今日は、湯布院から高千穂峡に行ってきました。
これから宮崎に向かいます。
ある旅行社のツアーに参加しました。
列車と温泉が詰まった5日間の旅程です。
帰れば、旅行の内容について書いていく予定です。
昭和10年(1935年)に梅田・難波間に地下鉄が、その2年後に御堂筋が開通したことによって、難波は急速に発展し、難波や道頓堀、心斎橋にかけての繁華街一帯を「ミナミ」と呼ばれ、大阪有数のにぎわいを誇っています。
「ミナミ」という呼称は、江戸時代初期からあったようで、当初は島之内界隈のみであったものが、江戸中期に道頓堀周辺が含まれ、大正期には千日前、昭和になって難波周辺が発達しました。
江戸中期に道頓堀が出来、その道頓堀川の両岸に芝居小屋とか遊所が出来、この一帯は、これ以降上方芸能を中心とした歓楽地として多くの人を集めるようになりました。
道頓堀にかかる橋 戎橋から。 ナンバの新名所 なんばパークス
今宮戎に通じる橋でこの名前が。 かってここに難波球場がありました。
道頓堀の歴史は、安井道頓が秀吉から下賜された土地の開発のために、堀を造ったことから始まります。
その道頓の死亡し、後を継いだ従弟の安井道卜(どうぼく)らが、元和元年(1615年)に道頓堀を完成させました。
道卜は、さらにここ周辺に市街地を建設し、芝居小屋や遊所を誘致し、最盛期には、歌舞伎が六座、浄瑠璃が五座、その他、小屋などが十数座がひしめくほどの、芸能街に成長しました。
道頓堀の北岸には宗右衛門町、南岸には九郎右衛門町の花街などを形成してゆきました。
この「宗右衛門町」は、道頓堀の開削に功績のあった山口屋宗右衛門の名に由来します。
「そうえもんちょう」が本来の呼称なのですが。大阪人は「そえもんちょう」と呼んでいます。
ミナミの象徴的であった新歌舞伎座 法善寺横丁にある水掛不動さん
今は、取り壊しを待つばかりに。 かって千日念仏を行ったので、ここを
千日前と呼ばれるようになりました。
心斎橋は、この橋をかけた岡田心斎から、この名がつけられたそうです。
ちなみに、道頓堀五座と呼ばれた浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座はすべて姿が消し、芸能の街ではなくなったのですが、その代りに、「食い倒れ」という名前のとおり、おびただしい飲食店やド派手な看板が密集し、大阪の食道楽の名前と活力を感じさせる街として、今でもあり続けています。
秋の風物のコスモスは、まだ一生懸命咲いています。
小春日和に誘われて、武庫川河川敷のコスモス畑に行ってきました。
多分、多くは、枯れているのではと思ったのですが、どっこい、コスモスは元気に風になびいていました。
でも、中には、少し疲れたものもあり、シーズンが過ぎ去ろうとしている様が感じられました。
今も、多くの人が、コスモスを楽しんでいました。
河川敷の駐車場は、明日28日で閉じられます。
もちろん、自動車以外での来場に、コスモスは歓迎すると思いますよ。
最近、比較的気温が高く、11月も終わろうとしているこの時期にしては、過ごしやすくなっていますが、12月に入れば、いよいよ冬の到来となることでしょう。
ということで、この週末は、コスモスに会いに行ってはどうでしょうか?
原作者の松本清張、生誕100年記念として、「ゼロの焦点」が映画化され、それを見てきました。
清張は、1909年(明治42年)12月21日に広島市で生まれました。
一般的には、福岡県小倉の出身ということで、生まれも小倉と思っていたのですが、広島市生まれで、小学4年までは、下関市、5年から小倉で育ちました。
1953年「或る小倉日記伝」で芥川賞を受賞し、それ以降作家生活に入り、犯罪の動機を重視した「社会派推理小説」として、一世を風靡しました。
「ゼロの焦点」は、「点と線」「砂の器」とともに、清張の3部作として、代表され、社会派推理小説の最たるものです。
この作品は、昭和30年代の戦争の傷跡が多く残る時代ですが、同時に「もはや戦後でない」という言葉が言われ、女性の社会進出が出てきたころです。
映画では、当時の風景が再現され、特に金沢駅や市内を走る市電などは、苦心された様子がうかがわれます。
CGが多く使われる昨今の映画の中にあって、なるべくその当時の物を使うという監督の考えから、蒸気機関車やその車内などは、臨場感がありました。
市電が走る市街地は、韓国で撮影されたそうです。
当時は一般的であった見合結婚をした鵜原禎子(広末涼子)は、夫・憲一(西島秀俊)が、式7日後に夫の仕事の引き継ぎで勤務地だった金沢に出かけますが、その後行方不明となることから、この物語は始まります。
夫の過去を知らない禎子は、憲一の足跡をたどって金沢へ行きます。
そこで、憲一の得意先の社長夫人 室田佐知子(中谷美紀)とその会社の受付嬢をしている田沼久子(木村多江)に出会い、夫との関わりを調べて行くうちに、殺人事件が発生します。
荒れ狂う日本海に白い雪が舞い、灰色の波が大きく打ち寄せる断崖に、室田佐知子の赤い服が強烈に印象つけられ、この物語の暗い過去を暗示しているかのような風景でした。
この作品な限らず、推理映画やTVドラマには、この断崖絶壁というのが、定番になっていますが、この様に設定したのが、清張から始めたのではないかと思われました。
三人の女性の個性がそれぞれ生かされ、物語よりは、その3人の演技力が引きたった映画ではなかったのでしょうか。
本を読んだのは、随分昔なのですが、やはり、本を読んだ時の方がインパクトがあったようです。
大阪の呼称の「なにわ」について書いてきました。
ここで、気になるのは「なにわ」と「なんば」、どう違うのでしょうか?
