徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

初めて、能を鑑賞してきました

2009年07月02日 11時29分19秒 | 日本人のDNA

昨日から7月に入り、梅雨も本格的になってきました。
友達から、能楽堂の切符を頂いたので、行ってきました。
もちろん、能については、全く分かりません。
そして、能が世界無形遺産であることも知りませんでした。

能とは、自分なりに、映画やTVで見る範囲での想像では、言っている言葉が分からず、ましてや、あのゆっくりとした動作には、イライラするだけで、退屈極まりないものであろうと思っていました。

      
  能楽堂内は、撮影禁止ですので、能舞台の写真は、能楽堂のHPから。

以前から、大阪上町筋の難波宮跡の南に能楽堂があるのは、知っていたのですが、見に来るとは、今まで考えもしませんでした。
ということで、恐る恐る、でも興味深々な思いで、受付を通りました。

番組を見ると、舞囃子、狂言、仕舞、そして能の4部作で、能は”恋重荷”と題していました。
舞囃子とか仕舞などの違いも分からなかったのですが、番組が進行するにつれて、ぼんやりと分かってきました。
言葉は分からなくとも、ストーリーさえ知っておれば、楽しみ方があるようです。
その動作の意味を考えたり、小鼓、大鼓、笛などの楽器を聞いていると、能としての雰囲気が、気持ち的に盛り上がってくるのは、やはり日本人のDNAからなのでしょうか
特に、鼓の音は、場面を盛り上げ、舞台を引き締めるのに、実に効果的でした。(と、分かったつもりですが・・・)

能は、演劇で、1300年代に出来たミュージカルなのだそうです。
(以下、大槻能楽堂のHPから抜粋しました)
世界で最古のミュージカルで、歌、踊り、音楽・・・そして物語があります。
能は難しいけれども、単純な物語ですが、奥が深いのです。
いつの世界でも永遠に変わらないテーマがあり、それは、神仏への信仰、戦いのはかなさ、乙女の恋心、女性の嫉妬、親子の愛情、妖怪退治などなど・・・

鎌倉時代の「田楽」をベースとして歌曲や曲舞などが加わりストーリー性のあるものが徐々に構成されていったものが「能」なのだそうです。

700年の歴史ある日本古来の芸能を、今後も継承してゆかなくてはならないと思いますが、将来的に心配な要素もあります。
でも、僕も、当初の不安も吹っ飛んだとは云え、時間的には、あまり長いのは、無理なようです


”春の七草”

2007年01月07日 09時21分22秒 | 日本人のDNA

百人一首に
君がため 春の野に出て若菜摘む わが衣手に ゆきはふりつつ” (光孝天皇)
がありますが、この若菜とは、七草のことだそうです。

一月七日の朝に七草かゆを食べる風習があります。
元々中国の風習であったのですが、平安時代から日本独自の習慣として根強く残ってきました。
平安時代、清少納言の「枕草子」には”七日の若菜・・・”という一節があります。

   この写真の中に七草があります

家族で食べると万病を払うとされ、正月のご馳走で弱った胃を休めるという知恵から始まったという説もあります。
この七草には、薬効成分やビタミン類が豊富で、薬膳料理として有効です。

せり・・・・・・・・田の畦や湿地に生えています。 消化に良いそうです。
なずな・・・・・・俗に云うぺんぺん草です。 視力に良い。
ごぎょう・・・・・吐き気や解熱に効くそうです。
はこべら・・・・排尿に効きます。
ほとけのざ・・歯痛に効きます。
すずな・・・・・・カブのことで消化促進。
すずしろ・・・・大根のこと、胃健、吐き止め。

効用を確かめてみてください。


”自由”という概念

2006年12月28日 09時47分41秒 | 日本人のDNA

今年の汚点は沢山ありましたが、その中でも”いじめ”という陰湿かつ身勝手な行為がクローズアップされました。
”いじめ”は何時の時代にも又、学校に限らず社会に出てもあるのですが、こと自殺までの考えが、どうも軟弱であり、人間としての生きる力強さに欠けているのではないでしょうか?

 
  今日の絵は、ベネチュアのリアルト橋 F8号

”自由”という言葉を否定する人はいないでしょう。
しかし、戦後、自由という言葉はしばしば身勝手と同じ意味で使われているようです。
戦前、戦中を通じ、自由を著しく制限されていた反動から、また自由を国是とするアメリカの影響もあり、戦後はことある事に”自由”が強調されてきました。

基本的人権を掲げる憲法を始め、法律等で様々な人間としての権利が書かれていますが、結局、自由の強調は「身勝手の助長」につながったのでしょうか?
この自由と言う名のもとに、日本古来の道徳や長い間培って来た伝統的な形というものが傷つけられているようです。

人間には、そもそも自由はないのです。
生れ落ちた瞬間から、法律があり、道徳があり、倫理というものがあるのです。
そこには、「協調」が強いられます。
その「協調性」が欠如されてきているのではないでしょうか?


