徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

ハロウインってどないなん?

2009年10月31日 10時14分06秒 | 独り言・社会・ニュース

日本では、あまり馴染みがありませんが、カトリック諸国特にアメリカでは、定着しているようです。
ハロウインは、カトリックの諸聖人の日(万聖節)の前夜(10月31日)に行われる行事だそうです。

アングロ・サクソン系諸国で主に行われる行事で地域性が強く、教会と不可欠の行事ではないため、キリスト教の広まっている地域で、必ずしも祝われるというものではないようです。

        

この日の夜、カボチャをくりぬいてランタンを作り、魔女やお化けに変装した子供達が家を回っては、お菓子をもらうという習わしがあります。

古代ケルト族の秋の収穫の祝いと悪魔を追い払う祭りが今に伝わったものです
ハロウインのテーマは、不気味なものや恐ろしいものだそうで、妖精や精霊に限らず「死」そのものや、不死の怪物、悪魔、怪物などが含まれます。

とオレンジ色が伝統的な色で、象徴的なものとしてカボチャを眼などをくりぬき、内側からろうそくで照らしたものです。

ハロウインを祝う家庭では、カボチャを刻んで怖い顔や滑稽な顔を作り、悪い霊を怖がらせて追い払うため、家の戸口に置いておきます。
しかし、最近では、人種差別の見地から、また妊婦や身障者などに不快感を与えないように、あまりおどろしいものは避けられ、可愛らしいものが好まれるようになってきました。

日本でも、この行事は、英語教材として、また映画、ドラマなどを通じて知られてきて、商戦にも表れてきてました。
それも、あくまでアットホーム的なものであって、日本の教会では、11月1日の「諸聖人の日」として祝日としているようですが、ハロウインとしては、教会の行事としては、ほとんど行われていません。


江戸時代の生活 ③ -上水道ー

2009年10月30日 16時41分14秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代には、当時世界一がいくつもありました。
18世紀初頭、人口約100万人の江戸は、当時世界最大規模の都市でした。
ロンドンやパリが50万人前後であったそうです。

水道設備も世界一でした。
時代劇などでよく見る長屋の井戸は地下の木管の中を流れる水を、木管に開いた穴からくみあげる井戸だったのです。
神田川、井の頭池、玉川などのを水源とし高低差を利用して木管の中を流していました。
水の便の悪いところには、船で運んでいました。
当時の江戸の60%の人がこれで生活し、このように年中利用していたのは、江戸だけで、唯一ロンドンにも水道施設はあったものの、週3日ぐらいの時間制限をしていたそうです。

追々と連載しますが、その他の世界一であったのは、江戸の町の清潔さや寺子屋による初等教育の就学率の高さはもちろん、ソーラー面、リサイクル面、ボランティア面でも現代社会以上の素晴らしいシステムがあったのです。

下水道は、一部の地域では、もっと古くから整備されていたようです。
奈良時代の平城京から下水拠が発見されており、大阪城下町でも安土桃山時代に下水道が出来ていました。
しかし、現在の下水道の普及率は、先進国の中でも非常に低いのです。

神田上水、玉川上水、青木上水、三田上水、亀有上水、千川上水の6上水による江戸の水道は規模だけについては世界一であったのですが、江戸時代の水道が重力のみを利用した配水管であったのに比べ、ヨーロッパではすでにポンプによる圧力導、配水路が建設され、水道技術は大きく進歩していたようです。

     某大名屋敷にあった水道の遺構

また、フランスを中心とするヨーロッパ諸国では、水道だけではなく下水道も建設されていました。
しかし、それ以前は、排泄物を道路に投げ捨てており、川は悪臭を放っていました。
江戸時代の日本では、排泄物は堆肥としての商売が盛んで、道路を汚すことは少なく、江戸末期に外国からきた人々は、江戸の町の清潔さや、よく入浴をしており、着物もよく洗濯されていたので、その清潔さに感嘆したそうです。


とら、菊池を逃がす -2009ドラフト速報ー

2009年10月29日 17時16分29秒 | 野球・タイガース

2009年プロ野球ドラフトの目玉でトラも狙っていた菊池投手は、6球団競合のすえ、西武ライオンズが引当ました。

      一巡目をひく真弓監督

トラのハズレ一巡指名は、二神 一人   法政大 投手 右投げ右打ち
   今年の全日本大学選手権でMVPに選ばれ、右の本格派。
   150キロの直球とスライダー、スローカーブ。
   アメリカ大リーグからも注目されていた。

