新年 明けまして おめでとう ございます。
本年も よろしく お願いいたします。
平成25年 元旦
今日は、”仕事納め”です。
この仕事納めの日というのは、主に官庁での話で、”御用納め”というのが正しいようです。
最近は、多くの企業では、仕事納めと称して、1年の締めくくりをしています。
では、なぜ12月28日が、仕事納めの日になったのでしょうか?
別に27日でも29日でも良かったのでは・・・・・
日本の行政機関では、「行政機関の休日に関する法律」*があり、その第1条には、 次の各号に掲げる日は、行政機関の執務は原則として行わないものとするとあり、その第3項に、12月29日から翌年の1月3日までの日。とあります。
*「行政機関の休日に関する法律」は、昭和63年12月13日の法律第91号
この法律では、12月28日は、御用納めとも仕事納めとも書いていないのですが、29日から休みのため、28日が仕事をするのは、本年最後の日ということで、このような呼び方をしているものと思われます。
去る11月に訪れた金沢にて、 ”雨のひがし茶屋街” F8号 水彩画
元々、1873年(明治6年)から官公庁は12月29日から1月3日までを休暇とすることを、太政官布第2号「休暇ヲ定ム」に、1月1日から3日、6月28日から30日、12月29日から31日までと決められていました。
6月の休暇は、すぐに取り消されたようですが、何のための休暇なのか不明です。
このように、日本の官公庁では、明治6年から12月29日から1月3日までは、休日と言うことを法律で定められていました。
福留の入団が決まりました。
これで、タイガースの補強は終了したようです。
でも、これで良かったのでしょうか?
今年が5位という屈辱的な結果になり、球団にとしては、緊急事態と捉え、早くから中村GMを設置し、補強に取り込んできました。
よほど、あの暗黒時代の再来を恐れた結果なのでしょうか?
2003年、2005年とリーグ優勝をしたものの、それ以降は、もう一つ波に乗れず、優勝出来る布陣と言われながら、結果が伴わず、悔しい思いをしたのは、球団だけではなく、それ以上にファンの悔しさは頂点に達していました。
左は西岡、右は福留・・・この二人は、期待通りの活躍が出来るのでしょうか・・・
足りないところや弱いところを補ったり、強くするのが補強であるとするなら、タイガースには弱点だらけであることが露呈されたと言うことでもあるわけです。
と言うことは、今の戦力は、まったく当てにならないということでもある訳で、現選手はもっと怒らなくてはならないのでは・・・・そして、もっと技術や能力のアップを図らなくてはならないようです。
それと、いかにスカウトの目が狂っていたと疑わざるを得ません。
そんな危惧を吹き飛ばしてくれることを期待したいものです。
今年のドラフトでの新人入団は、例年以上に期待感が強いです。 特に藤浪の育成には
球団のメンツが掛っています。 将来、折角入団しても、FAなどで補強されれば、
タイガース入団を嫌がることも考えられます。
金本・城島・ブラゼル・藤川が抜けた穴は大きく、その穴埋めに危機感を持った球団の焦りがあったのでしょうか?
折角、出てきた若い芽を摘んでしまうことにならないのでしょうか?
昨年、ブレイクした良太や上本、調子を上げてきた伊藤隼太などが割を食ったと言われないようにして欲しいものです。
生え抜きを大事にしなくては、本当のチームの継続した強さがなくなるのではないでしょうか?
12球団ワースト総得点(411)、本塁打数もセ・リーグ最小(58本)をクリアーするだけでは、勝負に勝てません。
なにしろ12安打しながら2点しか取れない打線、ライト前に飛ぶとランナーはサードまで走られる守備や肩。
このイライラ打線や守備能力を解消するのが、補強とするなら、確かに守備の良い西岡や福留は、最適と言えます。
それが、日本での実績をそのまま生かせばの話であって、2人とも大リーグではダメだったから帰ってきたのであって、それを鵜呑みにするのは、そしてそれに大金を払うのには、また若いものを犠牲にしてまでの価値があるのかどうか、結局やってみなくては分からないということになりかねません。
逆立ちしたトラッキー
タイガースの弱点は、勝負に弱く繋がらない打線、センターラインの守備の弱さなどが上げられますが、そこに藤川が抜けた穴であるクローザーの不在などです。
確かに、補強した選手の能力を出し切るなら、この弱点はかなり補充されるのではないでしょうか?
