日々新聞、大阪時事新報の新聞連合が、一般読者の意見を入れて選定されたものだそうです。
後で訪れる「飛鳥寺」も「新西国三十三か所」のお寺です。
他には、大阪の天王寺、太融寺、水間寺、や道成寺、鞍馬寺などで、歴史は古く、有名なお寺が名を連ねています。

  
   お地蔵さんの後ろに橘寺が・・・      本坊から東門を望む

さて、この橘寺は、新西国三十三か所のお寺に選ばれるのは当然なお寺なのです。
というのも、このお寺は、聖徳太子の生誕の地と言われているからです。

本堂(太子堂)は、元治元年(1864年)に再建された建物で、本尊として聖徳太子像が安置されているそうです。

  
   本堂前の太子の愛馬像        二面石 右と左を向いていますが・・・        

境内には、太子の愛馬「黒の駒」があり、二面石というのもあります。
高さ1m程の石像で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現しているそうです。
はっきりと人の顔とは見えませんが、そう言われれば、そのように見えるようです。

  
 往生院に安置されている左に聖徳太子像  往生院の天井 新しく鮮やか

又、往生院(新しく建てられたようです)には、昭和42年に村人が寄贈した聖徳太子像が安置されていますが、この像が何時造られたのか不明で、色々と訳があるようで、各地遍歴してきた放浪の仏さんだったようです。

余計なことですが、最近、聖徳太子は、架空の人物と言われ出しています。
誰かが作った伝説の人物だそうですが、真偽のほどは分かりません。
これでは有難味がなくなります。 神話もそうですが、それはそれで、そーっとしておいた方が良いのではないでしょうか?


飛鳥路を行く ① -亀石ー

2009年10月22日 08時42分55秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

西国七番札所の岡寺とその周辺の飛鳥路をサイクリングをすることを思い立ち、秋の飛鳥路を巡ることにしました。

岡寺には、最寄駅近鉄岡寺駅から4Kmほどあり、歩いても良かったのですが、行動範囲を広げようと、自転車で回るのも悪くないと思い、駅前にレンタルサイクル屋があることを調べました。
が、レンタルサイクルは休みで、仕方がなく歩くことにしました。
休業日をも事前に調べなかったのがいけなかったのですが、あとで分かったのですが、岡寺駅だけではなく、その前後の駅(橿原神宮前駅とか飛鳥駅)にもレンタル屋がありました。

地図を片手に、15分歩いたところでレンタルサイクリ屋亀石営業所があり、ここで初期の目的通りに、自転車を借り、岡寺だけではなく、周辺の旧跡、遺跡、お寺を廻ることに再度計画変更しました。

  
  ”亀石” 何に見えますか?         飛鳥路 川原寺から橘寺を望む

まず、レンタル屋の近くの、”亀石”を訪れました。
ここ飛鳥路には、古墳や古くからの伝説のある遺構が多くあるそうです。
その一つがこの”亀石”で、亀というより”カエル”のようにも見えました。
いつ、なんの目的で造られたのかは不明ですが、伝説が伝わっています。
奈良盆地は、かって湖だったころ、蛇とナマズの争いで、湖が干し上がり、湖にいた亀が全滅したそうです。その亀を供養するため、村人が「亀石」を造って供養したそうです。

天気も良く、サイクリングには、最適で、サイクリングを楽しんでいる人や遠足で来ている小学生など、多くの人出でした。 

「亀石」を後のして、あと橘寺、石舞台古墳、岡寺、飛鳥寺を回る予定で、出発しました。
橘寺以下については、後日述べてゆきます。 

 


清水寺といえば、ここでしょう。

2009年09月07日 18時43分45秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

先日、西国三十三か所25番札所の播州の清水寺に行ってきたのは、既に書きましたが、その時、清水寺と言えば、京都にある方が有名で、そこには、三十三ヵ所としてお参りしていないことに気が付き、先週に行ってきました。

   
     清水寺、本堂舞台・・・・遠く京都市内が見えます。  舞台に並んで三重の塔

この関西に清水寺が2つあるのでは、全国では、清水寺は、幾つあるのか、検索してみると、88寺あるそうです。
この88寺は、全国清水寺ネットワーク会議というものがあり、毎年、4月3日(ミズの日)に京都の清水寺で世界環境浄化祈願際を行っているそうです。

北海道から九州まであるのですが、台湾にも4寺あり、この会議に参加しているそうです。
そして、その読み方は、「きよみずでら」が多いのですが、「せいすいじ」と読むお寺もあります。

宗派も色々で、曹洞宗、天台宗、真言宗、臨済宗など・・・・
また、御本尊も色々で、薬師如来もあれば阿弥陀如来もあり、観音さんも尼仏もあるようです。

何といっても、1994年に世界遺産に登録された、京都の清水寺が、一番有名でしょう。
それも、国宝や多くの重要文化財があり、本堂の舞台も国宝で、今の建物は、江戸初期の再建で、京都のシンボルの一つとなっています。

平安末期には、興福寺と延暦寺の争いに巻き込まれ、たびたび焼き払われたのを、3代将軍 家光が再建したものが多く残っています。

次回に、もう少し詳しく書いてみます。


新緑の播州清水寺

2009年08月25日 12時09分59秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

久し振りに西国三十三ヵ所巡りを思い立ち、ドライブ気分で行ってきました。
三十三ヵ所のうちお参りしたのは、まだ10ヵ所で、今回の清水寺で11ヵ所となります。
2005年3月の中山寺にいったのが初めで、当初は1年かけてなどと思っていたのですが、この調子では、いつ満願出来るのか分かりません。