   トラの一位指名の 二神投手

二巡指名は、藤原 正典   立命大 投手 左投げ左打ち
   今年の関西学生野球リーグでベストナインに選ばれ、明治神宮大会で常盤大を 
   バンド安打1本に抑え11奪三振で完封し、注目を浴びる。

  

3巡目以降は、現在進行中で、詳しくは新聞等で見てください。

この二人が、来年の即戦力になるように、期待したいものです。


飛鳥路を行く ⑤ -飛鳥寺ー

2009年10月29日 13時24分26秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

西国三十三か所第七番札所の岡寺を中心に飛鳥路巡りも最後の目的地である飛鳥寺に到着しました。

石舞台からここ飛鳥寺までの道は、きれいに舗装されて、自転車で10分ほどでした。
周りは、静かな田園風景で、古の人もあの山々などと同じ景色を眺めたのでしょうか?

飛鳥寺は、日本最古のお寺で飛鳥の大仏で有名です。

            

欽明13年(552年)、百済から仏教が日本に伝わり、それ以来、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との争いが35年も続いたのですが、蘇我氏が勝利し、その結果、百済から職人を呼び、蘇我馬子の発願で建立を開始し、推古4年(596年)に建立したのが、この飛鳥寺です。

初めのお寺の名前は、法興寺でしたが、都が平城京に移るとともに元興寺となり、建久7年(1196年)には、落雷による火災により焼失後、衰退が著しく、江戸時代の書物には、門もなく、「かりそめなる堂」と称された建物に本尊の釈迦如来像が安置されるのみだったようです。
現在のお寺は、法興寺金堂跡に建てられた小寺院で公称安居院(あんごいん)と呼ばれており、馬子が建立した寺院とその法灯を継いで現存する寺院を包括して「飛鳥寺」と呼ばれています。

    
   
多くのお寺の内部は撮影禁止が多い中、ここは撮影が許されました。

その本尊の「飛鳥大仏」は、法隆寺の釈迦三尊像より17年早く、全長2.7mの金銅製で、法隆寺と同様顔と手が大きく、面長です。
が、国宝より1ランク低い国指定の重要文化財になっています。
というのも、傷みが激しく、当初の部分は、顔の上半分、左耳、右手の第2,3,4指のみだそうです。

  

  
    蘇我入鹿の首塚               首塚から飛鳥寺を望む   

飛鳥寺から西に100mほどのところに、蘇我入鹿の首塚があります。
飛鳥寺の南には、大化の改新の舞台となった伝飛鳥板蓋宮跡があり、首が飛んできたところに首塚があるとか・・・・・ 真偽のほどは???です。

飛鳥路の一日は、これで終わりですが、1400年間同じ場所に座っている大仏は、これまでの歴史を見てきたことでしょう。
日本の歴史がこの静かな山里で起こったことを思うと、もう一度訪ねて見たい思いがしました。


”とら”の城島誕生・・・・・の明暗

2009年10月28日 11時36分03秒 | 野球・タイガース

昨日、城島が阪神入団を決めました。
速攻アタックで即行に決めた城島には、来期にも即効薬となることでしょう。

   城島選手(サンスポから)

城島の加入は、金本が入団した時と同じように、トラに変化を起こしてくれることを期待します。
それを期待するのは、如何に今までが、トラの内情が悪かったという証でもあるのです。
外部の力を注入しなくては、根本的に立て直さなくてはならない現状を、球団首脳陣は肝に銘じるべきではないでしょうか?

それは、来期のオーダーを予想すると、投手を除いた8人の先発選手で、果たしてトラの生え抜きは、何人先発に名を連ねるのかが、顕著に表れているのです。

鳥谷、赤星の1,2番と7番か8番に桜井が入るぐらいで、肝心のクリーンアップには、すべて移籍選手になることでしょう。
もちろん、今までも外人選手がいたのですが、ここで言いたいのは、若手の育成が疎かになった結果であり、今後の若手に育成にどれだけ本腰をいれられるかが、心配です。

  
   星野SDとの会談とその後の入団決意発表 (サンスポから)

トラフアンが期待するのは、もちろん勝利を重ねての優勝なのですが、それと同時に若手の育成、成長も楽しみの一つなのです。

その点、城島の加入は、キヤッチャーという守備の要で、若手投手の育成に大いに貢献するものと思われます。
今、伸び悩んでいる若手投手を鍛えあげてくれれば、城島の打棒、守備に加えて将来的にも期待が持てます。