但し、これも来年1年に限らず、同時に若手の育成にも力を入れて欲しいものです。
特に、今年、ドラフトで入団した卵たちの育成が、継続した強さに繋がるようになって欲しいものです。
FAやトレードの補強は、一時的と割り切って考え、若手を、そして生え抜きの選手の育成に力を入れて欲しいものです。
去る、冬至の日、2012年12月21日に地球が滅亡するとして世界中の話題をさらったマヤ文明とはどんなものなのでしょうか?
マヤ文明は、紀元前2600年ごろ、今から約4600年前、中央アメリカ南部で誕生し、それから数千年にわたってメキシコ南部から中米南部までの広大な範囲にわたって栄えとされています。
マヤ文明が、「謎の古代文明」と言われている理由として、熱帯ジャングルの中で栄え、なぜ繁栄の絶頂で突然この地から消え失せたのか、いまもって分からないからです。
また、マヤ文明は、考古学の常識を越えた古代文明であり、マヤ人たちが高等数学と高度な天文学によって作り上げた暦を使って予言を操っていたことなどが謎の古代文明と言われる理由です。
テイカル2号神殿と言われる建造物
考古学とは、一般的に大文明が誕生する必要条件として、クルマ(車輪)の発明、金属(鉄)の使用と、それが大河の辺で誕生するという地理的条件が噛み合わされて始めて大文明が発生すると考えられています。
4大文明と言われる、エジプト、黄河、インダス、メソポタミアは、いずれも上記の必要条件を満たしていたのです。
(ただし、この4大文明は、世界的には認められていません。)
しかし、マヤ文明は、その必要条件を一つも備えていませんでした。
まさに、考古学の常識を越えた古代文明なのです。
西暦1492年 コロンブスがアメリカ大陸を発見した時は、すでにマヤ文明は密林の彼方に消え失せた後でした。
この時メキシコでは、アステカ帝国が栄えていました。
マヤ文明は、天文学や数学、建築の高度な知識を持っていたことで有名ですが、特に天文学が注目を浴びています。
1年が365日であることを正確に計算して、現在の太陽暦に基づく計測値と比べてもわずか17.28秒の差なのだそうです。
この暦では、
第5の太陽の時代は紀元前3113年に始まり、5128年目に終焉を迎えると言われるものです。
この5128年目が「西暦2012年12月21日」にあたるのです。
そのために、2012年に世界が滅亡するのでは・・・という情報が流れたのです。
でも、なにも起こりませんでした。
そこで、第5の太陽が終わると言うことは、2012年に、第6の時代が始まるということも解釈出来るのです。
事実、今となっては、この説が世界的に納得させられているようです。
要は、時代の移ろいを示しているのに過ぎないのかも知れないのです。
あの高度な天文学を駆使して暦を操って予言していた割には、肝心のマヤ人の滅亡は分からなかったのでしょうか???
最近、毎年のように寝台列車は消えていってます。
あの大ブームを起こしたブルートレインは、今では数えるほどしか運行されていません。
それも車両の運用年数も40年を過ぎようとして老朽化が激しくなっています。
この時に、JR九州では、新しく鉄道の旅の概念を変える寝台列車「ななつ星」を来年の10月に第1期として運行します。
第1期の予約は終了していますが、第2期の予約は・・・・
第2期(平成26年1月~3月出発分)の予約受け付けは平成25年1月4日(金)~3月31日(日)
その費用は、1泊2日コースは、15万円~22万円
3泊4日コースは、38万円~55万円
ななつ星は、スイート12部屋とデラックススイート2部屋で構成され、1列車の定員は、28名。
客車7両編成で、1両あたりの定員はわずか4名という贅沢な空間が楽しめるということです。
ちなみに、通勤電車1両の定員は約140名、B寝台1両が約30名。
この寝台列車は、鉄道の概念を変え、新しい旅の形として定着するのでしょうか?