「奇兵隊」はどうして出来たのか!!

2006年12月18日 11時19分02秒 | 日本人のDNA

高杉晋作が作ったとされる「奇兵隊」はどうして出来たのでしょうか?
これには、恩師吉田松陰の死後、高杉晋作の転機となったのが24歳の時に上海に行ったことでした。(1862年)

当時の清は、アヘン戦争敗戦後、南京条約(1842年)により香港をイギリスの租借地として失い、続いてアロー戦争(1856・60年)の時、北方の領土をロシアに奪われ、殖民地化が一段と進行していました。

      

こうした背景の下におきたのが、シナ歴史有数の大乱である「太平天国の乱」です。
満州族の王朝たる清を倒し、漢族による政府をつくることを目指した太平天国の内乱は1850年に始まり1864年まで続くが、これが清の衰退にいっそう拍車をかけました。

この乱を自力で鎮められない清国政府は、あろう事か英仏の軍隊に依存してこれを鎮圧しようという致命的なあやまちを犯しました。
シナ伝来の「夷を以って夷を制する」という術策ですが、そのような権謀が、わが身に跳ね返ることが分からなかったのです。

高杉が到着した時には、西洋各国の軍艦、商船が無数に停泊し、シナ人はことごとく押さえ込まれており、実に上海は西洋各国の属地化されていました。

西洋諸国の植民地と化した清国の窮状をみた高杉は、いかにして外国の侵略に抗しうる強い国防力を備えるのかが、大きな課題でした。
折りしも長州藩は攘夷を藩是に掲げ、下関で外国船を砲撃するが敗北し、正規軍の無力を知った高杉は、身分を問わず力量ある者で構成する強力な軍隊を発案しました。 これが長州最強の軍隊「奇兵隊」が誕生した経緯です。

 


大野九郎兵衛は忠臣だった?

2006年12月13日 10時05分12秒 | 日本人のDNA

年の瀬と言えば忠臣蔵、この赤穂浪士の物語は、大石内蔵助が忠義に燃える家来を率いて主君の遺恨を晴らすというものですが、忠臣として山鹿流の兵法に通じ、武士道を重んじてきた人物として人間味を感じることで人気を博してきました。

赤穂藩には、大石以外に3人の家老がいました。
無能として描かれた江戸家老の藤井、安井と国許の城代家老の大野九郎兵衛です。
この大野は、討入りに反対で恭順開城を主張して奔走してしまう悪役になっています。

  
  山梨県甲府市 能成寺          群馬県安中市 松岸寺
  以上の寺に大野の墓?があります。山形県 板谷峠に石碑があるそうです。

城明け渡しには、藩財政の整理に奔走し、藩札交換をして領民への不安を払拭し、当座の暮らし向きに困らぬようにした手腕は、あまり語り繋がれていません。

大石は、世襲で筆頭家老になったのに対して大野は一代限りの家老で、自分の才覚と努力で這い上がってきました。
そして、大野は城代家老になってから、赤字だった赤穂藩の財政を立て直し、3000石足らずの塩田を倍近くに増やし、製法や販売拡張を計り、借金の返済に努めました。

今で言うブランドの普及に努め、新田の開発や治水事業、植林などにも手を広げて、借金の返済をしたからこそ、藩札の交換も出来、年金を無駄使いしたどこかの国の役人とは大違いです。

大野は大石と意見が合わず、私財を持って夜逃げしたという説が有力ですが、それもまた足並みが揃わない藩士をまとめるために、敢えて汚名を着たのではないかとも言われています。

大野の墓や足跡が山梨県や群馬県にありますが、それも大石が討入りに失敗した後の計画があったものとも言い伝えられています。
いかなる行動をも責任をもって取れるかで、本当の器量が分かるのではないでしょうか?
 この意味からも、大野は本当の武士(もののふ)だったのではないでしょうか?


