永代橋は1698年、五代将軍徳川綱吉の50歳の誕生日を記念して、隅田川に4番目に架けられた橋だ。アーチ式の美しい形をしている。
正面から見ると、鋼製の頑丈な構造。重厚で巨大な怪物が襲いかかってくるかのような威圧感がある。
アーチの幅は1.5mもある。
アーチを支える横に張られた鋼の層も力感たっぷり。
そんな橋なのだが、実は悲しい過去が刻まれている。1807年に起きた「わが国最大の橋梁崩落事故」だ。
(歌川広重 「永代橋深川新地」)
この年は、10数年ぶりで深川富岡八幡宮の大祭が復活することになっていた。しかし、8月15日の祭りの予定が、悪天候続きで順延。
「いい加減誰もが待ちくたびれた18日夕刻、やっと明日の好天を約束する茜雲が、西空を彩っていた」(杉本苑子「風ぐるま」)
ただ、この橋は完成からすでに109年もの歳月が過ぎていた。その間応急の補修は何度かされたものの、本格的な改修はなされず、「犬一匹通っても危険」とさえ言われるような状況だった。
町役人たちもこぞって架け替えの嘆願書を幕府に提出したものの、幕府は「危険な橋は取り払って渡し船にすべし」との返事だった。
さて当日、祭礼の行列の時間が近づき、町民たちが橋を渡り八幡宮に向い始めた時、一橋家の姫君一行が祭り見物のため川を通り過ぎようとしていた。
「一橋家の方々の上を町民が土足で歩くのはいかがなものか」ということで、急遽、船の一行が通り過ぎるまで橋は通行止めとなった。
その間、次々と押し寄せる群衆で、橋の入口はあふれるほどになっていた。
ようやく御一行様の船が通り過ぎた。 さあ 八幡宮へ!
(歌川広重 「永代橋全図」)
一斉に人々が橋に殺到した。
そして、老朽化していた橋桁が、ひとたまりもなく崩壊していった。
「恐ろしい音響が起こった。地響き、ぐ風、うねり、人間の胸郭を押し上げる絶鳴・・・」
「橋杭の根元は泥深い。後からあとから落下してくる人体に、先に落ちた者は押しつぶされ、泥に埋まって窒息死したし、かろうじて泳ぎ出した者も八方から絡みつかれ、動きが取れなくなって共倒れに沈んだ」(風くるま)
死者、不明者合計800人以上、前代未聞の大惨事が起きてしまった。以後現在に至るまで、橋梁事故としてはわが国最大の惨事として記録されている。
「永代と 掛けたる橋は落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼」
太田蜀山人の詠んだ歌が 残されている。
この大量の死者を慰霊する供養塔は、深川の海福寺に造られた。だが、1910年に寺が目黒に移転したことから、供養塔も一緒に目黒に移されている。
詳しい説明板もあった。
そして碑の裏側には死者の名前がぎっしりと刻まれていた。
今の橋は関東大震災(1923年)の3年後、1926年に完成したもの。大震災後の復興事業のシンボルとして、清州橋とともに国の重要文化財に指定されている。
永代橋から下流を望むと、右に中央大橋、
左に隅田川から枝分かれした側に相生橋が見渡せる。
もう一度永代橋の夕景を目に焼き付けてから上流に進もう。
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