中央道は園原インター下車し目的の「ヘブンそのはら」に向かおうとしたが、花桃祭り盛り
に遭遇したため、月川を往復しこれを観賞した後、ゴンドラに乗って標高1400メートル
の山頂駅に運んでもらう。天空の楽園「ヘブンスそのはら」春はミズバショウ、夏はコマクサ
をはじめ75万本の花々が園内を彩り、秋には壮大な三段紅葉が観賞でき、冬はスキー限定さ
れいる。美しい思い出の花言葉をも水芭蕉の群生地がヘブンそのはらの園内に2、3あり、
写真を撮るが、所々にはまだ雪の塊が残っている。天気が良ければ南アルプスが一望出来る
のだけれどあいにくの曇天でもう1つ。
月川の「花桃の里」。赤白ピンクの三色に咲き分ける花桃は、電力会社社長であった福沢桃
介(福沢諭吉の娘婿)が、ドイツのミュンヘンで華麗に咲く三色の花桃を見かけ、その美し
さに魅せられ三本の苗を購入し帰国、大正11年、木曽の発電所庭に植えたのが始まりと言
う。ここは伊那谷と木曽谷を結ぶ国道256号線は「はなもも街道」と呼ばれ、薗原IC周辺の、
水引の里、天竜峡、伊那谷道中、阿智村(駒場、昼神温泉、月川温泉)、清内路を通り南木
曽町(富貴畑温泉、南木曽温泉、妻籠宿)までの街道沿いに数千本の花桃が植えられている
とこか。桃の木には、食用の「実モモ」と、花を楽しむ園芸用の品種の「ハナモモ」の2種
類ある。ハナモモにも実はなるが小さくて食べられない。「実モモ」の花はその名の通り桃
色(ピンク色)で桜や梅に似ているが、「ハナモモ」の花はより大きくて八重桜に似たもの
が多く、色は、桃色の他に白・赤などがある。もともと「ヘブンそのはら」の富士見台が目
的だったので、来てみてびっくり。本谷川沿岸道路(国道477号)を走らせその規模の大
きさをを観賞。そして、いつもながらの自動車の行列(工夫がいりますね)。
富士見台から中央道→長野道→松本インターチェンジをでて、そば処「ものぐさ」で昼食で
立ち寄るが、そこでは、写真(上/左)の山葵の北アルプスのわき水を使い栽培実験を行っ
ていた。山葵の栽培について過去に掲載してあるが(『メイチダイに山葵』)、その条件は
(1)養分の少ない培地を使用する、(2)栽培水流が毎秒15~20cm程度である、(3)12
℃~15℃程度の水温である(4)溶存酸素量が10ppm以上である(5)固有の四層の構造を
持つ培地で流水、方向を一定に維持した中で育成栽培するなどのであり、頭の中では試作準
備完了のつもりでいる。つまり、この滋賀の里山でも栽培・販売できるはずではあるが、こ
こでもそのような実験に挑戦中ということに感心する( 勿論、この店の「山かけ」と「天
ぷら」のそばは美味かった)。
宿泊先は、定宿のように足を運んでいる白骨温泉だ。 飛騨山脈(北アルプス)の、乗鞍岳、
十石岳、霞沢岳の麓に位置する山峡の温泉地であ、乳白色の湯として全国的に知られ、多く
の旅行雑誌などに取り上げられて、他の文人ともゆかりが有り、若山牧水はこの温泉を好ん
で訪れた。近くには上高地や乗鞍高原がある。温泉地の「白骨温泉の噴湯丘と球状石灰石」
は、1922年に国の天然記念物、1952年には国の特別天然記念物に指定されている。温泉宿
としては元禄年間に信濃の人・齋藤孫左衛門により開かれた。現在も齋藤姓の宿が多い。源
泉は、単純硫化水素泉。含硫黄-カルシウム・マグネシウム-炭酸水素塩泉(硫化水素型)胃
腸病、神経症、婦人病、慢性疲労などに効能があり、その昔「白骨の湯に三日入ると三年は
風邪をひかない」とも言われたがその真偽は定かではない。湧出時には透明な温泉が、時間
の経過によって白濁する。白濁の要因は、温泉水中に含まれている硫化水素から硫黄粒子が
析出すること及び重炭酸カルシウムが分解し炭酸カルシウムに変化することである。浴槽の
淵などには白い炭酸カルシウムの固形物が付着している。こうして、帰りは、中部縦貫道→
東海北陸道→名神を辿ったが、奥飛騨ということもあり、自動車音がまったくしない秘湯で
癖になりそう。^^;
僕の知っている限り、ビートルズの『イエスタデイ』に日本語の(それも関西弁の)
歌詞をつけた人間は、木像という男一人しかいない。彼は風呂に入るとよく大声でその
歌を歌った。
昨日は/あしたのおとといで
おとといのあしたや
始まりはそんな風だったと記憶しているが、なにしろずいぶん昔のことなので、本当
にそうだったかもうひとつ自信はない。しかしいずれにせよその歌詞は、最初から最後
までほとんど意味を持たない、ナンセンスというか、原詞とはまったく似ても似つかな
い代物だった。聴き慣れたメランコリックで美しいメロディーと、いくぶんお気楽な-
あるいは非パセティックなというべきか-関西弁の響きとが、大胆なまでに有益性を排
した奇妙なコンビネーションを、そこに作りあげていた。少なくとも僕の耳にはそう響
いた。僕はそれをただ笑い飛ばすこともできたし、そこに何かしらの隠された情報を読
み取ることもできた。でもそのときには、ただあきれてその歌を聴いていただけだった。
木樽は僕の間くかぎりほぽ完璧な関西弁をしゃべったが、生まれたのも育ったのも東
京都大田区田園調布だった。僕は生まれたのも育ったのも関西だが、ほぽ完璧な標準語
