徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

日本の城、もう一つの名前 ⑤ -忍城=忍の浮き城=亀城ー

2012年12月17日 10時19分45秒 | 城郭への展望

映画”のぼうの城”の舞台がこの”忍城”であったことを11月6日の当ブログで述べました。
映画の感想は下記を参照していただければ、忍城が”忍の浮き城”と呼ばれる理由はおわかりのことと思います。

 http://blog.goo.ne.jp/ganbaro433/e/c796555f7f1b2f721049ba98dcbd3d13

豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、近くを流れる利根川を利用して水攻めを行い、そのため総延長28Kmにも及ぶ石田堤を建設しました。 その一部は今にも残っています。
それまでしても落城せず、結局は本隊の秀吉が小田原城を先に落城させた事による開城となりました。
このことから、忍城は水攻めでも落城せず、”忍の浮き城”と呼ばれるようになりました。

  
     復原された 忍城                         忍城の古地図 

  

 

また、別名を”亀城”といわれているのには、忍城が、この巨大な沼地の中に浮かぶ姿が亀のようということから名付けられたようです。

忍城は、関東七名城の一つであり、日本三大水攻めの城としても有名です。
といっても、この忍城自体は全国的には、あまり有名とは言えないようです。

忍城は、埼玉県行田市にある湿地帯を利用した平城です。
元々沼地だったところに島が点在する地形で沼を埋めずに島に橋を渡す形で城を築かれていたようです。

ここを「忍」とか「行田」とか言われた理由とは・・・・・
「忍」は中世のころ忍氏が住み、忍荘と呼ばれていました。
「忍」の意味はアイヌ語の「ウシ」で入江や湾のことで、その方言では組木や石積の堤防を表すとのことです。

何故 アイヌ語がこのあたりに残っているのでしょうか?
また、一説には、この辺りの湿地帯に多くの「おしどり」がいたことに由来するとも云われています。

「行田(ぎょうだ)」は「行田(なりた)」とも云われ「成田」と同じ意味で、忍氏を滅ぼして成田氏が、熊谷からここに移住して、その後成田氏がこの地を治めます。

<参 考>
◎ 関東七名城とは・・・
 埼玉県には、 川越城、忍城  群馬県には 金山城、前橋城  栃木県には、宇都宮城、唐沢山城、  茨木県には、太田城

 ◎ 日本三大水攻めとは・・・・
 岡山県の備中高松城、 和歌山県の太田城、 埼玉県の忍城


日本の城、もう一つの名前④ -彦根城=金亀城ー

2012年12月07日 10時30分42秒 | 城郭への展望

滋賀県彦根市金亀(こんき)町にあり、別名を金亀城とも云われています。
別名には、縁起もの、創建の由来、お城の姿、それにその地元の地名があります。
この彦根城は、地元の地名が別名となっています。

彦根城は、12の現存天守閣のお城のひとつですが、明治の廃城令により、取り壊される予定だったのですが、取り壊されなかったのには、諸説があります。
明治天皇が巡幸の際、保存を命じたとか、大隈重信が保存を奏上したとか言われています。

天守が国宝指定された4城の1つで姫路城とともに遺構を良く残している城郭ですが、未だ世界遺産には登録されていません。
1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストには掲載されているのですが、実現されていません。


関ヶ原の戦いの功績により、井伊直政は、石田三成の居城であった佐和山城を与えられました。
直政が戦のキズが再発して没し、後を継いだ直継は、直政が磯山に移そうとしていたのを、彦根山に築城することにしました。

12の大名の手伝い普請により3年の歳月をかけ完成させたのが、この彦根城です。
これが第1期工事といわれ、主として大津、安土、佐和山などの旧城址から石材や瓦を運び突貫工事で進めたと言われています。

  

1616年から22年まで第2期工事が行われました。
城は琵琶湖を西に控え平山城で彦根山の頂上を本丸とし、東のふもとに表御殿がありました。

井伊家は、関ヶ原の功績で5万石加増され、さらに10万石加増され30万石となり、譜代大名としては破格の扱いを受けました。

天守閣は、国宝、西の丸三重櫓は重要文化財、天秤櫓、佐和口多聞櫓も重文です。

 

  今年 春に訪れた彦根城 玄宮園から天守を望む。     池に映った逆さ天守   

 
  彦根城博物館 表御殿の再現と武具などが展示     今や彦根城の代表 ”ひこにゃん”
   
