新年 あけまして おめでとう 御座います
本年も よろしく お願い申し上げます。
江戸時代、大坂の豪商たちは、財力を蓄え、生活を楽しもうという気風が表れ、その財力をもって学問や文化がさかんになっていました。
その中でも、町人の生活や気持ちを表した井原西鶴の浮世草紙や近松門左衛門の浄瑠璃がもてはやされました。
尼崎市のHPから・・・
http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/chikamatu/055monzaemon.html
左は、尼崎にある近松門左衛門の像
近松門左衛門の墓は、尼崎の他、大坂にもあります。
歌舞伎・浄瑠璃・落語といった芸能は、最初は京都が盛んでしたが、しだいに大阪が中心になってきました。
それ以外にも、大坂で生まれた町人文化は数多くあります。
上田秋成の万葉集を研究した「雨月物語」、天文学の間 重富(はざま しげとみ)、「万葉代匠記」を書いた契 冲、などの町人学者を生み、町人学校も盛んに生まれました。
中井甃庵の「懐徳堂」、土橋友直らによって開かれた「含翠堂」など・・・・
江戸の末期には、緒方洪庵が「適塾」を開き、オランダの医学や学問を教えました。
適塾は、今も保存されており、学んだ人の中には、大村益次郎、福沢諭吉もいました。
大阪大学の適塾のHPから・・・
http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/about/tekijuku
今も現存する適塾
尚、今は、耐震補修工事中で休館中です。大阪大学の前身で今も大学が管理しています。
「江戸は、八百八町」、「京都は、八百八寺」 そして「大坂は、八百八橋」と言われています。
この八百・・・と言うのは、数の多さを比喩的に示す言葉で、仏教用語でもあります。
「〇〇三千」と言う如く、「嘘八百」とか「八百万の神」とか「八百屋」などと言われています。
つまり、八百・・・は、正確な数字ではなく、要は多くありますと言うことです。
中之島に架かる橋
江戸の町数は、18世紀半ばでは、1680町程あったようです。
実際の数が、比喩的な数字より多いと言うのは、なかなか珍しいことだそうです。
では、大坂の橋の実際の数は、どのくらいだったのでしょうか?
確かな事は不明ですが、ほぼ200程あったと言われています。
明治5年頃の中之島東部 明治初年に架けられた難波橋
しかし、江戸も大坂に劣らず川や堀が多くあり、江戸には約350程あったそうです。
江戸の方が多いのに、大坂はなぜか、「八百八橋」と言われています。
昭和初期 1930年代の難波橋界隈 難波橋は、別名ライオン橋とも云われている
現在の橋は、1975年(昭和50年)に大阪市によって大改修されました。
これには、江戸に対抗する大坂の意地があったようです。
つまり、江戸の橋は、半分が「公儀橋」と呼ばれ、幕府が架けた橋ですが、大坂の「公儀橋」は、天神橋、高麗橋、難波橋など12橋しかなく、その他は全て、大坂の町人たちが生活や商売のために架けた橋なのです。
それだけに、大坂の人々は、生活に密着してきた橋に愛着があり、、橋を大事にしてきました。
それ故、江戸よりは少なくとも、自分らで架けた橋を 「浪速八百八橋」と言って誇示してきたのです。
なぜ、大坂が「天下の台所」と呼ばれるようになったのでしょうか?