(東京の言葉)をしゃべった。そう考えてみれば、僕らはけっこう風変わりな組み合わ
せだったかもしれない。
彼と知り合ったのは、早稲田の正門近くの喫茶店でアルバイトをしているときだった。
僕はキッチンの中で働いていて、木棺はウェイターをしていた。暇な時間になると二人
でよくおしゃべりをした。僕らはどちらも二十歳で、誕生日も一週間しか違わなかった。
「木棺というのは珍しい名前だよね」と僕は言った。
「ああ、そやな、かなり珍しいやろ」と木棺は言った。
「ロッテに同じ名前のピッチャーがいた」
「ああ、あれな、うちとは関係ないねん。あんまりない名前やから、まあどっかでちょ
こっと繋がってるのかもしれんけどな」
そのとき僕は早稲田大学文学部の二年生だった。彼は浪人生で、早稲田の予備校に通
っていた。ただ浪人生活も二年目に入っていたにもかかわらず、受験勉強に精を出して
いるという印象はまったく受けなかった。暇があれば受験とはほとんど関係のない本ば
かり読んでいた。ジミ・ヘンドリックスの伝記とか、詰め将棋の本とか、『宇宙はどこ
から生まれたのか』とか。
大田区の自宅から通っているのだと彼は言った。
「自宅?」と僕は言った。「てっきり関西の出身だと思っていたけど」
「ちゃうちゃう。生まれも育ちも田園調布や」
僕はそれを聞いてずいぶん面食らってしまった。
「じゃあ、どうして関西弁をしゃべるんだよ?」と僕は尋ねた。
「後天的に学んだんや。一念発起して」
「後天的に学んだ?」
「つまり一生懸命勉強したんや。動詞やら、名詞やら、アクセントやらを覚えてな。英
語とかフランス語とかを習うのと原理的にはおんなじことや。関西まで何度か実習にも
行ったしな」
僕は感心してしまった。英語やらフランス語やらを学ぶのと同じように「後天的に」
関西弁を習得する人間がいるなんて、まったくの初耳だった。なるほど東京は広い街だ
と感心した。
なんだか『三四郎』みたいだけど。
「おれは子供の頃から熱狂的な阪神タイガースのファンでな、東京で阪神の試合があっ
たらよう見に行ってたんやけど、縦縞のユニフォーム着て外野の応援席に行っても、東
京弁しゃべってたら、みんなぜんぜん相手にしてくれへんねん。そのコミュニティーに
入れへんわけや。それで、こら関西弁習わなあかんわ思て、それこそ血の溶むような苦
労をして勉学に励んだわけや」
「それだけの動機で関西弁を身につけた?」と僕はあきれて尋ねた。
「そうや。それくらいおれにとっては、阪神タイガースがすべてやったんや。それ以来、
学校でも家でもいっさい関西弁しかしゃべらんことにしてる。寝言かて関西弁や」と木
樽は言った。
「どや、おれの関西弁はほぼ完璧やろ?」
「たしかに。関西の出身者としか思えない」と僕は言った。「ただそれは阪神間の関西
弁じゃないよね。大阪市内の、それもかなりディープな地域のしゃべり方だ」
「おお、ようわかっとるな。高校の夏休みに、大阪の天王寺区にしばらくホームステイ
しとったんや。おもろいとこやったぞ。動物園にも歩いていけたしな」
「ホームステイ」と僕は感心して言った。
「関西弁を身につけるのとおんなじくらい、受験勉強にも熱心に身を入れてたら、ニ浪
なんかしてへんのやろけどな」と木樽は言った。
たしかにそのとおりだろうと僕も思った。自分でぽけておいて、自分で突っ込みをい
れるところもいかにも関西だ。「で、おまえはどこの出身やねん?」
「神戸の近く」と僕は言った。
「神戸の近くて、どのへんや?」
「芦屋」と僕は言った。
「ええとこやないか。始めからちゃんとそう言うたらええやないか。ややこしい言い方
すんな」
僕は説明した。出身地を訊かれて、芦屋の出身だと言うと、どうしても裕福な家庭の
出身というイメージを持たれてしまう。しかし芦屋といってもピンからキリまである。
僕はとくに裕福な家の出身じゃない。父親は製薬会社に動めていて、母親は図書館の
司書をしている。家は小さいし、乗っている車はクリーム色のトヨタ・カローラだ。だ
から出身地を訊かれると、余計な先入観を持たれないために、いつも「神戸の近く」と
答えることにしている。
「なんや、それって、おれの場合とまったくおんなじやないか」と木樽は言った。「う
ちも住所から言うたら田園調布やけどな、うちがあるのははっきり言うて、田園調布で
もいちばんうらぶれた地域や。住んでる家かて、そらうらぶれたもんや。一回見に来い
や。これが田園調布? うそやろ、みたいなことになるから。けどな、そんなことこそ
こそ気にしてもしょうがないやないか。そんなもん、ただの住所に過ぎへん。そやから
おれの場合は、逆に頭からがんとぶちかますことにしてるねん。生まれも育ちも田園調
布やぞ、どや、みたいにな」
僕は感心した。そして僕らは友だちみたいになった。
村上春樹 著『イエスタデイ』/『文藝春秋』2014年1月号
疲れもピークに来ているらしい。集中力も欠け堪えている。あのころの運転とくらべてどう
だい? なに~っ、危なっかしぃってか!? それでも、代わりがないから墓場まで我慢す
るって? 申し訳ない!
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