そして、このような極めて豪華な列車、ななつ星は事業として儲かるのでしょうか?
現存の豪華寝台列車として、カシオペアやトワイライトと比較してどうなのでしょうか?
乗車率100%では、当然乗客数の多い方が、売り上げが多いのですが、カシオペアやトワイライトの乗客率を75%とすると、
カシオペアの1日あたりの収益は320万円、トワイライトのそれは220万円となります。
ななつ星の乗車率を90%とすると、1日の収益は、トワイライトの75%と同額になるそうです。
つまり、乗客数は少ないですが、目標値を達成すれば、トワイライト並みの収益を得られるようです。
これだけの旅費を出せる富裕層や海外からの客を取り込めることが出来るかどうか、そしてこのななつ星が子供の夢を与える列車となれるかが、今後の鉄道の旅の発展に繋がるのではないでしょうか?
この記事は、洋泉社 発行 「最新鉄道ビジネス」鉄道ジャーナリスト中嶋茂夫氏からの文中を参考にさせていただきました。
去る11月21日に丸岡城を訪れた時のブログは、下記をご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/ganbaro433/e/7422ddfa82939c654a7868811e254809
ここでは、その丸岡城の別名 霞ケ城について書きます。
まず、お城の所在地は、福井県坂井市丸岡町霞町1丁目ですが、勿論、その地名は後から付けられたもので、別名は地名からのものではありません。
天正三年(1575年)織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝家の甥、伊賀守勝豊が豊原からここに移り築城した。
豊原は一向一揆の本拠地であったため、築城後もこの丸岡城に、一揆の残党が押し掛けてくることもしばしばありました。
その度に、井戸の中から大蛇が表れて、城に”かすみ”をかけて城の危機を救ったという伝説から「霞ヶ城」と呼ばれたそうです。
現在も春先には、この地には”かすみ”におおわれるそうです。
この井戸から大蛇が・・・・・ 今の鯱は、石ではありません。木彫り銅版張りです。
この古いお城には、他にも色々と言い伝えられていることがあります。
”日本一短い手紙”については、11月21日の訪問記にも書きました。
なお”石の鯱”については、もとは木彫り銅版張りであったものを昭和15年~17年の修理の際、戦争中と言うこともあり、銅版の入手が困難でやむなく、全国でも珍しい石製に造り変えたものだそうです。
そして、昭和23年の福井大地震により落下しそのまま残っています。
なお、現在の天守閣にのっている鯱は、元の木彫り銅板張りに復元したものです。
「人柱お静」の慰霊碑 昔のツイッターでしょうか・・・・・
もう一つ伝説があります。
「人柱お静」というもので、柴田勝豊が築城の際、天守閣の石垣を何度積んでも崩れるので人柱を入れることに進言するものがありました。
人柱に選ばれたのが、2人の子供を抱えていた”お静”でした。
お静は、2人の子供を侍に取り立ててもらうことを条件に、人柱となりました。
が、その後 勝豊が他に移封され、お静の子供は侍に取り立てられることはありませんでした。
お静は、これを恨み、毎年、春には堀に溢れる豪雨が降り、これはお静のたたりとして、小さな墓を建て霊を慰めたということです。
映画”のぼうの城”の舞台がこの”忍城”であったことを11月6日の当ブログで述べました。
映画の感想は下記を参照していただければ、忍城が”忍の浮き城”と呼ばれる理由はおわかりのことと思います。
http://blog.goo.ne.jp/ganbaro433/e/c796555f7f1b2f721049ba98dcbd3d13
豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、近くを流れる利根川を利用して水攻めを行い、そのため総延長28Kmにも及ぶ石田堤を建設しました。 その一部は今にも残っています。
それまでしても落城せず、結局は本隊の秀吉が小田原城を先に落城させた事による開城となりました。
このことから、忍城は水攻めでも落城せず、”忍の浮き城”と呼ばれるようになりました。
復原された 忍城 忍城の古地図
また、別名を”亀城”といわれているのには、忍城が、この巨大な沼地の中に浮かぶ姿が亀のようということから名付けられたようです。
忍城は、関東七名城の一つであり、日本三大水攻めの城としても有名です。
といっても、この忍城自体は全国的には、あまり有名とは言えないようです。
忍城は、埼玉県行田市にある湿地帯を利用した平城です。
元々沼地だったところに島が点在する地形で沼を埋めずに島に橋を渡す形で城を築かれていたようです。
ここを「忍」とか「行田」とか言われた理由とは・・・・・
「忍」は中世のころ忍氏が住み、忍荘と呼ばれていました。
「忍」の意味はアイヌ語の「ウシ」で入江や湾のことで、その方言では組木や石積の堤防を表すとのことです。
何故 アイヌ語がこのあたりに残っているのでしょうか?
また、一説には、この辺りの湿地帯に多くの「おしどり」がいたことに由来するとも云われています。
「行田(ぎょうだ)」は「行田(なりた)」とも云われ「成田」と同じ意味で、忍氏を滅ぼして成田氏が、熊谷からここに移住して、その後成田氏がこの地を治めます。
<参 考>
◎ 関東七名城とは・・・
埼玉県には、 川越城、忍城 群馬県には 金山城、前橋城 栃木県には、宇都宮城、唐沢山城、 茨木県には、太田城
◎ 日本三大水攻めとは・・・・
岡山県の備中高松城、 和歌山県の太田城、 埼玉県の忍城
今年もルミナリエの季節がやってきました。
昨年は、東日本大震災復興支援のエールを送ることをテーマに掲げていましたが、今年も東日本大震災などの災害によって被災した地域との「絆」と「交流」を深める行事として開催されました。
”ルミナリエ”とは、イタリア語でイルミネーション、電飾の意ですが、これはルネッサンス期に盛んに行われた祭礼や装飾芸術のひとつとして誕生した光の魅力を駆使した建造物がその起源と言われています。
ルミナリエは、17日までですが、詳細については、下記HPをご覧ください。
http://www.kobe-luminarie.jp/
窓にも・・・・壁にも・・・・また違った光が映し出されています。
2004年には、500万人を越えていた入場者数も2005年には430万人となり、2008年以降には300万人と減少してきています。
昨年は342万人でしたが、今年はどうでしょうか?
と言うのも、毎年開催の危機が言われているのも、このルミナリエには寄付金が大きなウエイトを占めており、それには入場者数にある程度比例するのではないかと思うからです。
今年のルミナリエは、テーマを実行する行事として、光のオブジェに灯籠の絵として、東北の子供達の絵と神戸の子供達の絵が飾られています。
300枚以上の絵がありますが、なかなか見ごたえがありました。
東北の子供達達の絵 238枚 神戸の子供達の絵 120枚 が大きな輪になっています。
もう一つの特徴は、”感謝の缶詰”を売っていました。
津波に襲われた石巻の大和煮の缶詰を学生たちが泥の中から掘り出し、それを”希望の缶詰”として売られていたのですが、今回は”感謝の缶詰”として復興支援への感謝のシンボルとして売られていました。
今年のイルミネーションは、昨年に比べて、色合いが際立ち、電飾の数が増えたのではないでしょうか?