城島効果を、巧く生かすことが出来るかどうかは、真弓監督の手腕も問われるのです。
今年と同じ采配では、効果が出なくなる恐れがあることを危惧するのは、考えすぎでしょうか?
狩野をどのように生かしてゆくのかも注目です。
狩野よ・・腐るなと言いたいのですが、これも実力の世界の宿命なのでしょう。
又、金本の成績次第では、4番にどこまで固執するか、城島効果をどのように生かすかも注目です。

最近のトラの若手で、特にドラフトで獲得した選手で1軍定着した選手がいないのは、寂しい限りです。
どこかの球団のように、金に任せて実績のある選手を獲得したと揶揄されていた球団でさえ、若手が台頭しています。

これで、安心することなく、若手の育成にも、力を注いで欲しいものです。
そのためには、長期ビジョンを立てることが大事で、その場しのぎで済まさないようにするためのも、コーチ陣の再考も必要と思うのですが・・・・

球団首脳陣や真弓監督が、これをどれだけ認識しているのかが問われるのではないでしょうか?


第24回 鈴懸の径絵画展 11月5日~

2009年10月27日 09時22分56秒 | 芸術・水彩画

「鈴懸の径絵画展」が11月5日(木)から8日(日)まで兵庫県民会館前プロムナードで開催されます。

主催は、兵庫県、㈶兵庫県芸術文化協会、兵庫県民会館
後援は、兵庫県議会、兵庫県教育委員会、兵庫県美術家同盟、朝日新聞社、神戸新聞社、産経新聞社、NHK神戸放送局、サンテレビジョンなどの報道各社です。

今年も、応募して、「兵庫県知事賞」を受賞しました。
一昨年は「産経新聞賞」を昨年は「奨励賞」を受賞しましたので、今年で3年連続の受賞となりました。

         

この絵画展には、応募テーマがあり、「兵庫の風物を描く」です。
昨年の秋11月に、尼崎にある県立交通公園に散歩で出かけ、一本の木だけが特別に落葉が激しく、夕日に長い影を落としているのを見て、その木に何か哀愁を感じて描いたものです。

絵画展の詳細や会場地図は、下記を参照してください。

 http://hyogo-arts.or.jp/arts/suzukake/suzukake.htm

 


飛鳥路を行く ④ -石舞台古墳ー

2009年10月26日 13時02分24秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

岡寺から自転車で数分のところに「石舞台古墳」があります。
石舞台古墳は、奈良県明日香村の飛鳥歴史公園内石舞台地区の中央に位置する我が国最大の古墳時代後期の古墳で、昭和27年に国の特別史跡に指定されています。

    
    石舞台の周りに堀があります。       石舞台        

30数個の岩の総重量は約2300トンで、特に天井石は約77トンとかなりの重量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれます。

盛り土の上部が、剥がされているため、その形状は、2段積の方墳とも上円下方墳とも下方八角墳とも考えられています。
古くから石室の天井石が露出されていたようで、そのことは各種の文献に書かれています。

  
  石舞台 裏側から              側面から   

被葬者は、蘇我馬子であったとする説が有力で、盛土が剥がれているのは、蘇我氏と対立するものが懲罰的に墓を暴いたのではないかとも言われています。

天井石の上部が広く平らで、まるで舞台のように見えるその形状から古くから「石舞台」と呼ばれています。
石舞台という以外に、地元では「石太屋(いしふとや)」とか「石蓋(いしぶた)」などの名前で呼ばれており、「キツネが女に化けて古墳の上で踊ったことから「石舞台」と言われているという伝説もあるようです。・・・近年に創作された話とも言われています。

  
  内部への通路                  石舞台の内部 隙間から光が・・・

昭和8年からの発掘調査で方形の墳丘、堀が存在すること、6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されており、その上で築造は7世紀初め頃と推定されています。

いずれにしても、かなりの重量の石をどのようにして運搬したのか、そしてこの石を持ちあげたのか、不思議です。
エジプトのピラミッドのようにして、石を運んだのであろうと思われますが、その技術は、当時としては一級であったのには間違いがないようです。


