<レクイエムバナナ>
(1)南洋のバナナ
(2)バナナ甘いかすっぱいか
(3)蚊帳の中の青いバナナ
(4)戦場のバナナ
(5)ニューアイルランド島のパパイヤ
(6)ニューアイルランド島の南十字星
(7)ニューアイルランド島のエスカルゴ
(8)ニューアイルランド島のバナナ
(9)さらばラバウルよ♪のバナナ
(10)南十字星のバナナ
(11)旅立ちのバナナ
(12)南十字星のかなたへ
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2008/08/20
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(1)南洋のバナナ
私は、「バナナがごちそうだった世代」に属する。
こどものころ、ラーメン1杯30円のとき、バナナは1本70円だった。
今、ラーメン一杯700円平均としたら、バナナ1本1500円くらいに相当する。
遠足のときと、風邪をひいてほかに何も口に入らないときしか買ってもらえなかった。
「遠足のおやつ代50円以内、違反者のおやつは没収」なんていう決まりを、「民主的に」学級会などで決められてしまったときは、バナナはおやつなのか、昼ご飯のおかずと言えるのかを、真剣に討議した。
バナナがおやつなら、夕食のおかず代を節約した親がやっと買ったバナナを、弁当箱の脇に入れてくれることはできない。おやつ代50円以内だと、甘いおやつは、1枚20円の板チョコと1箱10円のキャラメル、おせんべや鈴カステラを買うのはどうしようか。とにかく、バナナは買えない。
それで、私は「バナナは果物だから、お菓子とは別だと思います。おやつには入らないと思います」派に、挙手した。たいてい負けたけど。
父は「日本のバナナなんか、食う気がしない」と言っていた。
父は「輸入バナナは、まだ熟さない青いうちにつみ取り、輸送船のなかで熟させているので、まずくて食べられたもんじゃない、樹の上で熟した南洋のバナナの味を知ったら、日本の輸入バナナなんて、もう一生食べなくてもいい」と、いうのだ。
こんなにおいしいバナナを「まずくて食べられたもんじゃない」と父が言うからには、南洋の木でたっぷりと熟したバナナの味は、いったいどれほどの美味なのだろうかと私は夢想した。
私にとって、南洋とは「バナナがとびきりうまい島々」だった。
父はときどき南洋の人々ののんびりした暮らし方や、食べ物の話をしてくれた。島の椰子の木の上を渡る潮風や、まだ熟さない青いココナッツの実の中にあるジュースの話は、遠いおとぎの国の物語のようだった。ココナッツ・ジュースとは、どんな味がするもんなのだろう。
子供たちに聞かせる話の中には、飢えた兵士たちの話や、蜘蛛でも昆虫でもカタツムリでも、あらゆるものを食べた悲惨な戦争末期の「補給が完全になくなり、食料は各部隊自給自足」とされた時期の話は、語られなかった。
せいぜい「南洋のかたつむりは、まずい」という思い出くらい。
父は1946年にラバウルから復員してきた。
母は、婚期が遅れていた。兵役から無事帰還したら婚約するかもしれなかった従兄が戦死してしまったため、28歳まで親元で暮らしていた。当時、28歳は、「行き遅れ」と思われていたのだと母は話していた。
母は見合いの席にうつむいたままお茶を運んだだけで下がり、見合い相手の顔を見ることさえできなかった。
父は、お茶を運ぶ母を見て、「カーちゃんがいいと思うなら、ヨメにもらう」という態度だった。
カーチャンとは、父を育ててくれた祖母くめ(私にとっては曾祖母)のこと。
父ユキオを生んだ実母は、父が2歳のとき病没してしまっていた。父は、育ててくれた祖母くめを母親と信じて成長した。父が生まれたとき、くめさんは38歳だったから、母親と思ってもいい年齢だった。
ユキオは、職場でもらったアイスクリームを食べず、カーチャンに食べさせたいと、持ち帰るような孝行息子だった。
「溶けてはたいへんと、走りに走って家にもどってきたよ」と、父の法事の席での昔語り。父の叔母に当たるシモさんが話してくれた。父は子どもの頃、シモさんトリさんのふたりを姉と信じていたが、実は叔母だった。
「ユキは学校時代足が速くて、運動会が楽しみだった」とは、シモさん(私には大叔母)の語る父の姿。「ユキは、賢くて、優しい子だった。手先が起用で何でも自分で作った」
そんな孝行孫息子に、ヨメがきて、さあたいへんの嫁姑。
<つづく>
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2008年08月21日
ぽかぽか春庭「バナナ甘いかすっぱいか」
2008/08/21
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(2)バナナ甘いか、すっぱいか
母シズエは、見合い相手より自分のほうが2歳年上であることを、引け目に思っていた。
1947年春に結婚。
母は、年下の父に対して「行き遅れの自分を嫁にもらってくれた」と、いつも遠慮し、大姑のクメにも物言えぬ立場でいた。
職場で1本のバナナをもらうことがあったとして、父がそれを家に持ち帰るのは、新婚ですぐに妊娠した妻のためではなく、「カーチャンに食べさせたくて」であった。
母は、「妻より育ての母親を大事にする夫」に添いとげるために、ただ堪え忍ぶほかはなかった。「当時は、それが当然のことと思っていたから」と、母は回想していたのだけれど。
クメばあさんと同居だったから、甘い新婚時代なんていうものはなかったし、結婚した当初は、いつも父の寝言で夜中に目覚めてしまい、恐ろしくて寝ていられなかった、と、新婚時代の思い出話を母がしてくれたことがあった。
戦争の夢を見ているのか、突然、父は寝言で叫んだり悲鳴を上げたりしたという。
「聞いているだけで、ほんとうに恐ろしげなようすで、どれほどつらい、悲惨なことを経験し、阿鼻叫喚のなかをくぐり抜けて日本に復員したのか、同じ戦争を体験したといっても、最前線にいた兵隊さんは、内地にいた者には語りきれない思いをしてきたのだろう」と、母は思ったそうだ。
「戦争を知らないい子供たち」と歌われていた私たちの世代。
私は、「戦争を体験した人は、その体験を次の世代に語り伝えるべきじゃないのか」と、母にぶつけてみたことがあった。
母は、「私は、空襲のとき、タンスをひとりで担いで畑に逃げたことがあった。空襲がおわったあと、どうにもこうにもひとりでは担げず、みなで運んだ」というような戦争中の苦労話をよく語っていた。
それに対して、実際に従軍した父が語らないでいることを疑問に感じたからだ。
母は、「戦争がつらかった、と語れる人の体験は、語れるくらいのつらさなんだよ。本当に悲惨な思いをしてきたら、それを語ってしまったら、自分が壊れてしまうくらいな、つらい思い出だから、復員したあと普通に生活していこうと思ったら、語ってはいられなかったんだよ」と、私を諭した。
「家族を背負う責任もなにもなくて、自分の身だけ心配すればいい、自分の心が壊れてしまうことがあっても、語りつくそう、というのは、子育てが終わってからでないと、話すことはできないのだろうね」と、母は父をかばった。
父が新婚当時うなされていたことを教えてくれたのは、こんなときだった。
父がバナナを食べないのは、「樹の上で熟したバナナじゃないとおいしくない」からじゃななくて、一本のバナナをめぐって人が争い裏切りあった、つらい時代を思い出したくなかったからかもしれない。
<つづく>
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2008年08月22日
ぽかぽか春庭「蚊帳の中の青いバナナ」
2008/08/22