毎年、少しづつ図案が変わっているのですが、今年の図案はより緻密になっているようです。
左がLED電球 右と比べると色感が違います。 今年も、緑色が鮮やかです。
でも”祈りの泉”の電飾にはLED電球を使っていますが、昨年も感じたのですが、このLEDの光にはつめたい感じがします。
やはり、今までの電球の方が温かみがあり、穏やかに感じます。
和歌山の海を眺めてのドライブも今回の旅行の目的の一つである宿泊ホテルに到着しました。
確かに、ヨーロッパ風の外観ですが、内部には中国風もあり、いずれの国と特定出来ません。
屋根の瓦は、「瑠璃瓦」と呼ばれ、中国では皇帝以外は使われないと言うものだそうです。
このホテルが出来たのが1991年、バブル期の末期に贅沢を尽くして建てられたものですが、倒産などで何時潰されてもおかしくなかったのですが、なんとか維持されていますが、やはりメンテナンスが充分出来ていないのは、少々残念ですが、まぁ細かいことは抜きにすれば、この異彩を放つホテルもまた楽しいものです.
確かに、あまり管理が行き届いているとは思われないところが目につきますが、余程の余裕(お金も気持ちも)が必要なようです。
貴重な経験と、話題性を優先する人にはお勧めですが・・・・
あくる日は、熊野本宮大社に向け国道311号線を東に、熊野古道を並走して車が走りました。
昼前に熊野本宮大社をお参りし、湯の峰温泉に向かいました。
熊野本宮大社について、僕がとやかく述べるより、下記HRを参照して頂いた方が良いと思います。
http://www.hongutaisha.jp/
湯の峰温泉では、”つぼ湯”に入ることにしました。
このつぼ湯についても下記HRを見てください。
http://www.hongu.jp/onsen/yunomine/tuboyu/
この旅行(僕的には、旅行ではなく、予定のない旅ですが・・・)では、色々な経験が出来ました。
どうしても、知らない土地に行くのには、歳を取るほど、計画通りに行くことで、安全と安心を優先しがちですが、このように、大まかな計画で、ワイワイと行くのも、旅の楽しみの一つです。
先月19日、20日の二日間、友人4人とドライブをしてきました。
和歌山への旅行になったいきさつは、実は飲みながらの話の中で、白浜にヨーロッパのお城のようなホテルがあるということから、そこに行ってみようとなり、この旅行が実現しました。
折角、白浜まで行くのなら、湯の峰温泉や熊野本宮大社へも行くことになり、そこまで行くのなら自動車でないと行くことが出来ないとなり、ドライブ旅行となりました。
一路阪和自動車道を南下し、途中で昼食をとり、ここでまた予定が変更となりました。
当初は、この阪和自動車道の終点の紀伊田辺まで走る予定でしたが、同行者の一人が和歌山県出身者で、彼の発案で、このまま高速道路だけでは面白くない、海を眺めながらの海岸線沿いを走る国道42号線を南下することとしました。
当日は、絶好のドライブ日和で、和歌山の海がまぶしく光っていました。
海南市を抜け、有田市に入ると左右にみかん畑が延々と続いており、和歌山出身者曰く、このみかんはそのまま市場に行くのではなく、工場に行き、缶詰かジュースになるそうです。
広川町に入ると稲村の文字が見え、ここが稲村の火で有名なところです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E3%82%80%E3%82%89%E3%81%AE%E7%81%AB
広川町 稲村あたりの海岸 稲村は、昔ながらの製法で塩を精製しています。
次に由良町では”白崎海洋公園”へ。
スキューバーダイビング、オートキャンプ場があり、今は季節的に外れているので、人出はまばらですが、夏には多くの若者が集まることでしょう。
公園全体が石灰岩に囲まれ、青い海と氷山のような白い岩のコントラストが、日本の景色とは違うようです。
ここは、日本の渚百選に選ばれているそうで、高速道路では、素通りしてしまうところです。
日本では珍しい光景 石灰岩に囲まれた公園には、色々な施設があり、夏には賑わうようです。
田辺市に入ると田辺湾の北側の天神崎をまわり、今晩宿泊予定の白浜に向かいました。
白浜のホテル、明日の熊野本宮大社については、後日に・・・・・
天神崎