先月のイタリア旅行で印象に残ったものの一つに”ポンペイ”遺跡があります。
時は、AD79年、ローマ帝国の時代、ナポリの近郊のベェスビオ火山が突然噴火し、大量の火山灰を撒き散らし、ポンペイに積もった火山灰は高さ14mに達したと言われています。
街は発掘される18世紀半ばまで、キリスト教が生まれる前から、静かに眠り続けました。
ポンペイは、紀元前8世紀にイタリアの先住民族によって造られた街で、当時はローマの貴族の保養地として賑わっており、1万数千人の人々がいたとされています。
余談ですが、1880年、ベェスビオ火山の登山電車の会社は、客寄せに「フニクリ・フニクラ」(登山電車という意味)という歌を作り、当時は世界的に大ヒットしました。
ところで、日本にも「日本のポンペイ」と呼ばれているところが、木曾の奥地にあります。
「帰雲城(かえりくもじょう」跡がそうです。
天正13年(1585年)11月29日に、マグネチュード8クラス直下型地震が発生し、山が崩壊して、その土砂が城下町まるごと飲み込み数千人が生き埋めになったとされています。
このため、当時の文献などがなく、その場所さえはっきりしていません。
この天正の大地震の前の近郊の町の地図から、ほぼこの辺りといわれているところに「帰雲城址」の碑が立っています。
この地が、有名になったのは、この辺りに金鉱があり、帰雲城主の内ケ島氏が楠木正成の子孫であり、かなり金塊を貯め込んでいるとの噂が立ったことです。
当時の文献やはっきりした地図もない状態で、未だ城跡らしきものも見つかっていないのに、噂だけが一人歩きしています。