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(3)蚊帳の中の青いバナナ
母シズエは、次々と生まれた娘の世話に追われながら、姑との同居に耐えていた。姑と言っても、実際は夫の祖母。
ユキオの生母ハンは、息子が2歳のときに病没した。
ユキオの父親ジヘイさんは、相思相愛だった妻ハンが病気になったのは、クメばあさんの「嫁いびり」が激しかったからだと、信じていた。
クメさんは、跡取りの長男には自分の気に入った嫁を添わせたいと思っていたのに、ジヘイはなんと恋愛結婚してしまった。ハンさんが美人であることさえも、クメさんは気にくわない。こんな顔に息子はまどわされて、、、、と、悔しくてならない。
ジヘイさんが再婚するにあたって、後添えのキヨミさんは「姑との別居、先妻の子は姑が育てること」を条件にだした。
クメさんは別居してユキオを育てることになった。
クメさんは、一人っ子の家付き娘で、乳母日傘でわがままいっぱいに育ったが、婿運わるく、実家を破産させてしまった。裕福な実家を没落させてしまった負い目と、いつかはお家再興したいという思いが重なり、だれもが「こわい人」というほどのきつい性格になっていた。
没落したのに、プライドだけは高くもっていたので、ひねくれてくるのも当然だったのかもしれない。
ユキオとシズエの夫婦仲を心配したジヘイさんは、家を建てる土地を分けてやるからクメばあさんと別居しろと、ユキオに命じた。
「オレとハンの二の舞にはなるな」と、ジヘイさんは言ったそうだ。
ジヘイさんの言葉に、ユキオは、「オヤジが言うのだから、息子として言いつけを守らなければならない」という大義名分で従った。
育ての母であるクメばあさんと別居する気になったのは、長女次女を年子で生んでしんどそうにしている妻への愛情が、育ての母への思いにまさってきたからだろう。
シズエにとって、やっと「夫婦で語り合える暮らし」ができるようになった。
畑の中の一軒家、新しい「坂下の家」で暮らすようになり、夏は2階の窓を開け放して風をよび、ひとつ蚊帳の中に両親と3人姉妹が仲良く並んで寝た。蛙の鳴き声が聞こえ、裏の沢から蛍が飛んできた。
南洋のバナナの話を聞いたのは、こんなときだ。
父は、戦争中のつらい話をすることはなかった。
おとぎ話のような「南洋の人々の暮らし」の話はしても、「悲惨な戦争」の話は封印されたままだった。
父の語る「ニューアイルランド島のバナナ」
青空の中にすっくりと立つバナナの木は、南洋の風に梢をゆらしていた。
父の話す、たわわに熟したバナナの房が、夏の蚊帳のなかに甘く香ってくるように思う頃、3人の娘たちは次々に寝付いた。
<つづく>
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2008年08月23日
ぽかぽか春庭「戦場のバナナ」
2008/08/23
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(4)戦場のバナナ
1919年生まれの父は、1939年に応召。2.0の視力をかわれて、砲兵となって従軍した。標的との距離を目測するのに、目が悪い者では砲兵として役立たないのだという。
砲兵は、後方から最前線の歩兵を援護射撃するのが任務だから、歩兵より生還率が高い。
砲兵に選ばれたことは、クメばあさんにとっては誇りであり「おまえは長男なのだから、なんとしても生きて帰ってこい」と、言ってやれる出征になった。もちろん町内会総出の出征見送りでは、「お国のために手柄を立ててください」くらいのことは言ったろうが。
満州北部の戦線にいた間は、大砲を牽かせる馬の世話が主な兵役だった。激戦地を渡り歩き、負傷した。
内地の病院で療養し、怪我が癒えたあとは、南洋ニューアイルランド島に送られた。
1939年から1945年まで7年間激戦地に従軍したが、父は軍人恩給の対象にならなかった。
1920年早生まれの舅は父と同学年。中国山東省の安全な駐屯地で「計算係」として後方勤務をしていた舅には恩給がでていた。
恩給には複雑な計算方法があるらしい。
恩給計算方法では、激戦地での従軍は3倍カウントとなるため、7年間の従軍は加算の年計算を加えれば、最低12年必要という下士官の恩給受給必要年に足りるはず。しかし、内地での戦傷療養期間は年金年数計算外とされ、計算上わずか1ヶ月か2ヶ月分足りないことになったのだそう。
父は「命があっただけもうけもの」というのだが、不公平な気がする。
舅は、山東省駐屯地の周辺のスケッチを戦地から持ち帰ってきた。
スケッチを楽しむくらい余裕のある勤務だった舅には恩給が支給され、補給の絶えた激戦地で飢えに苦しんだ父には恩給無し。舅は82歳でなくなるまで、戦友会出席を楽しみのひとつにしていた。
戦傷治療と療養期間を兵役と見なさないというのは理不尽に思える。しかし、日本兵として長期間従軍させたあげく、「旧植民地出身者は、日本国籍を失ったので、軍人恩給を出さない」というさらに理不尽なことを決める国家であるのだから、戦傷者を遇さないくらいは当然なのだろう。
ニューアイルランド島は、ニューギニア戦線の東端。激戦地ニューブリテン島ラバウルの隣に位置する島。
砲兵といっても、島に上陸したところで大砲の弾もない。食料もなく、自給自足の食料調達がほとんどの「任務」となった。
父が語ったほんのわずかな言葉をヒントに、ニューギニア戦記などを読んで、私が知った「戦場のバナナ」。
父が行かされたニューギニア戦線。
20万人が従軍し、生還者はたった1割の2万人。
ニューギニア本島でも、ニューブリテン島でも、激しい戦闘があり、悲惨な死が続いた。
1942年1月23日に、海軍陸戦隊はニューアイルランド島カビエンに上陸。父たちの陸軍部隊が上陸したのは、このあとだろう。
カビエンは、最前線であるラバウル(ニューブリテン島)の後方で、補給路の確保をはかるための軍港だった。
しかし、すぐに補給路は断たれ、兵たちは飢えの中に放り込まれた。
島にはバナナが実っていたが、木の一本一本にはきちんと現地の所有者がいた。
<つづく>
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2008年08月24日
ぽかぽか春庭「ニューアイルランド島のパパイヤ」
2008/08/24
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(5)ニューアイルランド島のパパイア
ニューアイルランド島には、オーストラリア人の入植者が居住しており、コプラプランテーションなどを経営していた。
海軍陸戦隊上陸後、残留オーストラリア人のほとんどが、「討伐」の対象となった。
討伐を命令したのは海軍田村劉吉少将であるが、上官の命令は「天皇の命令」であり、兵士はどのような命令にも従わなければならない。
捕虜となった23人のオーストラリア人は、田村劉吉少将の命令によって処刑された。 戦後、ジュネーブ協定違反で田村少将は戦犯となった。
父が所属していた陸軍は、討伐を命ぜられた海軍陸戦隊とは別の部隊であるけれど、カビエン上陸時に行われた「オーストラリア人討伐」について、見聞きしたことはあるに違いない。父が決してニューアイルランド島の闘いについて語らなかったことの理由のひとつは、このことにあるのではないかと思う。
もし、誰かが語れば、命令されたので仕方なくオーストラリア人討伐や処刑に従った兵士も、BC級戦犯として裁かれる結果となっただろう。
命じられて仕方なく加担した捕虜処刑の罪により、戦犯となり死刑に処せられた『私は貝になりたい』というドラマは、戦場の各地にあった話のひとつなのだ。
父は、下士官だった。砲兵の父に、大砲の弾ひとつもなし。父のニューアイルランド島での任務は、食料さがし。
