極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

税金の世界史論②

2021年11月19日 | 環境工学システム論



彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救っ
たと伝えられる "招き猫と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え。
(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編
のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクタ。愛称「
こにゃん
」 


 神秘的だわ! 2021.11.19 19:40

1.フウトウカズラ 
2.センリョウ 
3.ヤマナラシ 
4.ドロノキ
5.ケショウヤナギ➲ヤナギ科ヤナギ属の樹木。中国、日本、韓国
及びロシアなどのアジア東部の寒冷地に多く、日本では、北海道の日
高・十勝地方と、長野県の梓川上流部に自生する。 ケショウヤナギの
名前の由来は、植物学者牧野富太郎による。春先になると白い粉を吹
き、まるで化粧をしているような姿をとらえて名付けられた。

  やわらかに 柳あをめる 北上の 岸辺に見ゆ 泣けとごとくに

                    石川啄木『一握の砂』




     

 
 
7.1 2030年までに、安価かつ信頼できる現代的エネルギーサービ
   スへの普遍的アクセスを確保する。
7.2 2030年までに、世界のエネルギーミックスにおける再生可能
   エネルギーの割合を大幅に拡大させる。
7.3 2030年までに、世界全体のエネルギー効率の改善率を倍増さ
   せる。
7.a 2030年までに、再生可能エネルギー、エネルギー効率、およ
   び先進的かつ環境負荷の低い化石燃料技術などのクリーンエネ
   ルギーの研究および技術へのアクセスを促進するための国際協
   力を強化し、エネルギー関連インフラとクリーンエネルギー技
   術への投資を促進する。
7.b 2030年までに、各々の支援プログラムに沿って開発途上国、
   特に後発開発途上国および小島嶼開発途上国、内陸開発途上国
   のすべての人々に現代的で持続可能なエネルギーサービスを供
   給できるよう、インフラ拡大と技術向上を行う。

【ポストエネルギー革命序論 371: アフターコロナ時代 181】
現代社会のリスク、エネルギー以外も「分散時代」

環境リスク本位制時代を切り拓く
環境リスク本位制時代を切り開く


温度差及び近似ゼロ温度発電モジュ-ル事業②



特開2021-163680 熱化学電池電極用導電性組成物 

【概要】熱化学電池は、熱源のある所において熱エネルギーによる化
学反応(酸化還元反応など)を利用して発電したり(非特許文献1)、
熱エネルギーによる化学反応を利用して発電(充電)した後に、熱源
がない場所で電池として使用できる(非特許文献2)。  前者は、半
永久的に連続で発電することが可能であり、後者も熱源(高温)と熱
源のない場所(低温)とに繰り返して配置・保持することで繰り返し
使用することが可能である。熱化学電池は、基本的に正極と負極ある
いは陽極と陰極の両電極とその間に存在する電解質とからなり、主に
二つの動作形態がある。一つ目は、両電極間に温度差がある場合に、
化学反応の速度差により電解質中にキャリア濃度差が生じ、電位差が
発生する形態である(1セルタイプと呼ばれる)。
後者は、電解質を分離材で仕切り、両電極を含めた全体を熱により温
めた場合に、分離材の左右の化学反応の違いにより発電(充電)し、
低温の場所では逆反応を起こし電位差が発生する形態である(これを
2セルタイプと呼ぶ)。いずれの場合も、電解質に接する電極界面で
イオンと電子との反応が必要であり、電極が必要となる。従来の熱化
学電池の電極としては、金属、特に触媒活性の大きい白金など貴金属
を使用したもの(非特許文献3)や、ポリ(3,4-エチレンジオキ
シチオフェン)?ポリ(スチレンスルホン酸) (以下、PEDOT/P
SSと略記することがある)などの導電性高分子を使用したもの(特
許文献1)が知られている。