上杉鷹山の改革とは・・・・

2006年12月10日 09時11分51秒 | 日本人のDNA

昨日の続きです。

「うけつぎて 国の司の身となれば 忘るまじきは 民の父母」

この歌は、上杉鷹山が17歳で藩主になった時に詠んだ歌です。
歌の意は、「藩政改革は、藩民のために行わなければならない」ということで、いままでの改革は、国民や領民のことを忘れており、国民、領民を富ませるものでなくてはならない決意を述べたものです。
これらを、どこかの知事にも聞かせたいものです。

 
   今日の絵は、”ホームレスの猫”です。 F20号

この改革を進めるために、次のようなことを行いました。
1、藩政窮迫の実態を正確につかむこと。
2、その実態を全藩士に知らせる。
3、実態克服のための目標をしっかりかかげること。
4、この改革のために藩士全員の協力が必要である。

これを現在の経営行動に合わせれば、
1、企業目標の設定
2、それに必要な情報の公開と分析
3、解決策のの考究とそれを防げる障害の認識
4、障害克服のためのモラールアップ、全社員の参加。
というようになるだろう。

改革の骨格を決めておいて、領地の米沢に行く前に、まず江戸藩邸で改革を実行することでした。
つまり、言い出したものの足元から実行することでした。
現在の企業に置き換えれば、地方にある工場から始めるのではなく、社長のいる本社から改革を進めるということなのです。

 


ケネディが尊敬した日本人

2006年12月09日 10時21分23秒 | 日本人のDNA

アメリカのケネディ大統領が、就任のとき、日本人の報道陣から「日本人の政治家で尊敬する人は、誰ですか?」の質問に、「上杉鷹山」と答えたということです。
日本人の報道陣には、誰もその「上杉鷹山」を知らなかったと伝えられています。

現在、あちこちの知事が、談合等で逮捕されています。
この人達は、「上杉鷹山」の存在を知っていたのでしょうか?

      上杉鷹山像

「上杉鷹山」は、江戸時代の米沢藩15万石を、九州の高鍋の小藩から養子に入り17歳で名門の上杉家の藩主になりました。
当時の上杉家は、破綻寸前で、藩政を返上するか、自滅するかの境目にあり、困窮を極めていました。
と言うのも、上杉謙信の時代は、会津120万石であったものが、関ヶ原の合戦で破れ米沢30万石に減封されたのですが、家臣団の人員整理をせず、120万石のままの定員を、そっくり米沢に連れて行きました。

それに輪にかけたように、4代藩主が急逝し相続人がおらず、領地は半分の15万石に減らされ、あの吉良上野介から養子を迎えました。
それでなくとも過剰人員を抱えた藩財政は困窮し、15万石のうち家臣の給与はその88%を占め、その負債は、六代から九代まで借金の利子は雪だるま式に増え、その状態で藩を受け継いだのが上杉治憲(後の鷹山)でした。

その上杉鷹山が、財政再建のため藩政改革をし、赤字を黒字にしたのです。
その政策については、後日に譲るとして、彼の詠んだ歌が、
「なせばなる なさねば成らぬ 何事も 成らぬは 人の為さぬなりけり」

この歌は、誰もが知っているのですが、彼の詠んだ歌であることを知る人は、少ないのではないでしょうか?


中秋の名月はいつ?

2006年09月23日 10時08分37秒 | 日本人のDNA

毎年、12ないし13回の満月があるのに、なぜか特別扱いされる中秋の名月は、いつなのでしょうか?
「八月十五日」と書いて「なかあき」
と読みますが、なかあき=中秋のことで昔から八月十五日の月を「中秋の名月」と呼んできました。

        

旧暦では、春夏秋冬のうち1,2,3月を春、4,5,6月を夏、7、8、9月を秋・・・・とし、さらにそれぞれの季節に属する月には「初、中(仲)、晩」の文字をつけて季節を細分化して使っていました。 
例えば、旧暦の四月は、「初夏」となります。

この考えでいくと八月は、秋の真ん中で「中秋」となります。
旧暦の日付けはその時の月齢に対応しますので、八月の半ばの15日はだいたいにおいて満月となります。

古くから日本では、八月十五日に秋の澄んだ空に昇る満月を「中秋の名月」と呼んで観賞する習慣があり、このような風流さは、日本独特の自然への感受性、もののあわれや情緒が形として、生まれたものの一つです。

しかし、実際の月齢を調べると、中秋の名月の日は、実は満月ではない場合が多いのです。 これは旧暦の一日(ついたち)は「新月」となる瞬間を含んだ日ですので、0時0分も23時59分も同じく「一日」になり、旧暦の15日の月齢は、最小13.0、最大15.0で平均14.0となります。
つまり新月から満月までの平均日数は、約14.76日で、これが本当の満月の月齢となります。

ちなみに昨年の中秋の名月の日(旧暦の八月十五日)は、新暦では9月18日で満月の日も9月18日でしたが、今年の旧暦における中秋の名月の日は、新暦では10月6日となり、本当の満月は10月7日が満月で、1日の誤差が生じています。

従って、本当の満月の日付けと旧暦の八月十五日の日付が異なる場合が多い事になります。

と言っても「中秋の名月」は、一種のお祭りであり、日本人の情緒の問題であって、厳密に満月の日でなくとも良いのではないでしょうか?