1本のバナナの木を見つけたら、その木をどうやって守り、飢えた部下たちに分けるか考えなければならない。父の性格から想像すると、父は誠実に几帳面に食料を分けようとしたのだと思う。
しかし、飢えた将兵によって、父は裏切られ続けた。
体力の落ちた兵士に与えたくても、上官が命令すれば、すべてを上官に差し出さなければならない。上官の命令は天皇陛下の命令であるのだから。
父が語らなかった戦場での人間の姿。
ネットに公開されていたある「ニューアイルランド島カビエン駐屯の記録」を読んだ。海軍航空隊に所属していた兵士の「戦記」である。
海軍兵士がジャングルの中で見つけた一本の熟したパパイアの木。
それをだれにも知らせず、自分だけで秘密の食料にして生き延びることができた、とその記録には書かれていた。
周辺の島では、食糧不足のあまり人肉食さえ発生しているというなかで、ひとり生き延びようとした人がいたとしても、責められはしないと思う。
父の周辺にも、このネットの記録と同様のことが起こり、父は人間不信に陥っていったのではなかったと想像する。どれほど飢えても、父は食べ物を戦友に分ける。しかし、戦友は、自分が見つけた食べ物を独り占めして隠していた。
父は、島での従軍の間に「人間不信」を身につけた。
<つづく>
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2008年08月25日
ぽかぽか春庭「ニューアイルランド島の南十字星」
2008/08/25
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(6)ニューアイルランド島の南十字星
海岸では貝や魚を調達できるけれど、浜辺に出れば、連合軍機銃掃射の標的になる。攻撃をさけ、標高2150mのランベル山も見えない昼なお暗いジャングルをさまよいながら、自給自足生活を続ける。
野草、木の根、虫、何でも食べた。
連合軍戦艦から島へ向けての砲撃や、食料を探してさまよう日本兵の上に降りそそぐ、機銃掃射の鉄の雨。
補給が途絶えた孤立の島で飢える兵たち。
熱帯の病に衰弱し、生きながら体中に蛆をわかして死んでいく仲間の姿。やっと見つけた食料をめぐって争う仲間の姿。
ニューアイルランド島は、当初は連合軍の激しい攻撃を受けた。しかし、戦争後半になって、ニューギニア海域の制海権をにぎって以後、連合軍は兵力の無駄な損耗を防ぐために、ニューアイルランド島に上陸することを放棄した。
アメリカ軍にとって、トラック島後方のグアム島、硫黄島攻略を行い、補給路を断つという戦術のほうが、はるかに有益だったからだ。
サイパン島、テニアン島など南洋の島々の部隊が、次々に全滅玉砕していくなか、ニューアイルランド島は、「戦略的価値なし」と、捨て置かれた。
連合軍の「上陸放棄」のため、ニューアイルランド島への爆撃は減り、軍港カビエンは、硫黄島のような凄惨な陸上作戦が行われること無く、終戦時まで日本軍将兵が自給自足を続けることができた。
父の部隊が駐屯したのがニューアイルランド島であったのは、玉砕の島に比べれば、まだしも幸運だったのだと言える。
夜、南十字星を見上げ、「生きて帰れ」と、こっそり耳打ちしたカーチャンのことばを思い出しながら、飢えた身を横たえる。朝、「ああ、まだ生きている」と思いながら目ざめる。
1944年の夏、グアム島の闘いに連合軍が勝利した。
連合軍すなわち米軍はグアムに集結し、日本本土空襲を始めた。
グアム島から出撃した飛行機による本土攻撃が行われるようになってから、ニューアイルランド島への艦砲射撃が減り、偵察艦隊の砲撃があるだけになった。
戦争末期に、ニューギニアの島々では兵に「分散自活体制」を命じた。
つまり、「めいめい、自分の生き死に勝手にせえ」作戦になったのだ。
兵士は、島の人々と物々交換で食べ物を得ることも、それぞれの裁量で行えるようになった。
ニューアイルランド島への艦砲射撃が少なくなったので、夜目にまぎれて海岸で魚や貝を捕ることも出来るようになった。
物々交換で手に入れた食料を、上官に取り上げられることも少なくなった。いやな上官からは「分散」してしまえばよいのだから。
<つづく>
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2008年08月26日
ぽかぽか春庭「ニューアイルランド島のエスカルゴ」
2008/08/26
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(7)ニューアイルランド島のエスカルゴ
「分散自活体制」下で、だれもがまず、ジャングルの中に空き地を開き、畑を耕して芋を作った。落とし穴や罠での「野豚狩り」に成功する者もいた。
父は出征前勤め人だったが、自家用の畑仕事は手伝っていたから、芋や野菜を作ることは出来た。しかし、都会出身の者には、栄養失調の体で土を掘り起こすだけで体力を消耗してしまう者もいた。
父が語った数少ない戦地体験記のひとつに「南洋のかたつむりは不味い」という思い出がある。
南洋の食べ物のなかで、バナナは「うまい」と言っていたのに、「どれほど空腹であっても、かたつむりはまずい」と話していた。
かたつむりは、ときに大発生した。
兵たちが空からの機銃掃射の危険をかいくぐって耕した収穫間近の芋や菜っぱを、畑一面を埋め尽くすようなかたつむりが、食い荒らす。
バケツいっぱいのカタツムリを、ゆでて食う。同じかたつむりとは言っても、フランス料理のエスカルゴとはおおちがい。
せっかくの芋を台無しにするかたつむりは、貴重なタンパク源と思っても、憎さ倍増で不味く思えたのかもしれない。
日本軍は、1942~43年、ガダルカナル島で大敗。作戦のまずさからつぎつぎに兵士を損耗し、なおも兵を投入して2万の兵をむざむざと餓死させた。
戦闘による死者よりも餓死者(戦病死といわれている兵士も、つまるところは栄養失調からの発病)が多いというのは、もはやこれは戦争ではない。補給を得られない軍隊はもはや軍隊ではない。
戦争とは、直接の戦闘のみが問題なのではない。兵站(補給線)を確保すること、人員の無駄な損耗を防ぐことがなにより必要なのだ。
自軍の兵を2万人も餓死させた時点で、敗戦確実であり、降伏和平への道を探すべきであったが、ガダルカナル敗戦ののち、さらに2年戦争は続き、死者を増やした。
軍幹部にとって、人員の無駄な損傷など何ほどのこともなかった。兵士は「一銭五厘」の葉書一枚(赤紙=召集令状)でいくらでも代わりがくる「消耗品」扱いだった。
軍中枢トップは、熾烈な権力争いを続けており、南方の兵が何万死のうと、己の権力拡大が最重要事項だった。
中国15年戦争や太平洋戦争への歴史的評価についてさまざまな論評があろうとも、最低限これだけは言えるのは、1941年以後の死者は、「兵站確保できなかったら敗戦」という戦争の常識をわきまえなかった軍部によって殺されたのだということ。
近代戦においては常識はずれの「兵站なしの戦争」を行った軍人たちによって、日本は泥沼の深みにはまっていった。
それから見ると、ニューアイルランド島上陸をさっさと放棄した連合軍は、合理的な判断をしていると思う。
<つづく>
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2008年08月27日
ぽかぽか春庭「ニューアイルランド島のバナナ」
2008/08/27
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(8)ニューアイルランド島のバナナ
砲撃が少なくなったニューアイルランド島だからこそ、畑を耕すこともできたが、他の島では「人肉」しか食料がない、という事態もあらわれた。