WO-A1-2018/079325 THERMO-ELECTROCHEMICAL CELL  
【概説】熱エネルギーを直接電気エネルギーに変換するのが熱電であ
り、熱源があれば連続的に電気を得ることができる。一方、化学反応
を利用して電気エネルギーを生み出すのが電池であり、充電する場合
には電気を用いる。熱化学電池(Thermo-electrochemical cell)は、
熱源のあるところにおいて熱エネルギーによる化学反応を利用して発
電する(非特許文献1)。あるいは、熱エネルギーによる化学反応を
利用して発電(充電)した後に、熱源がない場所でも電池として使用
できる(非特許文献2)。前者は半永久的に連続発電でき、後者も熱
源(高温)と熱源のない場所(低温)とに繰り返して配置・保持する
ことで繰り返し使用可能である。熱化学電池は、基本的に正極と負極
の、あるいは陽極と陰極の両電極とその間に存在する電解質とからな
り、2つの動作形態がある。ひとつは、両電極間に温度差がある場合
に、化学反応の速度差により電解質中にキャリア濃度差が生じ電位差
を発生させる(1セルタイプと呼ぶ)。もうひとつは、電解質を分離
材でしきり、両電極を含めた全体を熱により暖めた場合に、分離材の
左右の化学反応の違いにより発電(充電)し、低温の場所では逆反応
を起こし電位差を発生させる(これを2セルタイプと呼ぶことにする)。
いずれに場合も、電解質に接する電極方面でイオンと電子との表面反
応が必要であり、電極の選択が必要となる。今までの熱化学電池の両
電極としては、金属、特に触媒活性の大きい白金等貴金属が多い(非
特許文献3)。上記耐久性向上のため脱溶媒処理されたフィルム状ポ
リカルボジイミドを、加熱して不融化しさらに炭化して作製した炭素
化フィルムと集電体を対電極の高温側に用いた熱電池が知られている
(特許文献1)。しかし他方の低温側は白金と集電体からなる電極で
あり製造工程は複雑で原価は高い。
両電極とも白金等の貴金属を使用しない、比較的安価で安全かつ軽量
な、熱エネルギーによる発電・充放電が可能な熱電池が存在しなかっ
た。熱電池の電極対に用いるPEDOT/PSS薄膜を新規に開発した。電池の
基本構成は、電極(PEDOT/PSS薄膜)に特別の集電体を有さないため、
陽極または陰極(PEDOT/PSS薄膜)、電解質(セパレータ・電解質)、
陰極または陽極(PEDOT/PSS薄膜)とシンプルになった。
                         この項つづく


 

⛨ アベノマスクとは何だったのか(後編)
▶via Wikipedia 及び 2021.10.19 朝日新聞デジタル 
□ 8千万枚の追加配布案
・2020年7月27日、朝日新聞は「介護施設や保育所など向けの布マスク
の発注と製造が続き、今後さらに約8千万枚を配る予定である」と報道。
菅義偉官房長官は28日午前の記者会見でこれを確認。
・2020年7月29日から30日にかけて、この8千万枚の配布について「厚
生労働省は配布を延期する方向で検討を始めた」と各マスコミが報道。
・2020年7月30日午後、朝日新聞は「布マスク8千万枚、追加配布を断
念。批判集中で厚労省」と報道。
調達元
・社会民主党の福島瑞穂党首が行った質問に対する厚生労働省の4月21
日回答によると、マスクの受注先は興和、伊藤忠商事、マツオカコー
ポレーションの3社と非公表の1社の「合計4社」とされ、契約額はそれ
ぞれ約54.8億円、約28.5億円、約7.6億円。
・立憲民主党の蓮舫副代表は「令和元年度予備費から今年3月に高齢者
施設等用に2000万枚を調達、その内、50万枚を妊婦さん用に配布。そ
の中にカビや不良品が混じっていて回収となりました」とツイートし、
受注企業については「興和、伊藤忠商事、マツオカコーポレーション
にもう一社の4社が受注したと言いますが、厚労省はこの1社の社名を
明らかにしません」と記した。非公表の1社について野党は、アベノマ
スクの調達は公共調達であり公表する義務があるとして残りの1社の
公表を厚労省に強く求めたが、担当者はかたくなに拒んでおり疑念が
広がる。
・4月27日になって福島は、厚労省から「非公表であった1社は株式会
社ユースビオである」と記載された文書が届いたことを自身のSNSで公
表し、官房長官の菅義偉も同日の会見で、非公表であった1社が福島
市にあるユースビオという会社であることを公表した。菅は妊婦向け
布マスク受注業者4社に加え、介護向けとしてマスク製造業者の横井定
もマスクを受注しており、介護向け納入事業者が合計5社だったこと
を明らかに。
・4月28日に、大串博志議員は3月に契約を結んだ段階でのユースビオ
の法人登記簿に「マスクの生産・輸出入」については明記されていな
い、と指摘し、加藤勝信厚労相は「輸出入に関しては、その会社が担
っていると聞いている」と答弁し、「(その会社とは)シマトレーデ
ィングという会社であって、ユースビオはマスクの布の調達、納期時
期などの調整、シマトレーディングは生産・輸出入の担当をしていた
と聞いています」として、新たに「シマトレーディング」という会社
が関わっていることが明らかに。



□ アベノマスク1枚の値段は
2020年9月28日、神戸学院大の上脇博之教授は、国に情報開示などを
求めて大阪地裁に提訴した。上脇氏は記者会見で「政策の妥当性を議
論するために国は情報を開示する必要がある」と主張。原告側は、一
部黒塗りで開示された文書に「マスクの単価が税込み143円」との記
載があったと明らかにした。原告側は、国側が黒塗りをし忘れた可能
性があるとみている。訴状によると、上脇氏は4~5月に布マスク配布
の決定や業者との契約に関する文書を国に情報公開請求したが、国は
今後の価格交渉に支障を来す恐れがあることや、業者の調達ノウハウ
に関する情報であることを理由に、発注した枚数や単価を黒塗りにし
た。上脇氏は「マスクの調達は特異な業務とはいえず、独自の技術的
ノウハウに基づくものでもない」として開示を求めている。有識者で
つくる民間臨時調査会が昨年10月にまとめた政府の新型コロナウイル
ス対応についての報告書は「(マスク値崩れの)効果をある程度持っ
たことも確か」と評価しつつ、「総理室の一部が突っ走った。あれは
失敗」という官邸スタッフの証言を引用。「政策意図が国民に十分に
伝わっていたとは言い難い」と総括している。 (2021.4.18 時事ドッ
トコム)
                          この項了

