徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

万博記念公園の桜

2024年04月07日 19時24分57秒 | 旅行・観光

今年の桜は、気温がはっきりせず、開花が遅れていましたが、やっと満開の便りが聞かれるようになりました。 昨日の土曜日、そして今日(4月7日)は、絶好の花見日和となりました。
それも、明日、明後日と天気が悪いと予報されているせいか、今日の人出は想像以上の混雑ぶりでした。

   

大阪での開花予想は、3月19日現在で、3月25日、満開は4月2日でした。
平年の開花予想日は3月27日、満開は4月4日でしたが、今年の開花は3月31日。満開は4月7日ごろとなり、平年より3,4日遅れたということなりました。

 

大阪には、桜の名所は多くあるのですが、ここ万博記念公園の桜、認識不足かも知れませんが、これほどたくさんの、見事な桜があるとは思いませんでした。
この万博記念公園内には、12品種、5500本の桜が咲き誇り、日本さくら100選に選ばれており、尚更、地元にいながら知りませんでした。

今日は、午前中に行ったのですが、さくらだけが目的なので、東大路の桜並木を見て帰りました。 しかし、その帰路(昼頃)は朝に訪れた人以上の人が駅から押し寄せ、道路は長い渋滞が見えました。 これからが混雑が予想されますが、家族ずれの他、以外?にも若い二人ずれが多く、桜だけではなく、イベントなども時折折にあり、色々な施設などもあります。

   

 


大阪城の梅林

2023年02月28日 16時24分31秒 | 旅行・観光

昨年に続き、今年も大阪城の梅林に行ってきました。

  


去年と同じはずなのに、今年の梅は小粒のように感じたのは、何なのでしょう・・・

100種類もあるとのことで、満開のものがある一方、まだ蕾が固いものもあります。
でも全体的には7~8部咲きなのでしょうか・・・

それにしても多くの人出で、外国人も多く、この季節の大阪の名物になっています。

  

  

この梅林が出来たのは、あまり古くなく、1974年(昭和49年)府立北野高校の卒業生が開校100周年を記念して、22品種、880本の梅の木を大阪市に寄付したのが始まりなのだそうです。

今では100品種、1270本あるそうですが、幹もかなり古くなっているように見えます。
次の時代に繋ぐためにも植樹してゆくようにして欲しいものです。

  

なんといっても寒い冬があけ、春の兆しを告げる梅は、古くから日本人にしみ込んだ風景なので、無くならないようにしたいものです。

 


お城見学と下呂温泉 ー 岐阜城 ー

2022年12月14日 10時19分49秒 | 旅行・観光

今回の旅行の最後は岐阜城です。
岐阜城は、どうしても織田信長が最初に建てたと思いがちですが、岐阜の名前は確かに信長が改称したのですが、当初は鎌倉時代に時の執権二階堂山城守が、金華山頂に砦を築いたのが初めと言われています。

    
  JR岐阜駅前 ”織田信長像”     岐阜城には、信長の家紋と道三の家紋も

  戦国時代は、斎藤道三の居城であり、それを織田信長に攻略され、地名を岐阜と改名し、天下統一の拠点として新しく城を築きました。

現在の城は、昭和31年に復興されたもので、鉄筋コンクリート造り三層4階構造で、平成23年2月、金華山一帯を「岐阜城跡」として、国の史跡に指定されました。

城は、駅からタクシーで15分ぐらいのところで、ロープウエーで金華山の山頂まで4~5分で、山頂駅に着き、お城には、そこから徒歩7分と案内書には記載されています。

山頂駅からお城までの登城の道は、山道といえどもたった7分ぐらいはと簡単に思っていました。
不規則な石の階段で、足腰の悪い僕にとっては、その倍以上の時間がかかり、情けない話ですが、手すりとか、人の介添えが必要だったのは、やはり、自分の体を知り、地図を鵜呑みにせず、余裕をもって行動しなくてはならないと実感しました。


天守に登ると、下界は実に素晴らしく、昨日の雨が嘘のように晴れ渡っていました。

  

   
   天守の天井              

今回の二日間の旅行は、初日は雨で行動が制約され、二日目は、案内書にはない困難な道(ただし、個人によってはの話)もあり、予定外や新しい発見が、旅行の楽しみの一つです。と言って大げさに考える必要はありませんが、”新しい風景”を見つけてゆきたいものですが・・・・。

 