ガダルカナル島が「ガ島」と呼ばれたのは、単に短く縮めた略称だからではなく、「餓島」だったからだ。
「餓死の島」の兵士たちは、自分たちと違う部隊の日本兵に出くわすことをおそれるようになった。相手は、人肉を求めているのかもしれないから。
顔見知りの兵士以外には心許さぬこと、これが生き延びるための鉄則となり、人を信じないことが生還への可能性を広げた。
ニューアイルランド島の「分散自給体制」
この「分散自活体制」の命令は、自給自足を行い得る兵士にとっては、命拾いの期間となった。
「軍靴の靴ひも一本とて天皇陛下の命と思い大切にせよ。勝手に使ってはイカン」と命じられていたのが、「もう、軍は兵士の補給に関わることをいっさい放棄し、少人数の分散体制にするから、それぞれ勝手に食料を得て、生きるも死ぬも好きにしなさい」ということになった。
無理矢理に現地人の食料を奪おうとして、逆に襲撃され命を落とす兵士もいたし、現地の人と良好な関係を作ることができ、生還できた者もいた。
父が「南洋の島の人たちの、のんびりした暮らしを見た」というのは、1945年夏までの、「分散自活体制」下でのこと。
父は、現地の人と良好な関係を作ることができた。
軍帽も背嚢も食べ物と交換した。かわりに、器用な父は草やつるで菅笠を編んでかぶり、しょい籠(背負い籠)を作って荷を入れた。
ナイフ一本針ひとつ残しておけば、何でも自分で作ることができた。父は裁縫でも編み物でも大工仕事でも、何でもできた人だった。
軍服のボタン1個でも、バナナ大房と交換できる。かわりのボタンは、木を削って自分で作ればいいのだ。
空腹というより、餓死寸前の体に、バナナはどれほどうまかったことだろう。
父がそのままニューアイルランド島で暮らしたら、終戦後もグアム島のジャングルで28年を過ごした横井庄一さんのようになったのかもしれない。
1945年夏、父の部隊は捕虜となり、ラバウルの収容所に集められた。収容所もまた、人が裏切りあう場だった。
「死しても天皇陛下に忠義をつくせ」と語っていた将校が、捕虜収容所では、たちまちアメリカ軍将校にすりよる。
「生きて虜囚の辱めを受けず」と言っていた人が、少しでも多くの配給品を得ようとして争う。変わり果てていく将兵の姿を見て、父はますます人間不信になった。
<つづく>
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2008年08月28日
ぽかぽか春庭「さらばラバウルよ♪のバナナ」
2008/08/28
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(9)さらばラバウルよ♪のバナナ
父は決して「戦友会」などには参加せず、「戦友」との個人的なつきあいもしなかった。
戦友たちは父を慕い、毎年、年賀状をよこす人が何人もいたのに、自分からは返信せず母に代筆を命じるくらい、徹底して距離をおいていた。
父は、「オレは自分だけを信じ、他人を信じることを二度としない」と言い、「親友など自分の人生に必要ない」と言っていた。復員後、仕事仲間とのつきあいはしたが、決して親しい友人を作らなかった。
どれほどの目にあったのかと思う。
職場の部下たちにも慕われ、上司の信頼が厚かった父なのに、人間への不信は胸をえぐったままだった。
父は、仕事帰りに職場の人たちと居酒屋で飲んで帰るということもなく、仕事がおわればまっすぐ帰宅した。家で母の手料理をつまみながら手酌で1合だけ晩酌を楽しむ。
毎日帰宅が早いので、母は、月に一度の句会に出かけるのも、父に遠慮しながらだった。
母が句会に出かけた夜など、私と妹はふざけて「酔っぱらいごっこ」をした。妹はこれを「おっとっとごっこ」と言っていた。水を入れたとっくりを並べて、「おっとと、もう一杯」なんていいながら、お酌しあって飲み、茶碗をたたいてでたらめな歌を歌う。
普段の夜は、三人姉妹がさわいだり口ゲンカしたりすると「やかましい。ほんとにオマエらは女三人寄ると姦しい、だな」と、小言を言っていた父も、母親がいない夜のさびしさを、でたらめ歌でさわいでこらえている幼い末娘を不憫と思うのか、「おっとっとごっこ」は、「姦しい」と言われた覚えがない。
酔っぱらい役の私が、「♪.さらばラバールよ、また来るひぃまで~」などと、聞きかじりの歌を歌っても、もう、父が戦時中の夢を見て、夜中にうなされることもなくなってきた。
♪さらばラバールよ また来る日まで~、 しばし別れの 涙が滲む 恋し懐かし あの島見れば 椰子の葉陰に 十字星~」
南洋戦線の動画つきラバウル小唄
http://jp.youtube.com/watch?v=6nctM7_FgdM
バナナの房を前にした兵士の写真などが出てくる春日八郎の歌うラバウル小唄
http://jp.youtube.com/watch?v=bcLzbSlE-eM
私が「椰子の葉陰に十字星が光るのを見たいなあ。赤道の向こう側に行ってみたい」と言うと、母は、「赤道の向こうなんて遠くでなくてもいいから、お父さんと旅行してみたい。でも、お父さんは、オレは連れはいらない、一人がいちばんいいって言う人だからねぇ」と、ため息をつく。
敗戦混乱の時期の結婚式で、文金高島田での結婚式はしたものの、新婚旅行なんてものはなかった。結婚してすぐに長女を身ごもり、年子で次女を生み、あとは子育てですごしたから、父と母がふたりで旅行したことは一度もなかった。
<つづく>
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2008年08月29日
ぽかぽか春庭「南十字星のバナナ」
2008/08/29
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(10)南十字星のバナナ
父は、妻シズエを失ってから、20年以上のやもめ暮らしを貫いた。
53歳で妻に死なれた父に、再婚を勧める人は多かった。しかし、「定年退職したら、旅行にも連れて行き、楽させてやりたいと思っていたのに、苦労だけさせて、何も女房に報いてやれなかったオレには、再婚の資格がない」と言い張って、三女夫婦と暮らす方を選んだ。
入り婿のように父と同居してくれた、妹の亭主に感謝。
私たち姉妹が育った家は、目の前にバイパス道路が建設され、「畑の中の一軒家」どころか、「バイパス沿いの家」になってしまった。
蛍が出た裏の沢は、コンクリートで護岸されたどぶ川になり、沢で芹をとることもなくなっていた。
田園地帯に住みたい父は、古屋をアパートに立て替えて、人に貸すことにした。
父と妹一家は、シズエの母親(私にとっては祖母のキンばあさん)が生まれた村に、新しい住まいを建てた。
60歳で職を退いて以後の父は、三女夫婦の間に生まれた孫娘の子守をする合間に、歴史書を読むこと、歴史散歩史跡探索の会、ゲートボールの会、ウォーキングクラブ、などを楽しんでいた。
母が大切に育てていた家庭菜園は、アパートにしてしまった元の家の裏に残してあったので、父はその畑を引き継いで野菜作りに励んだ。
頑固一徹の父は、よく妹と喧嘩した。喧嘩するとプイと中郷の家を出て、畑のある坂下の家にもどり、畑道具などをしまっておく物置小屋に一人で寝泊まりした。
バナナは、長い間父にとって「二度と食べなくてもいい」食べ物だったが、このころ、ようやく父はバナナを口にするようになった。皮をむく手間もいらないバナナは、ひとりの夜を過ごすには一番手っ取り早い食べ物だった。
3日もすると、バナナにも飽きて「畑仕事が一段落ついた」と言って、家に戻ってきた。
美容院を経営する長女が離婚してしまったことは、父ユキオにとって唯一の心配事ではあったけれど、長女に孫が生まれ、父はひ孫の顔を見ることができた。
