芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

文春2月号のまだ読んでいない書評欄を読んだ

2014年04月14日 | Weblog

試験問題も作り終わり、久しぶりで本を読む時間ができたので、斎藤兄に送って頂いた文春2月号のまだ読んでいない書評欄を読んだ。この欄には相当ページがさかれていて、日本を離れている者には、参考になった。田中慎弥『燃える家』に興味が惹かれたが、山内昌之、片山杜秀、浜矩子の鼎談書評の薦めるユージン・ローガン、白洲英子訳『アラブ500年史』(上下)にも興味が湧いた。というのは、この鼎談でも話し合われているが、アラブについて、日本では、西欧史を通した見方が今まで一般的で、私の世代もアラブからインドにかけての歴史を学ぶときには、どうしても英国植民地主義の支配下にあった、キリスト教の布教者によって書かれたものが良くできていて、私も学生時代はそれを読んでいたのだが、この本はそのような西欧史観をできるだけ排しているというからだ。

しかし、日本の政治は、相変わらず欧米元植民地主義国家の後塵を拝するだけで、イラークにしろ、アフガーニスターンにしろ、米国の軍事的経済的な世界戦略に組み込まれたままである。マスコミは、政府のちょうちん持ちに過ぎず、米国の他国侵略を隠す宣伝をそのまま垂れ流している。これについては、私が寂聴尼を担いで、イラークに行ってきたときに報告の形で作った本『寂聴イラークを行く』に少し述べている。

また、最近のブッシュ息子のイラーク攻撃に小泉政権が協力という名目で服従して参戦したのに対して、レバノン大使だった天木直人外交官が職をなげうって反対したのが耳新しい。

日本のイスラーム社会の研究は、戦前から遅れていて、無知なまま、中国、インド、マレーシア、インドネシア方面に戦争を仕掛けていったのは、富国と強兵を唱えながら、富を知識獲得に回さず、目くら蛇におじず、常識外れの世界戦に踏み込んでいった。この文春では、「代表的日本人の新選・百人一首」というので、南原繁の「人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦ふ」の歌を取り上げているのが、ピッタリで可笑しい。

いずれにしろ、西欧史観に基づく研究は層が厚く、それを元にせざるを得ないが、日本の政府がどれだけ日本独自に研究できる素地を今作っているか心もとない。