第十六番札所の京都にある清水寺が有名ですが、第二十五番札所の播州には、同名の清水寺があります。

もちろん、宗派が異なり、開創年は、播州の清水寺の方(627年)が、京都の清水寺(778年)より古いのですが、どうもあらゆる面で負けているようです。

しかし、本尊は、同じ”十一面千手観世音菩薩”です。

  
     仁王門                  大講堂から月見亭を望む

中国自動車道のひょうご東条ICを出て、国道を北上しますと、日本の懐かしい風景と緑の山々が清々しく、車も少なく、快適なドライブでした。
途中には、ゴルフ場が、多くあり、道路が整備されているのも頷けます。

入山料は、一人300円で、自動車で通る場合、乗っている人の人数分を徴収していますが、歩いて登る場合は、無料だそうです。
ただし、そのゲートから清水寺の仁王門までは、かなり急な坂道を登らなくなりません。 距離がどのくらいあるのか、分かりませんが、どちらにしても歩いてとなると、かなり時間がかかるものと思われます。

  
    大講堂                  根本中堂  

広い駐車場を前にして仁王門が堂々と建っています。
そこから、うっそうとした緑の中に薬師堂、大講堂、根本中堂などが、古いたたずまいを見せていました。

久しぶりに、清々しい気分を味わうことが出来ました。


歴史が眠る、もう一つの京都

2007年10月25日 13時49分24秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

昨日の続きです。
三十三間堂をあとにして、昼食を食べようと食堂を探しましたが、付近にはありません。 
お寺の前とかイベント会場の付近には、食べ物屋があるものと思っていたのですが、どうやらこの考えは間違っていたようです。

うどん屋かフアミレスがないか、豊国神社に向かって大和大路を北に上って行く事にしました。
途中にフランス料理店がありましたが、コースが3000円でした。
ここを通り越して、とうとう豊国神社の前まできましたが、ありません。
耳塚を見て、当たりを探すと、神社を100mほど過ぎたところに小さなうどん屋を見つけ、そこで昼食を取ることとしました。

店内は、修学旅行の中学生らしき女学生が8人ほどいたのですが、それで店内は一杯で、カウンターに座ることとしました。
主人曰く「このあたりで食べ物屋は、流行らないからありませんよ。 付近の住人は、年寄りが多く、食べに来ません。 元来、京都人はケチなんです」と・・・・

  
   豊国神社の唐門             方広寺の鐘楼

食事をそこそこに済まし、豊国神社にお参りに行きました。
太閤さんの神社らしく、唐門は、立派ですが、参詣者は少なく、寂しい限りです。
この神社は、豊臣滅亡後、家康によって取り壊されましたが、明治13年に再建されました。
立派な唐門は、伏見城の遺構で、国宝です。

隣に方広寺がありましたが、そこはもっと寂れていて、本堂の屋根は傾いていました。 わずかに大きな鐘楼が、大仏の大きさを偲ばれるだけでした。
「国家安康、君臣豊楽」の銘文が刻まれて、この文字が歴史を大きく左右したことも忘れさせるようでした。
同じ太閤さんのゆかりの土地でも、大阪城の賑わいに比べると、この静けさは何なんでしょうか?

  
  六波羅密寺 左下は清盛塚        
境内にある念仏石

ここを又、北に15分ほど歩いて、五条通りを抜けると、六波羅密寺があります。
西国17番札所で、ここの本尊は、十一面観音立像(国宝)で病魔を鎮める仏さんですが、12年に一度しか開帳されず、次の開帳は2012年だそうです。
平清盛ゆかりのこの寺には、清盛の塚や宝物殿には、清盛の坐像や開祖した空也上人像や地蔵菩薩があります。
ここも、輝かしい歴史と裏腹に、寂しい佇まいでした。

京都には、歴史が静かに眠っています。 
多くの遺跡や旧跡も、人気があり、賑やかなところもありますが、今日回ったところは、歴史の脚光を浴び、その重さにも関わらず、現在に取り残されたところでもあったようです


長谷寺の紫陽花

2007年06月24日 08時27分18秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

長谷寺の花と言えば、”牡丹”が有名ですが、長谷寺には四季を通じて折々の花が咲き、別名「花の御寺」と呼ばれています。
冬には、さざんか、寒牡丹、春には、梅、つばき、桜、つつじ、夏には、紫陽花、百日紅、石楠花、秋には、彼岸花、もみじ、等と長谷寺の花譜に書いてありました。

先日、その紫陽花を求めて長谷寺に行ってきました。
長谷寺は、西国三十三ヶ所観音霊場の第8番です。
初瀬山(はせやま)の中腹に位置し、朱鳥元年(686年)、道明上人が天武天皇のために「銅板法華説相図」を安置したことに由来するそうです。

  
     本   堂                      登   廊

本堂は、国宝に指定され、徳川三代将軍家光が寄進され、慶安三年(1650年)に建立されました。
ご本尊は十一面観世音菩薩で、天文7年(1538年)に作られ、身の丈三丈三尺(約10m)で、大きさに圧倒されました。

  

さて、紫陽花ですが、仁王門から本堂につながる屋根に覆われた399段のゆるやかな石段の登廊があり、その右手の山間部に色取り取りの8000株の紫陽花が、咲いています。

この紫陽花の花を昔の人は、色変わりするさまを恋人の心変わりになぞらえていたそうです。

  

    

                        形も色も、色々、うっとうしい梅雨空に相応しい花です。