次女は変わり者でケニアくんだりにひとりで出かけていき、嫁にもいけないだろうと心配したけれど、貧乏ながらがんばって娘と息子を育てている。
私の息子は、父にとっては、6人目にして初めての男の子の孫だったので大喜びし、手作りの木馬を息子にプレゼントしたり、竹とんぼを作ったり、かわいがってくれた。ほんとうに器用で、なんでも作れる父だった。
1994年、私が中国へ単身赴任することが決まったあと、私の娘と息子を半年預かってくれた。この時5歳だった息子が、今年は二十歳。じいちゃんに似たのか、歴史書を読むのが大好きな子に成長した。
私たち姉妹にとっては、頑固一徹で癇癪もちの父だったけれど、娘と息子にとっては、「やさしいじいちゃん」だった。娘は「叱られたことなんかない」というので、毎日のように叱られてばかりだった私など、気が抜ける思いがするくらい。
<つづく>
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2008年08月30日
ぽかぽか春庭「旅立ちのバナナ」
2008/08/30
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(11)旅立ちのバナナ
父は、毎年1度の検査を欠かさず、医者からは「大丈夫」と言われていた。
1995年の秋、父は「前回の検査からまだ1年たっていないけれど、なんだか具合が悪いから、もう一度検査してもらおう」と、自分で入院を決めた。
名医がいるところがいいと、家から車で1時間もかかる病院に入ったけれど、入院した時点ですでに手遅れになっていた。
父は死期をさとったあとは、ほんとうに見事に死に向かっていた。
1年前の検査できちんと診断してくれていれば、治療の方法もあったのにと、私たち姉妹は、「何も問題なし」という診断を下した医者を恨んだけれど、父は泣き言を一言もいわず、従容と死を受け入れた。
死ぬはずだった1945年の夏から50年生き延びたのだから、もうこれで十分だという覚悟が父にできていたのだろう。
50年前1945年の夏を思えば、1995年の夏は、父にとって、思い残すことのないひとときであったろう。
私は土日に父のいる病院に通い、姉は美容院が定休日の火曜日。あとは妹が担当し、車で1時間の道を通った。
他家に出した私と姉には、父は遠慮してあまりわがままを言わなかったけれど、名字は夫の名前になったとはいえ実家で同居の妹には、きついことも遠慮無しに言う。
この夏のお盆に墓参りに帰って、妹から父が死の床で食べたがったものの話を聞いた。
「なんでも食べたいものを言って。明日買ってくるから」と、妹が病院からの帰りぎわにたずねたら、「バナナ」と、答えたのだという。
「バナナ」と言ったって、買ってきたバナナにぜったい「こんなんじゃない」と、言うだろうと予想して、それでも妹は、高級なほうのバナナを買って、翌日病室へ持っていった。
案の定、ひとくち食べただけで、父は「こんなんじゃない」と、つぶやいた。
「そんなこと言ったって、南洋の島で、木からもいで食べるバナナなんか、南洋へ行かなければ食べられないし」と、妹は言う。「第一、戦争で飢えた末に食べたバナナと同じほどおいしく食べられるバナナなんか、どこにもありゃしない」
父が死の床で食べたがったバナナ。
どんなごちそうよりも、空腹に耐えた末に食べた1本のバナナが、人生最上の味として脳裏に残っていたのだろう。
満州での凍てつく寒気の中、軍馬を守りぬいた話はしたが、飢えつつニューアイルランド島のジャングルを敗走した話は、ついに語られず、父は1995年に76年の生涯を終えた。
<つづく>
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2008年08月31日
ぽかぽか春庭「南十字星のかなたへ」
2008/08/31
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(12)南十字星のかなたへ
今、中国15年戦争、太平洋戦争に従軍体験をした人たちが、つぎつぎと亡くなっていく。
中国戦線、太平洋戦争に従軍した人たち、つらい記憶であろうけれど、できる限り孫や子に語るか、自分史として書き残すかしておいてほしいと思う。
「私の体験した戦争」を語り残す運動をしているグループなども各地にあるので、ひとりでは書けないという人も、録音などの手段で、思い出す限り、断片でもいいから伝えて置いてほしい。
時代の証言は、多数の人の声が集まるほど、後世の人が参考にできる部分も多くなるだろう。
私は、父に戦争体験を語り継いでもらうことができなかった。
せめて、戦争を記録した本を、読み継いでいきたいと思う。
半月ほど、人様に読んでいただくには少々気の重い戦争話を書き続け、ようやく、父が語らなかった「ニューアイルランド戦記」について、自分なりにまとめることができたと思う。読んでくださった方々、コメントをくださった方、ありがとうございました。
父の人生をあらためて振り返ることにもなった。
「自分に親友など必要ない」と言った父に対して、思春期反抗期のころの私は反発し、「戦争という特殊な時期に人を信じられなくなったことがあったからと言って、それを引きずって生きることはない」と、批判をぶつけたこともあった。
今思うと、極限の中を耐えて生き残った父に対して、思いやりのないことばだったなあと申し訳なく思う。
父が生きた戦後50年について、私は「平凡な会社つとめを続け、可もなく不可もない人生。可もなく不可もない三姉妹を育てるために、一生を費やした。ほかにもっとやりたかったことはなかったのか、男の一生をかける壮大な夢を持たなかったのか」と、思ったこともあった。
しかし、地獄をかいくぐって生還した父にとって、「平凡で穏やかな日々」こそが何より大切なかけがえのない日々だったのだ。父は父なりに、戦後の日々をせいいっぱい生ききったのだ、と、今は思う。
いま、天にいる母と語り合いながら、父は思う存分「南洋の完熟バナナ」を食べているのだろうか。
そのバナナ、1本を半分にわけて、シズエさんに食べさせてやりなさいね。クメおばあさんを優先したら、お母さん泣くよ。
「男はねぇ、どんなに育ての母親を恋い慕ってたとしても、結婚したあとは妻子優先にしなくちゃね。それができないなら、女房もらうべきじゃない。結婚せずに、母親が死ぬまで孝行息子してりゃいいんだから」って、お母さん言ってたよ。
日本からは見えない南十字星。
自由な魂となった父は、母に、「あれが南十字星だよ」と語りかけているだろう。
母は、はるかに遠い星たちを指さし、父と並んで見ているだろう。
現在のニューアイルランド島とニューブリテン島
http://pngtourism.jp/charm/nip/
http://pngtourism.jp/charm/enbp/
<おわり>
(1)南洋のバナナ
(2)バナナ甘いかすっぱいか
(3)蚊帳の中の青いバナナ
(4)戦場のバナナ
(5)ニューアイルランド島のパパイヤ
(6)ニューアイルランド島の南十字星
(7)ニューアイルランド島のエスカルゴ
(8)ニューアイルランド島のバナナ
(9)さらばラバウルよ♪のバナナ
(10)南十字星のバナナ
(11)旅立ちのバナナ
(12)南十字星のかなたへ
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2008/08/20
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(1)南洋のバナナ
私は、「バナナがごちそうだった世代」に属する。
こどものころ、ラーメン1杯30円のとき、バナナは1本70円だった。