江戸時代の大阪は、北組、南組、天満組の三郷に分けられ「大阪三郷」と言われていました。
この三郷を取り締まっていたのが、大阪町奉行でした。
しかし、実際に町政の実務をしていたのは、三郷の町人のなかから選ばれた「惣年寄」とその配下の「町年寄」たちでした。
大名たちは、税として農民から米を取り立てていましたが、多くの大名が中之島などに蔵屋敷を置き、米や地方の物産を運び込みお金に換えていました。
黒田藩蔵屋敷長屋門 現在は天王寺公園内にある大阪市立美術館の南門。
江戸時代の大阪の役割は、江戸の消費地に対して、消費物質を供給することでした。
古くから各地の物質が集積していた大阪には、運輸機能、市場機能など流通拠点としての要素が備わっていました。
1806年頃の中之島と堂島にある各藩の蔵屋敷
大阪には、三つの大きな市場がありました。
堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場の魚市場です。
中でも重要なのが堂島の米市場で、ここで取引された米の価格が、全国の米価の基準になったからです。
高松藩蔵屋敷跡 薩摩藩蔵屋敷跡
現在の中之島リーガルロイヤルホテルの前庭 現在の土佐堀2丁目三井倉庫前
これらの事から、大阪が江戸に物資を供給する「天下の台所」と言われた所以だそうです。
江戸時代の文献には、大坂を「諸国之台所」「日本の賄い所」という記述は存在していたのですが、「天下之台所」と直接の記述したものはありません。
が、大正時代に「大阪市史」の中で用いたのが、一般に広まり、あたかも江戸時代から言われていたかのように誤解されていたのでは、と言われています。
平安時代以降、難波津がすたれ、大阪は政治の中心から離れますが、戦いの舞台として登場します。
水上、陸上の交通が集まった所であり、源平の合戦や南北朝の内乱、さらには戦国時代にも戦いの舞台として脚光を浴びます。
1496年(明応5年)、本願寺8世 蓮如が「摂州東成郡生玉之庄内大坂」に寺院を建て、その境内には商人などが住む「寺内町」がつくられました。
いわゆる「石山本願寺」で、これが、大坂の町の誕生と言われています。
「石山本願寺」の想像図 石山本願寺 推定地にある碑
今の大阪城は、この「寺内町」あたりにあったのですが、本願寺と織田信長との戦いで消滅しました。
その後、ここに豊臣秀吉が大阪城を建て、新たに新しい城下町が建設されました。
現在大阪の町になっているところは、上町台地などを別にすれば、戦国時代頃までは、低湿地だったところがほとんどです。
秀吉は、そこに東横堀川・西横堀川・天満堀川などの水路を掘らせ、水はけを良くし、掘り上げた土で周囲を土盛りして低湿地を人が住めるようにしました。
江戸時代になると、西の湿地のほうにも沢山の堀川が掘られました。
その堀川は、水路としてたくさんの船が行き来し全国からの物資を運び、堀川は今の道路の役目をして、これが水の都と言われる所以です。
その水路を利用して、北海道や江戸と畿内を結ぶ北前船や樽廻船だけでなく、京都や奈良へは淀川や大和川を伏見舟や三十石舟が行き交い、大阪は経済都市として、水の都として活況を呈しました。
そして、この水の都が、「天下の台所」と言われることになります。
それについては、後日に・・・・
阪急電鉄では、京都線 大山崎駅と長岡天神駅間で12月21日に「西山天王山駅」が開業します。
それに合わせて、4駅の駅名も変更されます。
この駅名変更並びに駅のナンバリングを導入の実施については、今年の4月に発表されていました。
http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201304306N1.pdf
駅名変更は、下記4駅です。
○ 神戸線 「三宮」 → 「神戸三宮」
○ 宝塚線 「服部」 → 「服部天神」
○ 宝塚線 「中山」 → 「中山観音」
○ 嵐山線 「松尾」 → 「松尾大社」
「神戸三宮」については・・・・
観光都市 神戸の中心地であることを分かりやすく案内するためと、阪急電鉄では報告しています。
また、阪神電鉄も 「三宮」 を 「神戸三宮」に同時に変更されます。
阪神の場合も、理由として、神戸の最寄りの駅が分かりにくいという声が寄せられているためだそうです。
「服部天神」 「中山観音」 「松尾大社」については・・・
これらの駅は、駅直近の寺社仏閣等の歴史的な観光資源を分かりやすく案内するためとしています。
同時に、駅ナンバリングも導入します。
この駅ナンバリングとは、鉄道駅に対して通常の駅名とは別に、路線記号の英字とアラビア数字の組み合わせで駅番号を付ける制度です。
目的は、駅固有の番号を定めることで、特に外国人など地理に不案内のお客さんに対して特定の駅を容易にする手段となります。
日本では、昭和の初期から長崎電気軌道が導入していました。
2002年の日韓ワールドカップの開催に合わせて横浜市営地下鉄が実施。
2004年には、東京の地下鉄2社が同時に実施。
大阪では、南海電鉄や大阪府都市開発、阪堺電気軌道、京福電気鉄道、大阪市交通局、神戸市営地下鉄などが導入しています。
阪急電鉄の12月21日実施に対して、阪神電鉄の駅ナンバリング導入は、2014年4月の実施が予定されています。
モントリオール世界映画祭 最優秀芸術貢献賞 受賞作品で、原作は、山本兼一の直木賞受賞作ということで、「利休にたずねよ」を原作も読まず、そのあらすじも知らずに見てきました。
”利休”ということから、当然秀吉との確執があり、なぜ切腹しなくてはならなかったのかが描かれるのですが、その理由が思っていたのとは違っていました。
「利休にたずねよ」は、誰が、なにをたずねるのでしょうか?