【ウイルス解体新書 88】
⛨ 最新新型コロナウイルス



序 章 ウイルスとは何か
第1章 ウイルス現象学
第2章 COVID-19パンデミックとは何だったのか
終 章 ウイルス感染症と戦略『後手の先』


暗号資産(仮想通貨)とは何か
A:「暗号資産(仮想通貨)」とは、インターネット上でやりとりで
きる財産的価値であり、「資金決済に関する法律」において、次の性
質をもつものと定義されている。

1.不特定の者に対して、代金の支払い等に使用でき、かつ、法定通
 貨(日本円や米国ドル等)と相互に交換できる
2.電子的に記録され、移転できる
3.法定通貨または法定通貨建ての資産(プリペイドカード等)では
 ない

代表的な暗号資産には、ビットコインやイーサリアムなどがある。
暗号資産は、銀行等の第三者を介することなく、財産的価値をやり取
りすることが可能な仕組みとして、高い注目を集めた。一般に、暗号
資産は、「交換所」や「取引所」と呼ばれる事業者(暗号資産交換業
者)から入手・換金することができます。暗号資産交換業は、金融庁・
財務局の登録を受けた事業者のみが行うことができる。暗号資産は、
国家やその中央銀行によって発行された、法定通貨ではない。また、
裏付け資産を持っていないことなどから、利用者の需給関係などのさ
まざまな要因によって、暗号資産の価格が大きく変動する傾向にある
点には注意が必要。 また、暗号資産に関する詐欺などの事例も数多
く報告されている、注意が必要。詳しくは、金融庁・消費者庁・警察
庁による「暗号資産に関するトラブルにご注意ください!」をご覧く
ださい(「参考」リンク)。


  【税金の世界史論 ②】

第2章 とんでもない状況からとんでもない解決策

            世知辛いこの世では、金を使おうと思えば、
                   まず稼がなければならない。
             ジョン・ジェイムズ・カウパスウェイト
                         香港財務長官
                     (往任期間1961~1971年)

ここからは、まったく異なる話をしよう。
香港は、かつては将来性があるようには見えなかった。そこにあるの
は、南シナ海に流れこむ珠江の河口の岩場の多い島々と、一握りの孤
立した岩々くらいのものだった。利用価値はほとんどなかった。
鉱物も石油も出ない。地面に岩がごろごろしており、農耕向きの土地
ではなかった。だが、比較的大きな島の1つと大陸に挟まれた海は水
深が深く、こういう欠点を袖っていた。それは広々とした天然の良港
だった。
十六世紀、ポルトガルの探検家たちはこの地に交易場を築き、中国と
取引を行なったが、明朝が孤立主義をとったため、往来がなくなった。
十八世紀になって、イギリスの商人たちがこの海域の島々を再発見し
た。十九世紀のアヘン戦争でイギリスに占領された香港は、第二次世
界大戦までイギリス領でありつづけた。

香港という地名については、かつて沿岸部に香料工場が軒を連ねてい
たことに由来すると考えられている。イギリス政府にとって、香港は
戦略的に重要な交易基地であったが、第二次世界大戦が始まると、防
衛は困難であると見なされた。「防御の見込みの薄い陣地のために資
源を費やすことは避けねばならない」とチャーチルが記している。19
41年に日本車が侵攻してくると(守戦布告はなかった)、香港はすぐ
に陥落した。ほぼ4年のあいだ車政ドに置かれた香港は、飢えと欠乏
に苫しめられた。
フランクリン・ギムソンは日本車侵攻の入口前に香港の植民地長官に
就任していた。そして、終戦まで目本の捕虜収容所に収容されていた。
1949年、日本の降伏を耳にするやいなや収容所から出所し、香港総督
代理・就任を宣5‥した。そして、たったト数日で行政局を立ち上げ
た。中国とアメリカがなんらかの手を打つ前に、すばやく、有無を言
わさぬ行動をとったことが、香港のその後の運命に計り知れない服飾
を及ぼすことになる。杏港はイギリス領に復帰した。