今、ラーメン一杯700円平均としたら、バナナ1本1500円くらいに相当する。
遠足のときと、風邪をひいてほかに何も口に入らないときしか買ってもらえなかった。
「遠足のおやつ代50円以内、違反者のおやつは没収」なんていう決まりを、「民主的に」学級会などで決められてしまったときは、バナナはおやつなのか、昼ご飯のおかずと言えるのかを、真剣に討議した。
バナナがおやつなら、夕食のおかず代を節約した親がやっと買ったバナナを、弁当箱の脇に入れてくれることはできない。おやつ代50円以内だと、甘いおやつは、1枚20円の板チョコと1箱10円のキャラメル、おせんべや鈴カステラを買うのはどうしようか。とにかく、バナナは買えない。
それで、私は「バナナは果物だから、お菓子とは別だと思います。おやつには入らないと思います」派に、挙手した。たいてい負けたけど。
父は「日本のバナナなんか、食う気がしない」と言っていた。
父は「輸入バナナは、まだ熟さない青いうちにつみ取り、輸送船のなかで熟させているので、まずくて食べられたもんじゃない、樹の上で熟した南洋のバナナの味を知ったら、日本の輸入バナナなんて、もう一生食べなくてもいい」と、いうのだ。
こんなにおいしいバナナを「まずくて食べられたもんじゃない」と父が言うからには、南洋の木でたっぷりと熟したバナナの味は、いったいどれほどの美味なのだろうかと私は夢想した。
私にとって、南洋とは「バナナがとびきりうまい島々」だった。
父はときどき南洋の人々ののんびりした暮らし方や、食べ物の話をしてくれた。島の椰子の木の上を渡る潮風や、まだ熟さない青いココナッツの実の中にあるジュースの話は、遠いおとぎの国の物語のようだった。ココナッツ・ジュースとは、どんな味がするもんなのだろう。
子供たちに聞かせる話の中には、飢えた兵士たちの話や、蜘蛛でも昆虫でもカタツムリでも、あらゆるものを食べた悲惨な戦争末期の「補給が完全になくなり、食料は各部隊自給自足」とされた時期の話は、語られなかった。
せいぜい「南洋のかたつむりは、まずい」という思い出くらい。
父は1946年にラバウルから復員してきた。
母は、婚期が遅れていた。兵役から無事帰還したら婚約するかもしれなかった従兄が戦死してしまったため、28歳まで親元で暮らしていた。当時、28歳は、「行き遅れ」と思われていたのだと母は話していた。
母は見合いの席にうつむいたままお茶を運んだだけで下がり、見合い相手の顔を見ることさえできなかった。
父は、お茶を運ぶ母を見て、「カーちゃんがいいと思うなら、ヨメにもらう」という態度だった。
カーチャンとは、父を育ててくれた祖母くめ(私にとっては曾祖母)のこと。
父ユキオを生んだ実母は、父が2歳のとき病没してしまっていた。父は、育ててくれた祖母くめを母親と信じて成長した。父が生まれたとき、くめさんは38歳だったから、母親と思ってもいい年齢だった。
ユキオは、職場でもらったアイスクリームを食べず、カーチャンに食べさせたいと、持ち帰るような孝行息子だった。
「溶けてはたいへんと、走りに走って家にもどってきたよ」と、父の法事の席での昔語り。父の叔母に当たるシモさんが話してくれた。父は子どもの頃、シモさんトリさんのふたりを姉と信じていたが、実は叔母だった。
「ユキは学校時代足が速くて、運動会が楽しみだった」とは、シモさん(私には大叔母)の語る父の姿。「ユキは、賢くて、優しい子だった。手先が起用で何でも自分で作った」
そんな孝行孫息子に、ヨメがきて、さあたいへんの嫁姑。
<つづく>
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2008年08月21日
ぽかぽか春庭「バナナ甘いかすっぱいか」
2008/08/21
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(2)バナナ甘いか、すっぱいか
母シズエは、見合い相手より自分のほうが2歳年上であることを、引け目に思っていた。
1947年春に結婚。
母は、年下の父に対して「行き遅れの自分を嫁にもらってくれた」と、いつも遠慮し、大姑のクメにも物言えぬ立場でいた。
職場で1本のバナナをもらうことがあったとして、父がそれを家に持ち帰るのは、新婚ですぐに妊娠した妻のためではなく、「カーチャンに食べさせたくて」であった。
母は、「妻より育ての母親を大事にする夫」に添いとげるために、ただ堪え忍ぶほかはなかった。「当時は、それが当然のことと思っていたから」と、母は回想していたのだけれど。
クメばあさんと同居だったから、甘い新婚時代なんていうものはなかったし、結婚した当初は、いつも父の寝言で夜中に目覚めてしまい、恐ろしくて寝ていられなかった、と、新婚時代の思い出話を母がしてくれたことがあった。
戦争の夢を見ているのか、突然、父は寝言で叫んだり悲鳴を上げたりしたという。
「聞いているだけで、ほんとうに恐ろしげなようすで、どれほどつらい、悲惨なことを経験し、阿鼻叫喚のなかをくぐり抜けて日本に復員したのか、同じ戦争を体験したといっても、最前線にいた兵隊さんは、内地にいた者には語りきれない思いをしてきたのだろう」と、母は思ったそうだ。
「戦争を知らないい子供たち」と歌われていた私たちの世代。
私は、「戦争を体験した人は、その体験を次の世代に語り伝えるべきじゃないのか」と、母にぶつけてみたことがあった。
母は、「私は、空襲のとき、タンスをひとりで担いで畑に逃げたことがあった。空襲がおわったあと、どうにもこうにもひとりでは担げず、みなで運んだ」というような戦争中の苦労話をよく語っていた。
それに対して、実際に従軍した父が語らないでいることを疑問に感じたからだ。
母は、「戦争がつらかった、と語れる人の体験は、語れるくらいのつらさなんだよ。本当に悲惨な思いをしてきたら、それを語ってしまったら、自分が壊れてしまうくらいな、つらい思い出だから、復員したあと普通に生活していこうと思ったら、語ってはいられなかったんだよ」と、私を諭した。
「家族を背負う責任もなにもなくて、自分の身だけ心配すればいい、自分の心が壊れてしまうことがあっても、語りつくそう、というのは、子育てが終わってからでないと、話すことはできないのだろうね」と、母は父をかばった。
父が新婚当時うなされていたことを教えてくれたのは、こんなときだった。
父がバナナを食べないのは、「樹の上で熟したバナナじゃないとおいしくない」からじゃななくて、一本のバナナをめぐって人が争い裏切りあった、つらい時代を思い出したくなかったからかもしれない。
<つづく>
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2008年08月22日
ぽかぽか春庭「蚊帳の中の青いバナナ」
2008/08/22
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(3)蚊帳の中の青いバナナ
母シズエは、次々と生まれた娘の世話に追われながら、姑との同居に耐えていた。姑と言っても、実際は夫の祖母。
ユキオの生母ハンは、息子が2歳のときに病没した。
ユキオの父親ジヘイさんは、相思相愛だった妻ハンが病気になったのは、クメばあさんの「嫁いびり」が激しかったからだと、信じていた。
クメさんは、跡取りの長男には自分の気に入った嫁を添わせたいと思っていたのに、ジヘイはなんと恋愛結婚してしまった。ハンさんが美人であることさえも、クメさんは気にくわない。こんな顔に息子はまどわされて、、、、と、悔しくてならない。
ジヘイさんが再婚するにあたって、後添えのキヨミさんは「姑との別居、先妻の子は姑が育てること」を条件にだした。