それが、最初の画面に登場します。
利休が切腹するその日の朝から映画が始まります。
その朝、利休(市川海老蔵)の妻(中谷美紀)から「あなた様にはずっと想い人がいましたね・・・・」と問う。
そこから、利休の過去の出来事が、映し出されてゆきます。
それは、織田信長(伊勢谷友介)の茶頭から、信長亡きあと秀吉につかえ、関白まで登りつけた秀吉(大森南朋)に重用され、利休の名を世間に響かせます。
諸大名をも弟子にしたり、茶碗を高価な値で売ったり、大徳寺の山門に木像を建てたりして、秀吉の不興をかい、何よりも秀吉にひれ伏さない態度に立腹し、切腹を申しつけられます。
ここまでは、良く知られた利休の話ですが、ここからが小説としてのフイックションです。
切腹を命じられたもう一つの理由に、利休がいつも「懐に忍ばせている高麗の壺を差し出せば、ひれ伏したものとして許す」と秀吉は譲歩しますが、利休は「ひれ伏すのは、美しいものだけです」と言って拒否します。
利休の人気が増す中、秀吉のヒガミ、ねたみが益々増幅され、その上、利休に「美しいものだけにぬかずく」という一言が背景にあったというのが、この映画の焦点です。
映画では、その”高麗の壺”が、利休の美意識を確立させ、そこには若い時の利休が出会った高麗の美女の面影が影響したと言う大胆な解釈がなされた作品でした。
この映画には、評価が分かれているようです。
つまり、本来の”茶道”とは違うのではないか?とか・・・・
茶道の起源が高麗にあったのかとか・・・・
(余談ですが、当時の高麗には、茶道という点前の式法はなくあくまで喫茶法だったそうです。)
そして、格調高い時代劇だという評価もあります。
茶道を全く門外漢な僕にしても、すこし違和感がありましたが、あくまで歴史のフィクションとして見れれば、それなりに良かったのではないでしょうか?
なにより、時代劇の醍醐味の一つに、その景色・背景があります。
京都太秦撮影所を拠点に、三井寺、南禅寺、彦根城などロケ撮影され、茶器も値段の付けようのない逸品を使用していたとのことで、それだけでも、見ごたえがありました。
12月に入り、選手の契約更改が進んでいます。
今年、活躍した選手や今一つだった選手と悲喜こもごもです。
今年、2位と言っても、決して満足出来る内容でなかったことは、首脳陣だけではなく、選手一同、ファン一同ストレスの貯まった1年だったことは、誰もが感じることでした。
スパイスをかければすぐにでも優勝出来ると豪語した2年前の和田監督も、来季は勝負の3年目となります。
華々しく打ちあげた昨年の補強も機能したのは、西岡と新人の藤浪ぐらいで、他は全くの期待外れでした。
開幕時に抜てきした4番と守護神が、首脳陣の思わく外れとなり、それが、今年1年、重くのしかかりました。
と言うことで、今年の弱点だった4番と守護神を一応確保しました。
来季も、ルーキーの活躍を期待せざるを得ません。
来季 今のところ、新戦力は・・・・
呉、 ゴメス、 吉見、 ドラフトの各選手。
退団したのは・・・
スタンリッジ、 コンラッド、久保、浅井、桧山。
こうして並べると、補強は成功したとは言えません。
今年の反省点としての、守護神不在と長打の4番打者不在が、最後まで響きました。
その点、一応、それに該当する実績をもった選手を獲得したのは、良かったのですが、それが上手く機能するかどうかは、本人次第であり、首脳陣の起用法如何にかかっているようです。
今までの実績は、あくまで日本のリーグ実績ではないところが不安材料です。
なによりの不安材料は、先発投手陣の不足です。
スタンと久保の穴は、大きいのではないでしょうか?