           

  


相撲界に見る伝統とは・・・・

2006年09月16日 09時53分19秒 | 日本人のDNA

今、大相撲秋場所が行われています。
この初日には、皇太子ご一家が観戦されていました。

しかし、大阪場所での表彰式に大阪知事が土俵に上ることが出来ませんでした。 つまり大阪知事が女性であることを理由に、神聖な土俵には上がることを禁じたのです。
伝統を守るか、古いしきたりの排除を求めるか議論されましたが、一応伝統と情緒を守ることが優先されました。

  
   今日の絵は、”パイナップル”です。F8号

勿論、これには、男女平等の精神から逸脱していると批判を浴びています。
伝統とは、秩序や情緒とは何なんでしょうか?

伝統は、古き良きものを継承して、後世に残してゆくものです。
情緒は、昔からの感性、感受性の問題で、その風習の継続です。
しかし、秩序は、世の移り変わりによって変わっていくものです。

今の世の中で男尊女卑などと言えば袋たたきにあいます。
では、伝統を優先するのか、変わり行く秩序に従うべきなのか、はたまた、情緒は残し、風習を変えてゆくべきなのか、議論するところですが、伝統も良きものだけを残してゆくべきなのですが、その良きものの価値観の違いが問題となります。

これは、女系天皇を認めるか否かと、合い通じるところがあります。
伝統と情緒を考えながら、秩序は変えていくべきでしょうが、価値観の違いはどうしようもありません。

江戸時代は、女性が土俵に上がることは元より、見ることも出来なかったのです。
何時から、女性も見れるようになったのでしょうか?
この時点で伝統を維持しながら、秩序を変えて行っているのです。

要は、多くの出来事は流転していることを根底に考えると、伝統だけに頼るのにも多くの疑問があります。 その時代、時代にあった秩序と価値観の確立が必要と思いますが・・・・・

さて、昨日の回答です。
  左から、案内所広域避難場所薬局静かに! です。
  

  


何か変です!!!!

2006年07月06日 10時50分38秒 | 日本人のDNA

昨日の阪神の試合は都合により見れませんでした。 
携帯にトラトラメールが9時20分頃入ってきました。 なんと降雨によるコールド負け、それも6回表を終わっての1対2での負けとは・・・

   
   300二塁打記録の金本  大阪Dに世界記録の手形が・

金本の通算300二塁打を記録した1点のみ。 拙攻、タイムリーエラーでの失点で、最近の阪神の打線は、変です。

中田はイチローにはなれなかった。 中田がブラジル戦での終了後、ピッチで寝転んで泣いていたと言う。 現役引退を覚悟していたのでしょうが、それにしても中田の美学はイチローの美学には、及ばなかったのでしょうか?
中田は年齢的にもまだ4年先を目指して欲しかった。
突然の引退は、何か変です。

昨日のプロ野球のオーナー会議で、阪神は30億円を支払わらなくてはならないのだそうです。 球団保有者変更の承認とそれに伴う保証金などだそうです。
確かに親会社が変わることには違いはないのですが、新しい会社(阪急・阪神ホールデイング)の関連会社として阪神電鉄は残り、球団の経営はその阪神電鉄に委ねられ実際の経営者は変わらないのに、何か変です。

昨日の最大のニュースは、北朝鮮のミサイル発射のことでしょう。
午前中に6発、午後5時にも1発。計7発も世界の停止要請をあざ笑うようです。
拉致といい、今回のミサイルといい、北朝鮮は、益々孤立化してゆきますが
、この国は、今後又何を仕出かすか分かりません。

日本は、この問題については、もっと毅然とした態度でリーダーシップを取って日本外交を世界にアピールしてゆかなくてはなりません。義務があるのです。
韓国も日本のEEZ海域に調査と称して領海を侵犯しています。

 EEZ(排他的経済水域)は経済的な主権を有する海域のことで、自国の沿岸から200海里(約370Km)までの範囲となり、国連海洋法条約に基づいて設定されるものです。

日本政府はただ抗議するのみです。  
日本政府は舐められていると思われても仕方がないのではないでしょうか?
日本(いや世界)の非常識は、北朝鮮や韓国の常識なのです。
北朝鮮(挑戦とした方がいいのでは・・・)や韓国に対する日本政府も何か変です。
これは、今に始まったことではないのですが・・・・・

野球やサッカーと政治を一緒くたにしてはいけませんが、国家の品格が問われているのです。 大げさかな!!!

変なことばかりです。