 Wikipedia
Sr. John James Cowperthwaite 

戦後、イギリスは植民地の多くを独立させたが、香港に関しては、中
国に併合されることを恐れ、統治権を手放そうとしなかった。香港の
経済を立て直すため、本国から役人の一団が送りこまれた。そのなか
に、物静かで、意志堅固で、たいへん高潔な人物がいた。名前をジョ
ン・ジェイムズ・カウパスウェイトといった。
カウパスウェイトはエディンバラ大学とケンブリッジ大学で古典を学
んでいたが、そのうえにセント・アンドルーズ大学で経済学の研究に
動しみ、啓蒙主義、ことにアダム・スミスの思想について深い知識を
持っていた。1951年に香港の財務副長官に抜擢されたのち、1961年に
財務長官に就任した。カウパスウェイトの伝記作家のニール・モネリ
ーによれば、「約二五年間、披は香港の経済政策の決定に中心的な役
割を担っていた」。この期間に香港経済は、世界でもそれほど例のな
いほどの飛躍的成長を遂げることになる。  

それを可能にしたのは税制だった。
カウパスウェイトら役人の一団が香港にやってきたのは、1945年の末
ごろのことだった。彼らの第一の任務は産業の復興だった。総督によ
り、香港は自由港であることが宣言された。一部の商品を除き、輸入
品に対する開税なし、輸出奨励金なし、輸入制限もほぼなしとされた。
輸出入が再開されると、戦時中によそへ避難していた人びとの多くが
帰還しはしめた。貿易はすぐに盛況となった。景気が回復しつつある
ことは、カウパスウェイトにもはっきりと見てとれた。
カウパスウェイトは抜け目のない男だった。街を歩き、工場や港に立
ち寄っては人びとの働きぶりに目を光らせた。そうして見れば見るほ
ど、いっそうの発展を目にすることになった。役人たちは何もする必
要がなかった。香港に経済計画は必要ない、とカウパスウェイトは結
論した。枠組みさえ整えておけば、ひとりでに成長するのだ。この植
民地の人も、会社も骨折りを厭わずに働いてくれる。アダム・スミス
の心酔者であり(『国富論』を枕元に置いて寝ていたといわれる)、
古典的なりベラルであった彼にしてみれば、そう判断するのももっと
もなことだった。
カウパスウェイトの第二の任務は、香港に必要な物資を供給する部局
の運営だった。食料と燃料の購入、販売および供給と、物価の統制を
受けもつ組織を率いるのである。この部局には問題が山積していた。
モネリーによれば、「役人たちが貿易業を営むのに四苦八苦するよう
すを目にしたことで、彼はだんだんとある考えを持つようになった」。
カウパスウェイトは役人を軽んじるようになった。「商売に開する判
断は、自らリスクをとる者のそれのみを信頼する」と彼は述べている。
「政府が事業に乗りだすと、他者から見れば不経済であるやり方をし
がちである」
彼は、のちに「積極的不干渉」と名づける一つの理論を構築しはじめ
ていた。彼の考えによれば、開放経済に対する政府のド渉は、たいて
いは利益よりもむしろ申‥になった。デフォルト・ポジションに対し
ては、慎重に検討して十分な根拠があると結論した場合を除き、干渉
するべきではなかった。「不器用なお役人の手」を経済の「繊細なメ
カニズム」に近づけてはならない、と彼は述べた。「隠れた[hidden
hand]」に任せるほうがよいのだ。「実業家たちおよび産袁資本家た
ちによってなされる、多種多様な個人的判断は……政府によってなさ
れる単一の判断、あるいは、無故にある関連要素について、必然的に
限られた知識しか持っていない、融通のきかない理牡瓦バによって
なされる単一の判断にくらべ、結果的により適切で、より賢明である」
香港の税政策は、同時期のイギリスのそれとは正反対だった。イギリ
ス----それに、欧米の大半の国は、市税を諜すとともに、政府支出と
財政赤字を増やし、産業振興と経済介入をさかんにしたが、香港はそ
れとは異なる方法をとった。住民の大半----「富裕層を除く全住民」
----が所得税を納めていなかった。高所得者にしても、所得税率はた
った15%たった。関税も消費税もなく、利息にも海外所得にも税金
がかからなかった。だが、地価税はあった。香港では、租税負担率の
対GDP比が14%を上回ることはなかった。

干渉や変更は最小にすべきとされた。原則として、「租税は長期にわ
たって恒常的に取り立てるべきである(ただし、負担が道人になった
り、公平を矢いたりする場合は除く)」のだった。同時に、取り立て
は過度に積極的であってはならなかった。カウパスウェイトいわく、
「総所得税に必然的に付随する、糾問するように徴収する手法をなく
せば、とりわけ、地元の’、また海外からの投資活動および事業経営
に関して、われわれの経済には利益となる」。
欧米諸国は、ケインズ理論にしたがい、財政赤字の拡大によって景気
の押し上げをはかったが、その一方、借入もまたご法度たった----「
政府債務がかさめば……その後の税負担の引き上げは確実となる」と
カウパスウェイトは述べた。「われわれには資本負担を未来の世代に
受け渡す権利があるという理論について、私は懐疑的である……。わ
れわれの過去の世代は、彼らの負担の多くの部分をわれわれに受け渡
すということがなかった」
産業計画も、助成金も、経済介入も不要だった。「実をいえば私は、
主要な産業資本家、すなわち特権ある産業資本家のために公的資金を
投じることを提案されれば、不快感を覚える。もっと具体的にいえば、
それがものごとの良し悪しに対する官僚的見解にもとづく提案であれ
ば、ということだ」と、彼は立法会での予算審議のときに述べている。
「私は、過去、現在、未来の十分な知識をもって『開発優先事項』を
確立することは、どのような人間にも不可能だと考えている……。産
業は、通常の市場環境へひとりでに立ち上がり、特別な手助けがなく
すくすくと育つことが望ましいのではないだろうか」