特にスタンリッジの抜けた穴は大きく、これだけのイニングを投げる先発投手は、果たして今の投手陣から出るのでしょうか?
今、涌井の去就が取りざたされています。
この際、若手から、スタンや久保に代わるべき人材の育成に力を入れることに専念して欲しいものです。
今年の反省点は、なにも守護神不在と4番打者不在だけではありません。
大和の負傷欠場のあとは、2番打者が固定化されませんでした。
それと、安藤、福原のベテランはそれなりに力を発揮したのですが、若手の投手陣の伸び悩みが深刻です。
他に気になる問題点として、チームの不協和音が、時々聞こえるのが気になります。
呉の年俸の多さと過度の待遇、掛布のコーチによる諸々の問題点がくすぶっているのではと思われる点です。
ともかく、選手補強云々だけではなく、チームの和が乱れることが唯一気になるところです。
それをまとめる和田監督のリーダーシップの発揮が、補強以上にチームの成績を左右されるのではないでしょうか?。
1年が経つのは、早いもので、もう12月も10日。
12月7日の”大雪”も過ぎ、13日は”正月の事初め”、そして22日は”冬至”です。
冬至は1年で一番、日の短い日であり日が伸び始める最初の日であることから”一陽来復”の日として喜ばれるようです。
暮れ早し、冬至に近いこの時期の1日は短く、ことに12月上旬は、日暮れの時間がもっとも早い時期でもあります。
では、実際の日の出、日の入りの時間を調べると・・・
大阪の場合 10日 日の出 6:53 日の入り 16:48 昼間の時間 9時間55分
22日 〃 7:01 〃 16:52 〃 9時間51分
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22日から26日まで、日の出、日の入りの時間は若干違いますが、昼間の時間は、9時
間51分で、これより1分でも日が長くなる日は・・・・・
27日 日の出 7:03 日の入り 16:55 昼間の時間 9時間52分
ちなみに 今年の夏至(6月21日)の日の出、日の入り、及び昼間の時間はどうだったのでしょうか?
6月21日 日の出 4:45 日の入り 19:14 昼間の時間 14時間29分
ノーベル賞 晩さん会会場のストックホルム市庁舎とその会場内部(6月訪問時撮影)
今日、12月10日は、ノーベル賞の授賞式の日です。
今年は、日本人が受賞しておらず、報道もほとんどありませんが・・・・・
この日は、ノーベルの死去した日でもあり、今年、北欧4ヶ国訪問した時の晩さん会会場を思い出しま
す。
そして、未だに話題となっています、3億円強奪事件は、1968年(昭和43年)のこの日12月10日発生しています。
当時、この日は、東京 府中市の東芝工場の従業員のボーナスだったということから、その後、多くの企業が給与・賞与の支給を口座振替にする契機になったようです。
今年6月 北欧4ヶ国旅行の思い出
フインランドのヘルシンキ大聖堂にて、 水彩画 F8号
近年、兵庫ふれあい美術展は、11月に実施されていたのですが、今年は、12月の開催となりました。
(尚、12、13回は、11月末から12月初めに実施されました)
☆ 会期 12月12日(木)~12月15日(日) 10時~17時 (最終日は15時まで)
☆ 会場 原田の森ギャラリー
神戸市灘区原田通3-8-30
今回、搬入した僕の絵は、6月に訪れたフインランドでの ”教会の見える港” です。 F20号
19回目を迎えた当美術展は、主催者の趣旨として、”新たな美の創造と世代や分野を超えた人々の交流の場として、美術の創作活動に親しむ人々の作品を公募し、展示されたもの”と、作品応募書に記載されています。
その趣旨に沿って、応募資格は、兵庫県内に在住もしくは勤務先がある15歳以上の方で、応募規定として各部門一人1点とし、未発表のものに限ります。
部門として、洋画 (油絵、水彩、素描版画、パステル)、 日本画 (水墨画を含む)、 彫刻、 工芸、書、写真。
主催は、兵庫県、(公財)兵庫県芸術文化協会。
後援は、兵庫県教育委員会、兵庫県日本画家連盟、兵庫県美術家同盟、他新聞社など多数。