「お城見学と下呂温泉」ー 下呂温泉ー

2022年12月09日 16時36分37秒 | 旅行・観光

「下呂温泉」は飛騨山脈の山々に囲まれた飛騨川の川原付近で湧き出るアルカリ性単純温泉で、江戸時代の儒学者林羅山により、三大名泉の一つと唱えられました。

 
        飛騨川沿いの温泉街           JR 下呂駅  

三大名泉とは、「草津温泉」「有馬温泉」と今回訪れた「下呂温泉」です。
温泉は、10種類の泉質に分けらます。

下呂温泉は「単純温泉」---アルカリ性単純温泉でPh8.5以上の美肌の湯と言われ、他に鬼怒川温泉、宇奈月温泉、道後温泉などがあります。
ちなみに「草津温泉」は「酸性泉」「有馬温泉」は「塩化物泉」その他の泉質は、又別の機会とします。

さて、この「下呂」という地名は、どのようにして生まれたのでしょうか・・・
776年(宝亀7年)に美濃国菅田駅と美濃国大野郡伴有駅の間に作られた「下留駅(しもどまりえき)に由来しています。

     

当時の”駅”とは、馬を乗り継ぐための宿場駅のことで伝令制度や早馬の利用に活用していました。
この宿場駅の「下留駅」が「げる」と呼ばれるようになり、それが最終的に「げろ」と呼ばれて当て字「下呂」と表記されるようになったと言われています。

しかし、「下呂温泉」と呼ばれるようになったは昭和以降で、それ以前には「湯ノ島温泉」と呼ばれていました。

従って、林羅山も「下呂」ではなく「湯ノ島」と紹介されており、それではなぜ「湯ノ島」がなぜ「下呂」になったのか・・・
要は、源泉の場所が変わったということです。

温泉が発見されたのは、平安時代ですが、後に地震があり、湯ノ島の湧出は止まりましたが、1265年に現在の飛騨川の川原に源泉が見つかりました。

その飛騨川の川原に源泉が見つかったのは、”しらさぎ”が足の傷を癒しているのを見つけたからと言われており、この”しらさぎ”は、薬師如来の化身ともいわれています。

 

 


お城見学と下呂温泉 ー 名古屋城本丸御殿 ー

2022年12月04日 16時03分28秒 | 旅行・観光

11月末に、久しぶりに一泊二日の旅行に出かけました。
目的は下呂温泉ですが、往路に名古屋城、下呂温泉宿泊後、復路に岐阜城を見学してきました。

1日目の名古屋城は、時間的な関係だけではなく、雨が降っているということで御殿以外の西の丸公園には立ち寄らず、御殿だけになりました。
なお、2日目の岐阜は、時たま太陽がのぞく幸運に恵まれました。
旅行は、天候によって大きく左右されます。

   

この本丸御殿は、2009年(平成21年)から復元工事を開始し2018年(平成30年)江戸時代に将軍家光の宿泊のために造営されたものを復元されました。

  

御殿の内部は、障壁画や飾り金具など豪華に飾られ近世城郭御殿の最高傑作と言われていて1930年(昭和5年)に天守閣とともに国宝指定1号に指定されましたが、1945年(昭和20年)の空襲により焼失しました。

以下 御殿内部の写真を・・・

   
                      玄関 二の間

     
                         表書院 

 

 

   
    対面所 

       


   上洛殿 上段の間  

 


伊丹市 バラ公園へ

2022年05月19日 10時51分38秒 | 旅行・観光

伊丹市荒牧にあるバラ園へ行ってきました。
春と秋に訳250種類1万本のバラが咲き、春の見ごろは5月中頃ということで昨日 出かけてきました。
1部は既に咲き切っており、変色しているものもありましたが、反対に蕾も多くついていました。 今年は天候も不順で、一斉にとはいかなかったようです。

色鮮やかで、桜や梅以外で、何年振りかの花の鑑賞となりました。
1時のことに比べコロナ禍も落ち着いたためか思った以上の人出でした。
咲き誇ったバラたちの1部をご覧ください・・・

               

                 
  
     

              


造幣局の通り抜け桜

2022年04月19日 15時33分32秒 | 旅行・観光

コロナ禍で3年ぶりとなった造幣局の通り抜けに行ってきました。
今回は、事前に予約した人のみの鑑賞となりました。

桜の通り抜けは、1883年(明治16年)に当時の造幣局長の呼びかけにより始まり、今回は令和になって初めての開催となりました。

 

  

       
  「今年の花」は”福禄寿”でした。
 この今年の花は17種類、49本の桜の木から投票で選ばれ、1番多くの得票を得た桜を来年(令和5年)の「今年の花」に選定されます。

  通り抜けの期間は、4月13日から19日で、僕が予約した日は18日で、既に満開の時期は過ぎ、葉桜が多くあり、少し残念でした。
予約制でもあり、コロナ禍前の混雑に比べれれば、ゆっくりと鑑賞できたのが良かった。