クメさんは別居してユキオを育てることになった。
クメさんは、一人っ子の家付き娘で、乳母日傘でわがままいっぱいに育ったが、婿運わるく、実家を破産させてしまった。裕福な実家を没落させてしまった負い目と、いつかはお家再興したいという思いが重なり、だれもが「こわい人」というほどのきつい性格になっていた。
没落したのに、プライドだけは高くもっていたので、ひねくれてくるのも当然だったのかもしれない。
ユキオとシズエの夫婦仲を心配したジヘイさんは、家を建てる土地を分けてやるからクメばあさんと別居しろと、ユキオに命じた。
「オレとハンの二の舞にはなるな」と、ジヘイさんは言ったそうだ。
ジヘイさんの言葉に、ユキオは、「オヤジが言うのだから、息子として言いつけを守らなければならない」という大義名分で従った。
育ての母であるクメばあさんと別居する気になったのは、長女次女を年子で生んでしんどそうにしている妻への愛情が、育ての母への思いにまさってきたからだろう。
シズエにとって、やっと「夫婦で語り合える暮らし」ができるようになった。
畑の中の一軒家、新しい「坂下の家」で暮らすようになり、夏は2階の窓を開け放して風をよび、ひとつ蚊帳の中に両親と3人姉妹が仲良く並んで寝た。蛙の鳴き声が聞こえ、裏の沢から蛍が飛んできた。
南洋のバナナの話を聞いたのは、こんなときだ。
父は、戦争中のつらい話をすることはなかった。
おとぎ話のような「南洋の人々の暮らし」の話はしても、「悲惨な戦争」の話は封印されたままだった。
父の語る「ニューアイルランド島のバナナ」
青空の中にすっくりと立つバナナの木は、南洋の風に梢をゆらしていた。
父の話す、たわわに熟したバナナの房が、夏の蚊帳のなかに甘く香ってくるように思う頃、3人の娘たちは次々に寝付いた。
<つづく>
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2008年08月23日
ぽかぽか春庭「戦場のバナナ」
2008/08/23
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(4)戦場のバナナ
1919年生まれの父は、1939年に応召。2.0の視力をかわれて、砲兵となって従軍した。標的との距離を目測するのに、目が悪い者では砲兵として役立たないのだという。
砲兵は、後方から最前線の歩兵を援護射撃するのが任務だから、歩兵より生還率が高い。
砲兵に選ばれたことは、クメばあさんにとっては誇りであり「おまえは長男なのだから、なんとしても生きて帰ってこい」と、言ってやれる出征になった。もちろん町内会総出の出征見送りでは、「お国のために手柄を立ててください」くらいのことは言ったろうが。
満州北部の戦線にいた間は、大砲を牽かせる馬の世話が主な兵役だった。激戦地を渡り歩き、負傷した。
内地の病院で療養し、怪我が癒えたあとは、南洋ニューアイルランド島に送られた。
1939年から1945年まで7年間激戦地に従軍したが、父は軍人恩給の対象にならなかった。
1920年早生まれの舅は父と同学年。中国山東省の安全な駐屯地で「計算係」として後方勤務をしていた舅には恩給がでていた。
恩給には複雑な計算方法があるらしい。
恩給計算方法では、激戦地での従軍は3倍カウントとなるため、7年間の従軍は加算の年計算を加えれば、最低12年必要という下士官の恩給受給必要年に足りるはず。しかし、内地での戦傷療養期間は年金年数計算外とされ、計算上わずか1ヶ月か2ヶ月分足りないことになったのだそう。
父は「命があっただけもうけもの」というのだが、不公平な気がする。
舅は、山東省駐屯地の周辺のスケッチを戦地から持ち帰ってきた。
スケッチを楽しむくらい余裕のある勤務だった舅には恩給が支給され、補給の絶えた激戦地で飢えに苦しんだ父には恩給無し。舅は82歳でなくなるまで、戦友会出席を楽しみのひとつにしていた。
戦傷治療と療養期間を兵役と見なさないというのは理不尽に思える。しかし、日本兵として長期間従軍させたあげく、「旧植民地出身者は、日本国籍を失ったので、軍人恩給を出さない」というさらに理不尽なことを決める国家であるのだから、戦傷者を遇さないくらいは当然なのだろう。
ニューアイルランド島は、ニューギニア戦線の東端。激戦地ニューブリテン島ラバウルの隣に位置する島。
砲兵といっても、島に上陸したところで大砲の弾もない。食料もなく、自給自足の食料調達がほとんどの「任務」となった。
父が語ったほんのわずかな言葉をヒントに、ニューギニア戦記などを読んで、私が知った「戦場のバナナ」。
父が行かされたニューギニア戦線。
20万人が従軍し、生還者はたった1割の2万人。
ニューギニア本島でも、ニューブリテン島でも、激しい戦闘があり、悲惨な死が続いた。
1942年1月23日に、海軍陸戦隊はニューアイルランド島カビエンに上陸。父たちの陸軍部隊が上陸したのは、このあとだろう。
カビエンは、最前線であるラバウル(ニューブリテン島)の後方で、補給路の確保をはかるための軍港だった。
しかし、すぐに補給路は断たれ、兵たちは飢えの中に放り込まれた。
島にはバナナが実っていたが、木の一本一本にはきちんと現地の所有者がいた。
<つづく>
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2008年08月24日
ぽかぽか春庭「ニューアイルランド島のパパイヤ」
2008/08/24
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(5)ニューアイルランド島のパパイア
ニューアイルランド島には、オーストラリア人の入植者が居住しており、コプラプランテーションなどを経営していた。
海軍陸戦隊上陸後、残留オーストラリア人のほとんどが、「討伐」の対象となった。
討伐を命令したのは海軍田村劉吉少将であるが、上官の命令は「天皇の命令」であり、兵士はどのような命令にも従わなければならない。
捕虜となった23人のオーストラリア人は、田村劉吉少将の命令によって処刑された。 戦後、ジュネーブ協定違反で田村少将は戦犯となった。
父が所属していた陸軍は、討伐を命ぜられた海軍陸戦隊とは別の部隊であるけれど、カビエン上陸時に行われた「オーストラリア人討伐」について、見聞きしたことはあるに違いない。父が決してニューアイルランド島の闘いについて語らなかったことの理由のひとつは、このことにあるのではないかと思う。
もし、誰かが語れば、命令されたので仕方なくオーストラリア人討伐や処刑に従った兵士も、BC級戦犯として裁かれる結果となっただろう。
命じられて仕方なく加担した捕虜処刑の罪により、戦犯となり死刑に処せられた『私は貝になりたい』というドラマは、戦場の各地にあった話のひとつなのだ。
父は、下士官だった。砲兵の父に、大砲の弾ひとつもなし。父のニューアイルランド島での任務は、食料さがし。
1本のバナナの木を見つけたら、その木をどうやって守り、飢えた部下たちに分けるか考えなければならない。父の性格から想像すると、父は誠実に几帳面に食料を分けようとしたのだと思う。
しかし、飢えた将兵によって、父は裏切られ続けた。
体力の落ちた兵士に与えたくても、上官が命令すれば、すべてを上官に差し出さなければならない。上官の命令は天皇陛下の命令であるのだから。
父が語らなかった戦場での人間の姿。
ネットに公開されていたある「ニューアイルランド島カビエン駐屯の記録」を読んだ。海軍航空隊に所属していた兵士の「戦記」である。
海軍兵士がジャングルの中で見つけた一本の熟したパパイアの木。
それをだれにも知らせず、自分だけで秘密の食料にして生き延びることができた、とその記録には書かれていた。