大阪を「浪速」とか「浪花」とか呼んできましたが、それらが「難波」と同じなのでしょうか?
大阪を代表する繁華街は「キタ」と「ミナミ」の2地域があります。
御堂筋の北端には梅田の周辺が「キタ」、南端には”なんば”や”道頓堀””心斎橋”の周辺を「ミナミ」と呼んでいますが、どちらも明確な境界線はありません。
大阪人からすれば「ミナミ」は「ざっくばらんな庶民的な街で原色の似合うラテン系」に対して「キタ」は「すこしすましたビジネス的な街で中間色的で都会的」というイメージです。
「難波(なんば)駅」は6つあります。
南海、近鉄、JR、地下鉄御堂筋線、同四ツ橋線、同千日前線、の6路線で、すべて
ナンバと呼びます。近鉄は大阪難波駅と呼んでいます。
これらのターミナル駅がある場所は、「難波(なんば)」を冠した住居表示となっています。
このあたりは、昔、旧西成郡難波(なんば)村だったのが大阪の古称である「難波(なにわ)」の漢字表記が、いつか自然に「なんば」と読まれるようになったのではと思われます。(ベスト新書、若一光司著、大阪、地名の由来を歩く を参照しました)
ここは江戸時代は、摂津国西成郡難波村で下難波村と上難波村に分かれていました。 上難波村は今の南船場に位置し、下難波村は、東横堀川、長堀川以南の島之内にあったのですが、元禄時代に合併したそうです。
江戸時代の呼称は、ナンバであったと思われ、それが漢字の「難波(なにわ)」にあてはめられたのではないかというのが、一般的なようです。
万葉集には、「那爾波(なにわ)」とか「奈爾波」とか書かれているのですが、これを「ナンバ」と呼ぶのには無理があるとも言われています。
神戸は、兵庫では「こうべ」、三重県では「かんべ」、鳥取では「かんど」、岡山では「ジンゴ」とか「コウト」とか「ゴウト」とか訓(よ)む地方もあります。
同じ「ン」でありながら「m」「n」音を聞き分けることは、日本の自然なみやびなのかも知れません。
近鉄の大阪難波駅の駅標板は「NANBA」ではなく「NAMBA」となっています。
言葉というものの伝達は、口コミがほとんどであり、そこに方言などが入り混じり、地方によっては、違う発音に変化していったものと思われます。
「なんば」も「なにわ」も漢字から長い年月をかけて、表現が入り混じってきたのかも知れません。
言語学者でもありませんので、違っているかも知れません。
きょうは、国民の休日「勤労感謝の日」です。
「勤労をたっとび、生産を祝い、国民が互いに感謝しあう」と1948年(昭和23年)に制定されました。
戦前は、この日を新嘗祭(にいなめさい)と呼び、宮中では、天皇が新しい米などを神殿に供えました。
つまり、秋の実りをもたらしてくれる神や自然に感謝するとともに、勤勉に働くことの尊さを忘れないという精神的な意義があるのです。
新嘗祭は1873年(明治6年)から1947年(昭和22年)まで祭日として制定されていました。 明治5年までは、旧暦11月の2回目の卯の日に行われていましたが明治6年から太陽暦が導入されたが、そのままでは翌年になることもあって、新暦11月の2回目の卯の日に行うこととし、その日が11月23日であったので、翌年以降は11月23日に固定されました。
今日の絵は”柿”です。 F6号
戦後は、皇室典範からこの儀式は除外されましたが、各地の神社では、祭事を行っているところが多いそうです。
現在、サービス業が増え、生産に対する感謝が薄れているように思っているのは、僕だけでしょうか?