お役所的な手続きは簡素化され、新規事業の立ち上げには書類を一枚
提出するだけでよくなった。税法典そのものも簡潔なものだった。今
日に全っても、国際法に精通する弁護士だちから、世界でもっとも効
率のいい税法典であるという意見がたびたび上がっている。香港の税
法典は全体で300ページ弱、15万語足らずであおり、イギリスのそ
れの1・5%程度のボリュームしかないのだ。
一方、通貨はイギリスポンドに円定されたため〔ポンドベッグ制〕]、
インフレ税賦課の可能性は(少なくとも、香港政府によるものは)ま
ったくなかツった。1963、経済学者のミルトン・フリードマンはポ-
ソベスクエイトはそれを断った。ポンドペッグ制のメカニズムについ
の説明を求めが、カンパスウェイトはそれを断った。ポンドペッグ制
を管理する香港上海銀行(HSBC)でさえ、その仕組みを理解していな
かった。「そのほうがいいだろう、めちゃくちゃにされかねないから
ね」と彼はいった。実際、そのとおりだった。彼の退任後、香港政府
は連動制を打ち切り、財政に関してHSBCにより大きな決定権を与えた。
1992年、香港ドルは通貨危機におちいり、一時
はたった2日間で13
%下落するというありさまだった。急落を食いとめるため、香港ドル
はアメリカドルに固定するドルペッグ詞への移行を余儀なくされた。
それから、資本規制も不要だった。「金がここにいつくのは、好きな
ときに出ていく自由があるからだ」とカウパスウェイトはいったぃ「
規詞でがんじがらめにすれば、出ていってしまうだろう。われわれに
止めることはできない。金はもうここに来なくなる」

香港は、まぎれもなく民主的であるとはいえなかった。ここはイギリ
スの植民地だった。総計はイギリス上院の助言を受ける立場にあって
香港の法律の制定および執行に幅広い権能を持っていた。扱い扱いを
誤れば、この制度はたやすく腐敗におちいった。しかし、官僚たち(
多くはカウパスウェイトと同じ考えだった)は香港住民の利益を最後
先にすることを義務とこころえていた。カウパスウェイトもこう語っ
ている。「諮問を重んじる政府を求めるならば、その対価として複雑
さが増し、判断に遅れが生じることになる。迅速さを垂んじる政府を
求めるならば、ある程度の権威主義を受け入れてもらわねばならない。
思うに、住民のほとんどは後背を求める、というのが本当のところで
はないだろうか。つまり、少なくとも政府の判断が彼らの意見と一致
するかぎりにおいては」

カウバスウェイトが大きな大きな成果を挙げられたのは、香港が特殊
な状況に置かれていたためであった。丙建を必要としていたこと、政
策立案にケインズ理論を重んじる社会から遠く離れていたこと、どこ
の誰に対しても釈明責任を負っていなかったこと。概して、イギリス
は香港を放任していた。たまに口出しすることがあっても、たいてい
はきっぱりと拒否された。イギリス同時相のデニス・ヒーリーがこう
語っている。「かの難敵、財務長官どのと対決するたび、私は傷つき、
退却した」。香港立法会での演説の記録からもわかるとおり、カウパ
スウェイトは手ごわい議論家たった。
彼一人の手柄ではなかった。歴代の財務長官たちによってつくられた
枠組みがあったからこそ、それを土台にしていくつもの成果を挙げる
ことができたのだ。そのあとを引き継いだのがフイリップ・ハッドン
=ケイヴたった。歴代の財務長官たちはみなレッセフェールを信奉し
ており、総督から支持されてもいた。だが、立役者になったのはカウ
パスウェイトだった。イギリスと香港とでまったく異なった税政策は、
それぞれの国の経済に劇的な影響をおよぼした。だが、当時の香港の
成功を数字であらわすことは難しい。というのも、カウパスウェイト
統計をとらないことを方針にしていた。数量を訓告するとなれば、
役人が経済に手を加えるとか、無用の改菜をはかるなどといったこと
につながり、市場の見えざる手の作用を妨げてしまう、と彼は信じて
いた(彼はしばしばアダム・スミスに言及した)。「統計用のデータ
を巣計させれば、彼らはそれを計画立案に利用したがるだろう」と、
彼はフリードマンに説明している。香港の内外から何度要請されても、
彼は統計作成を拒否しつづけた。
イギリスからやってきた役人たちに、失業者に関するデータを集計し
ないわけをおしえてやると、カウパスウェイトはただちに彼らを飛行
機に乗せ、本国に送り返した。香港法会からGDPの算出を懇願され
れば、いつもこう返事していた。

