日々の恐怖 4月15日 おい(2)
彼は私の前では取り乱した様子は見えませんでしたが、明らかに憔悴していました。
『 それで最近は、授業中でもあの声が聞こえてくるんじゃないかと、それが怖くて・・・。』
『 でも君、それは声だけで、何も悪さはしないんだろう?
ただの空耳というやつだよ。』
私はそう言って彼をなだめようとしましたが、効果がありませんでした。
『 最近は、自宅の書棚に這い回る無数の手が見えるんです。
まるでクモみたいに、さらさらと本の背表紙を触っているんです。』
その生徒はそう言っていました。」
オチとして、
「 あまりに研究に没頭しすぎるとこのように幻聴や幻覚が聞こえるようになるから、まあほどほどに励んでくださいね。」
と、教授の話はここでおしまいでした。
その生徒が以降どうなったのかは、知る機会はありませんでした。
それでも何となく気味の悪い思いで、記憶に残していた程度です。
その後3年が過ぎ、私は卒業論文の製作に心血を注いでいました。
とにかく大好きな研究分野だったこともあり、自分の全てを注ぎ込んで資料の収集と整理に励んでいた頃です。
それは薄暗さが迫る晩秋の夕方で、私は図書館の閲覧室にいました。
個人ブースに書籍を積み上げて読書にふけっていた私の耳元で突然、誰かが、
「 おい!」
と言ったのです。
図太く低い、男性の声でした。
職員の人が何か咎めたのだろうか、とすぐに顔を上げましたが、そこには誰もいません。女子学生がちらほら、私と同様にブースで読書に励んでいるだけでした。
私はすぐに、あの数年前の教授の話を思い出しました。
あくる週末、私は遠方の実家に帰り、休息をとることにしました。
幸いにも、私にその声が聞こえたのは後にも先にもあの時一回だけでしたが、熱心に事を成す際は、ほどほどになさってください。
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