働くこととは、「モノつくり」が基本で、漢字を見ても「人」が額に汗して「動く」と書きます。(この漢字は、中国から伝えられたのではなく、日本人の発明字だそうです)
「働くとは、ハタ(傍)がラク(楽)すること」などと言われ、自分の働きが、他の人を楽にさせるものと云うことを、働くことの喜びとしたいものです。
昨日11月22日は、語呂合わせで「いい夫婦の日」でした。
今日も、語呂合わせで「1(い)1(い)2(にい)3(さん)」の日。(いい兄さんの日)
「いい家族の日」でもあります。 「1(い)1(い)2(フア)3(ミ)リー」の日。
昨日11月22日は24節気の一つ「小雪」でした。
この日は「木の葉は落ち、平地にも初雪が舞い始まる」とあります。
これから、冬に向けて、一段と寒く、冷え込んできます。
ちなみに、冬至は、12月22日です。
なぜ、難波と呼ぶようになったのか、諸説があります。
前回には、この語源を「日本書紀」の「神武東征伝説」にこの地を浪速と名づけ、それが訛って変化して「難波」になったという説を書きました。
「古事記」には、「浪速の渡」と記されているのが、起源とも言われています。
その他に、「魚の豊富な漁場である大阪湾を<魚庭(なにわ)>と表現したのがはじまり」という説もあります。
「魚」は昔、「いお」とも呼ばれ「副食物としての魚」という意味では、「魚(な)」であり、漁場を庭と考え「魚庭(なにわ)」となったと云うものです
こんな考えもあります、難波の「ナ」は古代朝鮮語で「太陽」を表しており、「ニハ」は朝鮮語で「口、門、出口」という意味なので、「難波」とは「日の出る場所」という意味になります。
奈良時代以前に日本の中心は、大阪であったという考えから出ています。
つまり、日本の歴史の始まりは「日下(くさか)」にあるというものなのです。
大阪市の東にある東大阪市に「日下」という地名があります。
「日下」をなぜ「くさか」と読むのかとの説の中に、その考えの起源があります。
ある民族研究家によれば、「ヒノモト」は「草香」にかかる枕詞だったのではないかということから、「ヒノモトの草香」という云い方をしていたと考えられています。
「日下」は、太陽が昇るまさに「下」の位置のあり、下は、「もと」とも読めるので「ひのもと」と読み、それが転じて「ひのもと=日本」となったというのです。
現在の大阪が「日の出る場所」であり、それが「難波」と呼ばれたとになります。
江戸時代の庶民の食事は「一汁一菜」ということを書きました。
ということをどこの書物にも書いてあるのですが、実際はどうだったのでしょうか?
天明2年(1782年)に刊行された「豆腐百珍」という本には、豆腐料理100種類の作り方が書かれています。
この時代に、料理書としてベストセラーとなったということは、食に関して一般的に関心が高かったということなのでしょう。
というのも、その後続々と料理本が出版されていることから、推測がつきます。
書物 「豆腐百珍」
「豆腐百珍続編」 「卵百珍」 「海鰻(はも)百珍」 「蒟蒻(こんにゃく)百珍」「長芋百珍秘密箱」などで、それらには、かなり手の込んだ料理の作り方が出ているのですが、板前さん向きと考えられており、一般家庭向きではなかったのではないでしょうか?
江戸後期には、「為御菜」という出版物が出ており、この内容には、一般庶民が食べていただろうと思われることが詳しく書いてあるそうです。
江戸時代 料理屋風景
この書物は、相撲の番付に見立てて作ってあり、いわゆるランキング表なのです。
この欄外には、「日々徳用倹約料理角力取組」と書いてあり、要は安くて倹約の出来る料理を意識して書きならべたようです。
行司には、「沢庵」「ヌカ味噌漬け」「なすび漬け」「梅干し」などが並び、世話役として「でんぶ」「ひしお」「みそずけ」「日光唐辛子」などが書いてあります。
主催者は「みそ」「しょうゆ」「しお」の調味料が並んでおり、年寄という欄には「かつおぶし」「しおから」「なめもの」「ごましお」が書いてあります。
相撲番付では、西方、東方にそれぞれ大関、関脇以下の力士名が書いてあるのですが、この「為御菜」では、精進方と魚類方に分かれてそれぞれの料理名が書かれてあります。
「精進方」の大関には「八杯豆腐」(うすく切った絹こし豆腐を軽く煮て、大根おろしをのせたもの)
関脇には「こぶあふらげ」(昆布と油揚げの煮物)
小結は「きんぴらごぼう」 前頭筆頭が「煮豆」
