"2019年5月18日(土)、曇天☁️
中山道歩き、前回の続きの岐阜駅からスタート。
中山道歩き、前回の続きの岐阜駅からスタート。
まずは、観光案内所に立ち寄る。
先日、岐阜市が歴史探訪マップをつくった、という情報を得たので、入手するために立ち寄ったのです。
「信長の道」「道三の道」「戦国の道」の3部で、それぞれ4000部配布するというので、急いでやってきたが、
なんと、「信長の道」はすでに無し!
なので、2つだけもらった。
うーん、残念無念!
と、言ったら、
『岐阜城にまだ少し残ってると思います』
と、案内所の女性が教えてくれたが、
実は、一番欲しかったのが「道三の道」。
司馬遼太郎氏の『国盗り物語』を読んで、斎藤道三に関する史跡を巡ってみたいと思ってたので、このマップは助かる。
悔しい顔をしつつ、道三の道と戦国の道をもらいました(笑)
「道三の道」歩きは、もらったマップと自分で調べた内容を加味して、後日、秋ごろにでも歩きたいと思います。
この後、中山道歩き。
詳細は、後日アップする予定。
例によって今回も寄り道多し。
寄り道した城跡をちょこっと紹介。
岐阜駅の南側は、『加納宿』で、
街道の南につくられたのが「加納城」
何年か前に立ち寄ってるので再訪になるが、見落としもあるので
まずは、加納城へ向かいました。
1445年、美濃守護の土岐氏の家臣で守護代の斎藤利永が、沓井城を築いた。
これが、加納城の前身で、代々斎藤氏の居城となった。
応仁の乱のゴタゴタの後、戦国時代になると、長井新九郎が斎藤氏を乗っ取ります。
斎藤道三です!
しかし、道三は跡継ぎを信長にたくした。
信長は岐阜城を居城としたので、おそらくそれまでに沓井城は廃城したと思われる。
そして、関ヶ原の戦い後、
徳川家康は、岐阜城を廃城とし、沓井城の跡地に加納城を築いた。
天下普請でした。
中山道と美濃を押さえる城として重要な役割があり、家康の娘婿の奥平信昌が入った。
その後、加納藩は、譜代大名が次々に入り明治維新を迎えます。
中山道加納宿の折れ曲がりの場所に
『大手門跡』
ここを南下する。
『大手門跡』
ここを南下する。
横断歩道を利用
幼稚園
猫かな?
外堀ともいうべき荒田川
『三の丸』
現在は、加納小学校。
正門は、一般に赤門と呼ばれる。
小学校と岐阜気象台の間に
『二の丸北面の石垣』
この南側が二の丸。
岐阜城天守を移築した御三階櫓がここに建ってたが焼失。
残念ですな。
二の丸が本丸の外枡形を囲むようになってる。
なので、
本来は二の丸から極楽橋を渡って
本丸の張出部の外枡形に入るのが登城ルートだったが、現在は入れない
内堀の南に『本丸』
本丸北側の石垣
草が邪魔!
なんとかしてくれませんか?
現在、本丸はここから入るので、
ここが正門みたいになってる。
内部は公園で、周囲が土塁に囲まれてます。
入って右側に天守台があったが、
天守は建てられなかった。
天守台西側下の石垣
土塁の上に登ったがこちらも草がいっぱい。
張出部
なんとかしてほしいな…
張出部を見る
外周の外堀は埋め立てられて平地になってます。
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
昨日、祖母の五十回忌法要があり、
親戚一同集まった。
その時のお坊さんのお話、
三重県の員弁(いなべ)地方では、
浄土真宗の葬儀の時に
「赤飯」と「唐辛子汁」が出される。
赤飯は、故人が無事仏様になられたという祝いをあらわす。
唐辛子汁(からじる)は、
辛くて涙が出るので、別名、涙汁と呼ばれる。
亡くなられると涙でますよね。
喜びも悲しみも幾年月…
いいお話を聴きました
合掌!
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
馬《●▲●》助ヒヒーン♪