 


日本の城、もう一つの名前 ③ ー松山城=金亀城ー

2012年11月03日 11時09分09秒 | 城郭への展望

一口に松山城といっても、全国に沢山の松山城があります。
一般的に松山城と言えば、四国の伊予国、愛媛県にある松山城のことでしょうが、他には備中国松山城とか武蔵国の松山城など計10城あります。

ここでの松山城は伊予国の松山城の話をします。
別名は、金亀城とか勝山城と言われています。

金亀城とは、その名の通り、堀に金の亀がいたとか言われており、良くある縁起物で価値観を上げる名前です。
また、勝山城という名前は、これもお城の別名によくある、城のある場所、山の名前なのです。
勝山と呼ばれる丘陵の山頂に天守が築かれています。

松山城は、現存する12の天守のある城の一つで、姫路城と同じく、大天守と小天守、南隅櫓、北隅櫓を渡り廊下で結んだ連立式で、日本三大連立式平山城です。もう一つの連立式平山城は、和歌山城です。

  

この城の始まりは、1602年、伊予国10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの軍功により20万石に加増され、この平山城の築城に着手しました。

この時、正木城と呼ばれていましたが、加藤嘉明が、この地を「松山」と名付けたそうです。
その後、城主は、蒲生家や松平家などに代わり、幕末は、松平定昭が老中職となり、親藩として、明治維新を迎えます。

  

明治維新後は、土佐藩が松山城を受領、保護します。
明治3年には、松山城三の丸、そのご2年後には、二の丸も焼失します。

天守など35棟の建造物が国宝に指定され、他21棟が重要文化財に指定されています。

伊予松山と言えば、俳句「春や昔 十五万石の 城下かな」で正岡子規も知られています。

  
    2010年10月に訪れました。 天守から松山市街地を望みます。 
  お城に登城するには、徒歩でも登れますが、僕はロープウエイで登りました。

 

 

 


日本の城、もう一つの名前 ② -熊本城=銀杏城ー

2012年10月29日 08時35分54秒 | 城郭への展望

熊本城は、中世に千葉城、隈本城が築かれ、その後その地に、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて、加藤清正が熊本城を築きました。

日本三大名城の一つで「清正流(せいしょうりゆう)」と呼ばれる石垣が有名で、その他にも加藤清正ならではの色々な工夫があります。

「銀杏城」という名前の由来は、場内に植えられているイチョウの木があることです。
これは、籠城する時のために加藤清正が植えたと言われています。

  
          2009年12月初旬に訪れた時の写真です。  天守から見下ろすイチョウの木



加藤清正が、朝鮮出兵の時、食糧不足に苦しんだ経験を生かしているそうです。
「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時にこの城で兵乱が起こるだろう。」と言い伝えられており、それが明治10年の西南戦争だと言われていますが、この銀杏の木は、雄木なので実はならないそうで、これらは、後世の人が作った俗説と考えられます。

  
   本丸御殿と天守閣の間に、イチョウの木の黄金色がひと際目立ちました。 
 「熊本城」の歴史を見てきたイチョウの木は、「銀杏城」と呼ばれるに相応しく堂々としていました。     
     

      

他に、食糧の確保としては、清正は城内の建物の土塀にカンピヨウを塗りこめ、畳床には食用になる里芋を用いていると言われていますが・・・・

水についても、城内には120ヶ所の井戸を掘り、籠城に備えていました。

この他にも清正ならではのものがあります。
本丸御殿には「昭君之間」と呼ばれる部屋があり、一説によると、豊臣家の有事の際、秀頼を密かに匿うために造られた部屋であると伝えられています。
表面上は、家康に恭順しながらも、秀吉への恩を忘れない清正の忠義を表したものと伝えられています。

  
  「昭君之間」

この「昭君之間」は、2007年(平成19年)に築城400年に際して、本丸御殿を始め、元太鼓櫓、奉行丸の塀、南大手門などの建造物を数年かけて復元され、その本丸御殿内に造られています。