帰路は、大川沿いを、通り抜けの桜を右手に見ながら、会場の入り口の方向に帰りました。
以前は、この通りは多くの出店が出ていて、人通りも多くあったように思いますが、今年は、大川の風に吹かれながらゆっくり散策出来て、予約制も悪くはないなと思いました。

  
   桜宮橋の見える出口を出て、桜の通り抜けを平行して、右にみながら逆行しました。
   ツツジの満開にはまだまだですが、帰りも花を愛でながら散策して天満橋に向かいまし 
   た。                天満橋に近づいてゆくと京阪電車の向こう側に
                     大阪城が遠望出来ました。
   

  


近所の桜

2022年03月31日 14時54分08秒 | 旅行・観光

今年も桜の開花の季節がやってきました。
すでに満開となっているところもありますが、まだ遠方まで出かけての桜見物は躊躇します。

で、近所にも見どころはたくさんありますので、散歩がてらに桜を訪ねてめぐってきました。
勿論、まだ満開ではありませんが、雰囲気は楽しめました。

                 

     上記2点は3月10日ごろの河津桜 
    下記の桜は3月29日、30日に近所の河川敷や公園で撮影しました・・・
 

     

   

   

    


温泉めぐりの旅 -その6- 草津温泉

2019年12月03日 19時41分02秒 | 旅行・観光

上田城を後にして再び嬬恋高原を通り、草津温泉に向かえました。
途中小雨が降り続けていました。が紅葉を楽しみに草津温泉到着時には雨が止んでいることを願いながら・・・

しかし、残念ながら小雨は、時々強くなり、降り続けました。
ともかく、雨を避けるために、温泉畑を横に見て、湯もみのある「熱乃湯」に並び何とか入ることが出来ました。

   
  湯畑の向こう中央の建物が”熱乃湯”  大正ロマン風の建物です。

 

草津温泉で有名なのは「湯畑」と言われる施設で、ここは、温泉の中核をなす源泉が高温すぎるのを加水することなく低温化するためのものです。

この施設のもう一つの目的は、湯の花を採集することです。
このような施設は、江戸時代中期(寛政2年 1790年)頃から始められたと言われています。

 

 

 草津温泉と言えば、”湯もみ”が有名ですが、これがシヨー化されたのが昭和35年(1960)で観光施設として”熱乃湯”が出来ました。
昭和43年(1968年)に今の大正ロマン風の建物に建て替えられました。

   

 

共同浴場も多くありますので、時間があれば浴場周りも良いのではないでしょうか。
なにしろ万病に効くということなので・・・・

  
       湯畑の周りの柵には、訪れた人の名前が・・

 雨がひどくなってきたので、早々に引き上げました。
 もっと足湯とかここに刻まれている名前を見たかったのですが・・・

  温泉街  


温泉めぐりの旅 -その5- 上田城址

2019年11月25日 14時28分00秒 | 旅行・観光

万座温泉をあとにして、嬬恋高原を通り、群馬県は一旦出て長野県上田城址見学に出かけました。

 

 
       南 櫓            東虎口櫓門          北 櫓 


上田城址は真田昌幸によって築城され、第1次、2次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城で有名です。

 訪れる前までは、このお城の印象は、天守閣もなく、櫓と若干の堀が残っている程度と思っていました。

  
  西 櫓                     東虎口櫓門には・・・

  
   真田石              真田井戸
  東虎口櫓門右手にある大石   真田神社の境内にある井戸  この井戸は抜け穴で城北
  松代城に移封にあたり父・   の太郎山麓の砦に通じていたとか・・・                 
  昌幸の形見として持っていこう
  としたところ、微動だにしなか
  ったという言い伝えが残ってい
  ます。

  真 田 神 社 

確かに、明治維新後、西櫓1基を残しその他の櫓・櫓門は取り払われました。
その後、場外に移築されていた2基の櫓は買い戻され、昭和18年(1943)から24年にかけて現在の南櫓・北櫓として再移築され、平成6年(1994)には東虎口櫓門が復元されました。

  
  東虎口櫓門の上 南北の櫓を繋いでいます。   隅おとし 
                         本丸に見られる上田城の特徴の一つ
                          で、鬼門にあたることから、本丸北東
                          の方向の土塁を切り込み「鬼門よけ」
                          としたものです。

この上田城の別名は「尼ケ淵城」とも呼ばれています。
上田城の南側の崖下にはかっての千曲川の分流があり天然の堀となっていました。
崖面がもろく崩れやすいことから築城以来保護対策が行われ、大規模な石垣が設置されており、ここを尼ケ淵と呼ばれていたことからここの名前が城の別名になったそうです。

 

      
    正保四年(1647年)の古図          尼ヶ淵あたり・・・