 進歩の咎しい文明国で算出される場合でさえ、こういう数値は不
 正確なものだ。たいして意味がない。私の考えでは、他国がそう
 いうものを利川している事実は、われわれにもそれが必要である
 ことの相応な理由にはならない。香港で、GDPが実用的な目的
 にかなうものなのか、私にはいま一つわからない…….。.他国
 でそれが必要になったのは、政府が国民に市税を課しているため、
 また細かく経済介入を行なっているために、政策効果を判断でき
 るよう(あるいは、その判断が可能であると思えるよう)、ぜひ
 とも必要であるからだ……。喜ばしくも、ここの政府は経済に対
 する影響力がごく小さいので、政策の策定のためにこういうもの
 を利用する必要はない。実のところ、そうすることにたいした価
 値はないのだ。

後日、貧困国はどうすれば経済を上向かせられるかとカウパスウェイ
トは問われた。すると、ただちにこう答えた。「政府の統計局をなく
すことだ」
1962年、GDPなどの統計データを提供するよう強く要求された披は、
それに必要な調査を一人の大学教授に依頼した。そうして、情報収集
の実行可能性について検討しはしめたことを宣言した。それから七年
間、彼はその哀れな教授の作成した報告書の下書きを本国に提出しつ
づけた。それらのどれも、これからの明確化、検証、あるいは据り下
げが必要なしろものだった。1969年になってもデータは用意されず、
カウパスウェイトは、収集した情報を集計する適切な方法について、
当の教授か決断しきれずにいるなどと説明した。不連なその学者先生
はスケープゴートにされたのだった。
しかし、現在このことはよくわかっている。

1945年、戦争と日本占領期ののち、香港は貧窮しきっていた。多くの
住民は飢えていた。戦前に百万を超えていた人口は60万に減ってい
た。それでも、ひと世代と少しの期間を経たのち、たいした資源を持
たないこの小さな植民地は、ひっきりなしに商船が出入りする世界屈
指の貿易港になるとともに、製造業と金融業でも国際的な存在感を高
めていた。人口の10倍以上に増えていた。1950年代になっても、中
国本土で続いていた内戦を避けるために大勢の難民が逃げこんできて
いたため、香港は貧民街とたいして変わらなかった。1955年にここを
訪れたときのことについて、フリードマンはこう記している。「政府
が急濾用意した難民用の仮住まいは、ワンルームの部屋からなる高層
集合住宅で、正面に出入口がついていた。一部屋に一家族が住んでい
た」。今日の香港は先進的な都市国家である。

香港はとんでもない勢いで豊かになっていった。1940
年代の一人当た
りGDPは、もちろん公的記録はないのだが、300米ドルを下回っていた
と思われる。これは、アフリカのほとんどの国や地域と同じくらいだ
った。1960年にはそれが429ルになっていたが(カウパスウェイトでは
なく、OECDの調査による)、同じ年のイギリスは1380ドル、アメリカ
は3,007ドルだった。そして終戦から33年後、香港の一人当たりGDP
はイギリスのそれを上回った。さらに50年後、アメリカのそれをも
超えた。今日の香港は、世界でもっとも裕福な国ランキングの10位
以内に入っている。一人当たりGDPをイギリスと比較すれば、香港の数
字のほうが40
%大きい。
この期間、国民の税負担はずっと低いままだったし、政府支出も最低
限に抑えられていた。1946年以降の財政収支は、ある年度を除き、黒
字続きたった。たいていどの年も、年間支出と同じ金額を予備費に回
しつつ、借入をいっさい行なわなかった。「香港経済は現行の税制の
ままで活性化するはずだと信じてきた払でさえ、現行の税率で税収が
これほど増加したことには驚いている」とカウパスウェイトは述べて
いる。今日では、財務長打の斤測をくつがえすほどの黒字を計上する
ことが毎年恒例の行事のようになっている。香港は、2015年まで8年
連続の黒字を記録したのち、2018年にふたたび黒字化を達成した。毎
年、アメリカの吋都ワシントンを拠点にする経済シンクタンクのヘリ
テージ財団が、世界186カ国の経済自由度指数を作成している。それは、
各国の国民の労働と財産が、彼ら自身によってどれだけ管理できてい
るかを訓告し、経済自由度を判定するものである。判定には「12の
量的・質的ファクター」を指標として使用する。ヘリテージ財団がこ
の指数の発表を開始した1995年以降、香港は一位の座を譲っていない
----世界のどの国よりも経済自由度の高い場所でありつづけている。
供給面でも、香港はさまざまに健闘している。教育制度は、ピアソン
によれば世界で四番目に優れており、医療制度も、ブルームバーグヘ
ルスケア指数において一位となっている。公共輸送機関は、昨年度に
世界ランキングの一位に輝き、継続して他の国や地域のモデルになっ
ている。「定刻成功率」はつねに99.9%を達成し、人朽ちの94%が鉄
道駅から1キロメートル以内に居住している。また香港の鉄道は、利
益の大きさでも世界屈指なのである。