なお、熊本城が所在する熊本城公園の敷地は国の土地で、熊本市に無償貸与されて管理、整備をしています。


日本の城、もう一つの名前 ① -姫路城=白鷺城ー

2012年10月25日 11時06分18秒 | 城郭への展望

日本のお城について、主にお城の別名について調べて見たいと思います。
お城の名前は、普通、その地名で表されますが、それ以外に別名で呼ばれる場合があります。

その別名の方が、そのお城の特徴を良く表しています。
お城の出来た由来とか、その姿などを的確に表し、その土地で親しみを込めたものが多くあります。

日本のお城で代表的なものにまず挙げられるのは”姫路城”でしょう。
それも”白鷺城”(はくろじょう、しろさぎじょう)というのも、お城の姿が白鷺のようであると言うことも、広く知られています。

  

 2010年3月30日に訪れた時の姫路城      天守閣の修理中 見学が出来ます。
                                 見学時期は、下記アドレスを参照してください。


姫路城は、古の名前を「姫山」又は「日女路」の丘と呼ばれていました。
「播磨国風土記」にも「日女道丘(ひめじがおか)」の名前があります。

姫路城は、現在、姫路市街の北側にある姫山及び鷺山を中心に築かれた平城で、日本100名城の一つであり、1993年(平成5年)に法隆寺と共に日本初の世界遺産に登録されました。

別名「白鷺城」とも云われる由来は、
○ 姫路城が「鷺山」に置かれているから。
○ 白漆喰で塗られた城壁の美しさから。
○ ゴイサギなど白鷺と称される鳥が多く住んでいることから。

その他に、「出世城」とか「不戦城」とも云われています。
「出世城」と言うのは、羽柴秀吉が居城とし、後に天下を取ったことから、また「不戦城」とは、築城以来一度も大規模な戦火に見舞われることがなかったことから、言われており、この城の歴史の一部を表しています。

 
   2010年の3月30日 既に工事は着工されていました。

今、姫路城は、平成の大修理が行われています。
戦前の1934年(昭和9年)からの昭和の大修理は、戦争での中断を挟んで1955年(昭和30年)に天守を除く修理は完了したのですが、その翌年から今度は天守閣の修理を着工し、これが1964年(昭和39年)に竣工しました。

その45年後の2009年(平成21年)6月27日に、”平成の大修理”が着工され、2015年(平成27年)3月18日に竣工予定だそうです。
今回の修理は、昭和の大修理の時に充分出来なかった屋根や壁面のほか、耐震補強に重点が置かれています。

 修理の内容や見学の状況については下記をご覧ください。

 http://www.himejijo-syuri.jp/home.html


日本のお城の話  ー12の現存天守ー

2012年10月23日 15時29分24秒 | 城郭への展望

日本の歴史を語る上で「城」は欠かせないもので、特に戦国時代以降は、政治上の拠点、居住の場所、攻守の要であり、城を中心に町が出来、政治が行われていたところであり、その土地のシンボルでもあったところです。

かって、日本には25000もの城が存在したと言われるが、これには柵で囲われただけの砦のようなものや、文書に残っているが存在が確認されたものも含まれています。
その城跡すらもただの野山としか見分けがつかないものもあります。

江戸時代の後期には、200をきり、天守閣のあった城は70位だったそうです。

そして、今現存天守のある城は12城しかありません。
昭和の初めは、19城あったのですが、戦災で焼失した城が、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城の6城、昭和24年に火災で松前城があります。

これらの城に天守が今あるのは、復元天守、復興天守、模擬天守などで、現存天守とは、江戸時代又はそれ以前に建設され、現在まで保存されている天守のことです。

             

その現存天守のある城にも色々なものがあります。
○ 修復などを繰り返しつつ、ほぼ、創建当時のまま維持してきたお城・・・・姫路城、彦根城。

○ 現存天守が在籍していた城が存城であった当時、再建・改築されたもので、それがほぼそのまま残っているお城・・・・・・犬山城、松本城、高知城、松江城

○ 付属する一部の建物を焼失又は改築されたお城・・・・・宇和島城

○ 明治維新以降に保存されるまでの経緯で付属する建物を撤去又は、損失したことにより、主に主体のみ保存されたお城・・・・・・・備前松山城、松山城、弘前城、丸亀城。

○ 損失したが遺材を組みなおして再建されたお城・・・・・・・丸岡城

以上の内、国宝に指定されたお城は、姫路城、松本城、犬山城、彦根城の4城です。

今後、この欄では、今まで行ったお城も行っていないお城もまとめて、日本のお城の成り立ちや別名などの由来を書いていきたいと思います。