飛鳥路を行く ③ -岡 寺ー

2009年10月25日 14時44分14秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

今回の目的、岡寺に・・・・
橘寺から自転車で5分ほど行くと鳥居があり、そこをくぐるとかなり急勾配の坂道が続きます。
到底、自転車では行けないので、押して坂を上がりました。
10分ほどで、岡寺の仁王門に着きました。

  

西国三十三か所第7番の岡寺は、通称で正式名は「龍蓋寺」です。
その仁王門の石碑には、岡寺と書いてあるのですが、仁王門の上部には正式名である「龍蓋寺」と書いてあります。

          

そもそも、このお寺の名前の由来にも、やはり、伝説がありました。
開基の義淵僧正は、両親が観音に祈願して生まれ、観音の申し子といわれ、それを聞いた天智天皇が、義淵に岡宮を与え、それを寺にしたのですが、その創建年は不明だそうです。

  

お寺の名前の由来は、この義淵が、近くに住む龍が村人を苦しめているのを見て、法力で龍を池に閉じ込め石で蓋をしたという伝えから「龍蓋寺」という名称になったということです。

こうした伝説は、「災いを取り除く」信仰に発展して、平安以来の観音信仰に、厄除け信仰が加わり、ここが最初の厄除け霊場となったようです。


 


飛鳥路を行く ② -橘 寺ー

2009年10月24日 14時16分41秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

亀石から自転車で2,3分の距離でした。
当初は、左手に見えるのが橘寺と思ったのですが、そこは川原寺跡で、橘寺は、道路を挟んで真向かい、道路から右手にありました。

  橘寺の全景

橘寺は「新西国三十三か所」のお寺で、「西国三十三か所」に比べると、その選定の歴史は新しく、昭和7年(1932年)に聖徳太子の和の道を基準に、当時の神戸新聞、京都日々新聞、大阪時事新報の新聞連合が、一般読者の意見を入れて選定されたものだそうです。
後で訪れる「飛鳥寺」も「新西国三十三か所」のお寺です。
他には、大阪の天王寺、太融寺、水間寺、や道成寺、鞍馬寺などで、歴史は古く、有名なお寺が名を連ねています。

  
   お地蔵さんの後ろに橘寺が・・・      本坊から東門を望む

さて、この橘寺は、新西国三十三か所のお寺に選ばれるのは当然なお寺なのです。
というのも、このお寺は、聖徳太子の生誕の地と言われているからです。

本堂(太子堂)は、元治元年(1864年)に再建された建物で、本尊として聖徳太子像が安置されているそうです。

  
   本堂前の太子の愛馬像        二面石 右と左を向いていますが・・・        

境内には、太子の愛馬「黒の駒」があり、二面石というのもあります。
高さ1m程の石像で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現しているそうです。
はっきりと人の顔とは見えませんが、そう言われれば、そのように見えるようです。

  
 往生院に安置されている左に聖徳太子像  往生院の天井 新しく鮮やか

又、往生院(新しく建てられたようです)には、昭和42年に村人が寄贈した聖徳太子像が安置されていますが、この像が何時造られたのか不明で、色々と訳があるようで、各地遍歴してきた放浪の仏さんだったようです。

余計なことですが、最近、聖徳太子は、架空の人物と言われ出しています。
誰かが作った伝説の人物だそうですが、真偽のほどは分かりません。
これでは有難味がなくなります。 神話もそうですが、それはそれで、そーっとしておいた方が良いのではないでしょうか?


今年も コスモスが咲き始めました

2009年10月23日 12時42分43秒 | 独り言・社会・ニュース

今年もコスモスの季節が始まりました。
例年、この武庫川河川敷にコスモス550万本が咲き乱れ、近郊の人を楽しませています。
今年も、コスモスのつぼみが膨らみ始めました。

ある一つの区画は、肥料を多くしたため、そこはすでに満開に近く、今日も秋風に可憐な花がなびいて、絶好の花見日和となりました。

  

その他の区画のコスモスも、つぼみが膨らみ始め、今月末から11月初旬には、コスモスのじゅうたんが、一面に引かれることでしょう。

  
  多くは、まだつぼみが膨らみ始めました。 今月末からが見ごろになるでしょう

ボランテアの人々をはじめ、地元の人が丹精を込め、多くの人たちが訪れます。
毎年楽しむためにも、訪れる人たちの寄付が大きな力になっています。

  
  今日は、ボランテアの人が集まり、清掃や除草をしました。

<!-- 2009年 武庫川コスモス -->