レッセフェールの経済政策は無情・無慈悲であるなどという印象を持
たれがちだが、カウパスウェイトは自分の方針がすべての人の利益に
なることを信しきり、断固として譲らなかった。税とは押し付けであ
り、成長の妨げであった。好い税負担は、大きな利益をもたらした。
大きな利益は、さらなる成長をもたらした。さらなる成長は、雇用の
増加、賃金の上昇、全体の富をもたらした。「私は、富の分配よりも
むしろ、富の創造に関心をもっている」と彼は述べている。「急速な
経済成長と、それにともなう労働需要圧力は、迅速かつ相当に大規模
な所得心分配を自然に生じさせる」つまり、経済のな手に任せておけ
ば、再分配はひとりでに進むのである。しかし、カウパスウェイトに
とってはここに重要なポイントがあった。「これは、一時的な、ある
いは恒久的な不運のせいで全体の富の増大の分け前にあずかれない人
びとを、もっと気前よく支援できるようにするやり方でもある」カウ
パスウェイトは最下層民の利益を垂んじており、高度経済成長のおか
けで、政府はそういう人びとにいっそうの支援を届けられるようにな
った。彼によれば、「税負担を抑える政策のおかけで……政府収入が
増えた」。香港の実際の経済成長が彼の主張を裏づけている。最終的
には、「市民の手元に残った資金は政府に入ることになる」とカウパ
スウェイトは語っている。「利息つきでね。」

香港はさまざまな苦難に直面したが、危機に見舞われたときの政府の
基本姿勢は、介入ではなく「積極的不介入」であることがほとんどだ
った----公共住宅の問題を除いて。1950年、中国の輸出入を担う香港
の役割から、この植民地の主要産業が生まれた倉庫業、海運業、造船
業、保険業などである。朝鮮戦争が始まり、アメリカが中国への制裁
を決定すると、それからの四年間に、香港の中国との貿易は約90

減少した。香港はそこで停滞していても不思議はなかったが、そうは
ならなかった。内戦中の中国から流れこむ難民たちが綿紡績の技能を
持ちこんだことで、やがて香港は国際織物市場で優位に立つほどにな
った。だからイギリスとアメリカは、それぞれの国内の織物産業を保
護するため、思いきった保護貿易政策に踏みきった。香港の企業は、
香港産の綿に対する厳しい輸入制限に対応し、合繊織物を増産した。
ここからその他の製造業が派生していった。とくに電子機器とプラス
チック製品である。1967年のポンド切りドげによって外貨準備に3000
万ポンドの損失が生じてしまったが、香港はこのときも冷静に対処し
た。その後、毛沢東の文化大革命の大激震も、1997年のアジア危機も
うまく乗り越えてきた。1997年に中国に返還された香港は、政府もそ
の政策も事実上中国本土に統合されると予測されて小平は1984年に行
なった有名な演説のなかでいた。だが、実際にはその逆だった。アジ
アの他の国々は香港の成功に目を留め、その手法をまねた。
1959年、シンガポール初代首相に就任したリ・クアンユーは香港のよ
うに低い税負担と経済不介入を政策とし、同じように成功した。韓国、
台湾、それにある程度までは日本も、低い税負担・高い輸出額のモデ
ルを採用し、経済を大きく成長させている。中国自体も同じような手
法を取るようになる。
1976年に毛沢東主席が世を去ると、香港やシンガポールの驚くべき成
長を目の当たりにしてきた中国改革派の人びとは、カウパスウェイト
のモデルは本土でも機能するのではないかと考えた。1980年、深圳は
税制および規制の緩やかな「経済特区」に指定された。人口は当時3
万人だったが、現在1300万人に増えている。さらに、立身出世を目指
す人びとが、まだ大勢流れこんでいる。一時期40%という驚異的な
成長率を記録したこの都市は、いまや第二の香港になっている。
中国は、全人代(全国人民代表大会)によって制定された法律にある
ように、「社会主義の利益になる適切な資本主義」を求めていた。「
生産力の発展に、われわれは十分に目を向けてこなかった」と、鄧小
平は1984年に行った有名な演説のなかで語っている。「中国らしい社
会主義を構築しよう」。小さな島々からなる香港が成し遂げたことを
思えば中国はどれだけの成果を得られるだろう? 今日の中国は、独
自の権威主義的資本主義を掲げ、世界二位の経済大国になっている。
購買力平価説にしたがえば、おさらく世界一だろう。
香港はたしかに特殊な時代の特殊な状況に置かれていたが、その政府
が方針とした低い税負担と積極的不介入は、アジアの奇跡的な経済成
長の源になった。カウパスウェイトの功績は、彼がしたことよりも、
むしろしなかったことのほうにある。「私はほとんど何もしなかった」
と、彼はいかにも彼らしく謙虚に語っている。「ただ、余計なことを
しでかしかねない要素のいくつかを排除しただけである」