以下、「焼き豆腐」、「ひじき白あい」、「切干煮つけ」、「切りぼし煮つけ」、「芋がらあぶらげ」、「小松菜のひたしもの」
季節ものとして、<春>には、「けんちん」「わかめのぬた」「のっぺい」「たんぽぽの味噌和え」
<夏> 「なすのうま煮」「ささげのごぼう和え」「そら豆煮つけ」「たけのこあらめ」
<秋> 「若菜汁」「芋煮ころがし」「ふろふき大根」「とろろ汁」「あんかけ豆腐」
<冬> 「湯豆腐」「こんにゃくおでん」「納豆汁」「ねぎ南蛮」
「魚類方」の大関には、「めざしいわし」 関脇は「むきみ切干し」(あさり、はまぐりなどのむき身を切干大根と一緒に煮たもの)
小結は「芝エビからいり」 筆頭前頭は「まぐろから汁」
以下、「こはだ大根」「たたみいわし」「いわししおやき」「まぐろのすきみ」「しおかつお」
季節ものとして
<春> 「まぐろきじ焼き」「ひじきむきみ」「いわしのぬた」「かきなます」
<夏> 「芝エビ豆腐」「鯵たで酢」「こはだ煮びたし」「くじら汁」「どじょう鍋」
<秋> 「蒸しはまぐり」「芋煮だこ」「酢だこ」「にしん煮びたし」「焼き秋刀魚」
<冬> 「なまこ生姜」「しらす干」「さわらあんかけ」「卵とじ」
こうして見ると、ほとんどが現在の酒の肴のようです。
味噌汁と香の物と一緒にこれらの一品がつていたのでしょう。
大阪の人は、古くは、大阪にも都があったことをご存じの方も多いのですが、他府県の方には、あまり御存じのない方もおられるようです。
でも、その都が2度も大阪にあったということは、案外大阪の方でもご存じないのではないでしょうか?
でも、この説も案外不確かなものなのですが・・・
最初に都があったのは、大化の改新直後に孝徳天皇によって築かれたというもので、この時に築かれた都は「前期難波宮」(長柄豊崎宮)と言われ、日本古来の建造物と想像されておりますが、都として実体を備えていたのか疑問視されています。
しかし、実際に長柄とか豊崎という地名は、大阪駅の北側から淀川あたりにありますが、その後の調査では、前期難波宮跡も、現在の難波宮跡公園とほぼ同じ場所とされているそうです。
その1世紀後の天平16年(744年)に恭仁京(くにきょうー京都府木津川市)から、再び?大阪の地に都が遷され、これを「後期難波宮」と呼ばれています。
今日の絵は、「京都 永観堂の多宝塔」です F8号
この天平年間は、災害や疫病がはやり、聖武天皇は、たびたび遷都を行っており、難波宮も1年ほどで紫香楽宮(しがらきのみやー滋賀県甲賀市)から平城京へと都が戻されました。
そもそも、この地を古くから「難波」と呼ばれたのは、どうしてなのでしょうか?
その根拠とされているのが「日本書記」の「神武東征伝説」なのだそうです。
そこには・・・・
「まさになにわ崎にいたるとき、速き潮ありてはなはだ急きに会いぬ、よって浪速国となす。また浪華という。いま難波という」という記述があることが、由来とされています。
他にも多くの説があります。
それについては、次回に述べます。
以前に、最近の大阪駅周辺、梅田の変貌を書いてきました。
では、それ以前の大阪の変貌は、どうなのでしょうか?
大阪の中心部は、一応、府庁のあるところなのでしょうが、その周辺には、難波宮や大阪城があります。
古代(飛鳥・奈良時代)には難波宮が、中世には大阪城が、そして現在は大阪府庁が徒歩圏内の至近距離に存在しており、それぞれ時代がはるかに離れているにも拘わらず、こんなに近くに存在するのは、偶然なのでしょうか?
近畿での都の変遷 難波宮跡近辺の施設
まず、地形が最適であったことが挙げられます。
この地、上町台地(北は大阪城あたりから南は住吉大社くらいまで)が半島のように南から伸びており、現在の東大阪あたりは大きな入江のようになっていたそうです。
地理的に言って、台地の広がる良港として発達していったに違いありません。
つまり、難波宮跡があるあたりは、その当時は海のすぐそばにあったと推察されます。
今の大阪駅周辺の梅田とは”埋め田”からと言われており、その南側一帯は海であったと考えられます。
難波宮跡公園 大極殿 難波宮跡公園にある碑
湿地の中の高台の施設は、治水が不十分な当時としては、最適なのです。
又、18世紀末、家康の江戸入りと同時に江戸城を建てた場所も、水害の恐れが少ない湿地の中の小高い台地と概ね同じ立地条件です。
水害の恐れのない高地ということです。
そして、この場所が最適の要件の決定的なのが、奈良や京都に近く、瀬戸内を経由して大陸とを結ぶ海運の便の良さに加えて、淀川河口を利用しての港が出来ることです。