                         この項つづく


【参考推薦本:間宮陽介「市場社会の思想史」中央公論】
 松岡正剛の千夜千冊
アダム・スミスの「見えざる手」。
リカードからマルクスに及んだ階級の経済学。
ロマン主義によるリストの国民経済学。
メンガーやジェヴォンズの数理に変じた経済人間像。
異能ヴェブレンや異才ポランニーの経済社会批判。
18世紀の理性から解き放たれた経済学は、
ケインズに向かい、ケインズから離れ、
あげくのはてで、なぜにまた、
マネタリズムに向かっていったのか。
かの市場原理主義が生まれてきた背景を
今夜から数夜にわたってスケッチしてみたい


分業によってさまざまな職種と技能が一人ずつの社会的可能性と照応
し、個人一人一人の功利の意図が市場にはたらいていきさえすれば、
そこに神かとおぼしい「見えざる手」(invisible hand)が動いて、
きっと“大きな社会”が生まれていくはずだというのだ。
この“大きな社会”とは「市場社会」のことである。これは言ってみ
れば、一人一人の「たまたま」が大きな必然に転化するということで
あり、その調整と合理を司っているのが市場だということになる。

スミスが発見したのは、一言でいえば「自己利益が社会利益に転化す
る」という法則である。そこに見えてきたのは「自然的自由の制度と
しての市場社会」というものだ。自然的自由というのは”自然権とし
ての自由”のことをいう。この見方はのちのちの社会経済思想にとっ
て、すこぶる重要な分岐点になる。
               中 略
ホッブズは、自然権としての自由が帰結するのは戦争状態にほかなら
ず、その戦争状態を克服するために統治契約というものがあるとみな
していた。統治契約があれば、その後の自由が臣民にもたらされる。
そう、考えていた。ホッブズは、自由は大事だが無制限の自由は社会
を戦争状態(あるいは無政府状態)にするから、それを契約によって
制限することが真の自由だと考えたのである。
スミスはこれに反対だった。契約は契約参加者を拘束するのみで、後
世の社会を拘束する理由を与えないというのだ。そんな中途半端な契
約で人民を縛るべきじゃない。これは、主権者(国家・政府・権力)
が私人の経済活動に介入することの愚かさを説いたものでもあって、
だからスミスは、主権者は防衛・司法行政・限定的公共事業だけをし
ていればいいとも喝破していた。この見方は、すぐに見当がつくよう
に、まさに今日の「小さな政府」論につながっていく。
ともかくもこうしてホッブズとスミスの分岐点は、このあとえんえん
今日にいたるまで、経済社会思想の最も基本的な対立点になったので
ある。
                        この項つづく

風蕭々と碧い時代

曲名:    SMILE〜晴れ渡る空のように〜
作詞&作曲: 桑田佳祐





「SMILE~晴れ渡る空のように~」(スマイル はれわたるそらのよう
に)は、桑田佳祐の楽曲。1作目の配信シングルとして、タイシタレー
ベル / SPEEDSTAR RECORDSから2021年7月12日に配信。 日本テレビ系
列・テレビ朝日系列・TBS系列・テレビ東京系列・フジテレビ系列の民
放5系列による2020年東京オリンピック共同企画「一緒にやろう2020」
の企画が始まり、プロジェクトチームがテーマソングのアーティスト
を決める際に「桑田さんしかいない」という意見が多数上がり、起用
が決定。この内容は2019年7月24日にメディアを通して発表された。
2020年1月1日に朝日新聞、読売新聞、産経新聞の朝刊全面広告に桑田
のメッセージと共に楽曲の歌詞が掲載され、同時に特設サイトも開設
された。しかし、楽曲のタイトルはまだ未定のままであった。1月24日
に民放5局列で同時に「一緒にやろう2020 大発表スペシャル」が放送
され、桑田も番組に出演し、楽曲のタイトルと音源が初公開となった。
同日19時から24時までの間には番組で放送された映像がYahoo! JAPAN
にて公開され、24時以降はYouTubeでも公開。 公開の直後から新型コ
ロナウイルス感染症(COVID-19)の流行が徐々に深刻化し、同年の春
にオリンピックの一年延期が発表されたことでリリースのタイミング
が一度失われることとなったが、メッセージ性のある歌詞や既にYou
Tubeで配信されていた影響により本楽曲の人気は高まる。 2021年9月
15日にミニ・アルバム『ごはん味噌汁海苔お漬物卵焼き feat. 梅干し
』が発売されることに合わせて、同年7月12日に先行配信として発売さ
れることが発表された。桑田佳祐名義で新曲が発売されるのは2017年
8月に発売されたアルバム『がらくた』以来である

● 今夜の寸評:沸騰する欲望と対峙する知恵


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