周辺の島では、食糧不足のあまり人肉食さえ発生しているというなかで、ひとり生き延びようとした人がいたとしても、責められはしないと思う。
父の周辺にも、このネットの記録と同様のことが起こり、父は人間不信に陥っていったのではなかったと想像する。どれほど飢えても、父は食べ物を戦友に分ける。しかし、戦友は、自分が見つけた食べ物を独り占めして隠していた。
父は、島での従軍の間に「人間不信」を身につけた。
<つづく>
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2008年08月25日
ぽかぽか春庭「ニューアイルランド島の南十字星」
2008/08/25
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(6)ニューアイルランド島の南十字星
海岸では貝や魚を調達できるけれど、浜辺に出れば、連合軍機銃掃射の標的になる。攻撃をさけ、標高2150mのランベル山も見えない昼なお暗いジャングルをさまよいながら、自給自足生活を続ける。
野草、木の根、虫、何でも食べた。
連合軍戦艦から島へ向けての砲撃や、食料を探してさまよう日本兵の上に降りそそぐ、機銃掃射の鉄の雨。
補給が途絶えた孤立の島で飢える兵たち。
熱帯の病に衰弱し、生きながら体中に蛆をわかして死んでいく仲間の姿。やっと見つけた食料をめぐって争う仲間の姿。
ニューアイルランド島は、当初は連合軍の激しい攻撃を受けた。しかし、戦争後半になって、ニューギニア海域の制海権をにぎって以後、連合軍は兵力の無駄な損耗を防ぐために、ニューアイルランド島に上陸することを放棄した。
アメリカ軍にとって、トラック島後方のグアム島、硫黄島攻略を行い、補給路を断つという戦術のほうが、はるかに有益だったからだ。
サイパン島、テニアン島など南洋の島々の部隊が、次々に全滅玉砕していくなか、ニューアイルランド島は、「戦略的価値なし」と、捨て置かれた。
連合軍の「上陸放棄」のため、ニューアイルランド島への爆撃は減り、軍港カビエンは、硫黄島のような凄惨な陸上作戦が行われること無く、終戦時まで日本軍将兵が自給自足を続けることができた。
父の部隊が駐屯したのがニューアイルランド島であったのは、玉砕の島に比べれば、まだしも幸運だったのだと言える。
夜、南十字星を見上げ、「生きて帰れ」と、こっそり耳打ちしたカーチャンのことばを思い出しながら、飢えた身を横たえる。朝、「ああ、まだ生きている」と思いながら目ざめる。
1944年の夏、グアム島の闘いに連合軍が勝利した。
連合軍すなわち米軍はグアムに集結し、日本本土空襲を始めた。
グアム島から出撃した飛行機による本土攻撃が行われるようになってから、ニューアイルランド島への艦砲射撃が減り、偵察艦隊の砲撃があるだけになった。
戦争末期に、ニューギニアの島々では兵に「分散自活体制」を命じた。
つまり、「めいめい、自分の生き死に勝手にせえ」作戦になったのだ。
兵士は、島の人々と物々交換で食べ物を得ることも、それぞれの裁量で行えるようになった。
ニューアイルランド島への艦砲射撃が少なくなったので、夜目にまぎれて海岸で魚や貝を捕ることも出来るようになった。
物々交換で手に入れた食料を、上官に取り上げられることも少なくなった。いやな上官からは「分散」してしまえばよいのだから。
<つづく>
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2008年08月26日
ぽかぽか春庭「ニューアイルランド島のエスカルゴ」
2008/08/26
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(7)ニューアイルランド島のエスカルゴ
「分散自活体制」下で、だれもがまず、ジャングルの中に空き地を開き、畑を耕して芋を作った。落とし穴や罠での「野豚狩り」に成功する者もいた。
父は出征前勤め人だったが、自家用の畑仕事は手伝っていたから、芋や野菜を作ることは出来た。しかし、都会出身の者には、栄養失調の体で土を掘り起こすだけで体力を消耗してしまう者もいた。
父が語った数少ない戦地体験記のひとつに「南洋のかたつむりは不味い」という思い出がある。
南洋の食べ物のなかで、バナナは「うまい」と言っていたのに、「どれほど空腹であっても、かたつむりはまずい」と話していた。
かたつむりは、ときに大発生した。
兵たちが空からの機銃掃射の危険をかいくぐって耕した収穫間近の芋や菜っぱを、畑一面を埋め尽くすようなかたつむりが、食い荒らす。
バケツいっぱいのカタツムリを、ゆでて食う。同じかたつむりとは言っても、フランス料理のエスカルゴとはおおちがい。
せっかくの芋を台無しにするかたつむりは、貴重なタンパク源と思っても、憎さ倍増で不味く思えたのかもしれない。
日本軍は、1942~43年、ガダルカナル島で大敗。作戦のまずさからつぎつぎに兵士を損耗し、なおも兵を投入して2万の兵をむざむざと餓死させた。
戦闘による死者よりも餓死者(戦病死といわれている兵士も、つまるところは栄養失調からの発病)が多いというのは、もはやこれは戦争ではない。補給を得られない軍隊はもはや軍隊ではない。
戦争とは、直接の戦闘のみが問題なのではない。兵站(補給線)を確保すること、人員の無駄な損耗を防ぐことがなにより必要なのだ。
自軍の兵を2万人も餓死させた時点で、敗戦確実であり、降伏和平への道を探すべきであったが、ガダルカナル敗戦ののち、さらに2年戦争は続き、死者を増やした。
軍幹部にとって、人員の無駄な損傷など何ほどのこともなかった。兵士は「一銭五厘」の葉書一枚(赤紙=召集令状)でいくらでも代わりがくる「消耗品」扱いだった。
軍中枢トップは、熾烈な権力争いを続けており、南方の兵が何万死のうと、己の権力拡大が最重要事項だった。
中国15年戦争や太平洋戦争への歴史的評価についてさまざまな論評があろうとも、最低限これだけは言えるのは、1941年以後の死者は、「兵站確保できなかったら敗戦」という戦争の常識をわきまえなかった軍部によって殺されたのだということ。
近代戦においては常識はずれの「兵站なしの戦争」を行った軍人たちによって、日本は泥沼の深みにはまっていった。
それから見ると、ニューアイルランド島上陸をさっさと放棄した連合軍は、合理的な判断をしていると思う。
<つづく>
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2008年08月27日
ぽかぽか春庭「ニューアイルランド島のバナナ」
2008/08/27
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(8)ニューアイルランド島のバナナ
砲撃が少なくなったニューアイルランド島だからこそ、畑を耕すこともできたが、他の島では「人肉」しか食料がない、という事態もあらわれた。
ガダルカナル島が「ガ島」と呼ばれたのは、単に短く縮めた略称だからではなく、「餓島」だったからだ。
「餓死の島」の兵士たちは、自分たちと違う部隊の日本兵に出くわすことをおそれるようになった。相手は、人肉を求めているのかもしれないから。
顔見知りの兵士以外には心許さぬこと、これが生き延びるための鉄則となり、人を信じないことが生還への可能性を広げた。
ニューアイルランド島の「分散自給体制」
この「分散自活体制」の命令は、自給自足を行い得る兵士にとっては、命拾いの期間となった。
「軍靴の靴ひも一本とて天皇陛下の命と思い大切にせよ。勝手に使ってはイカン」と命じられていたのが、「もう、軍は兵士の補給に関わることをいっさい放棄し、少人数の分散体制にするから、それぞれ勝手に食料を得て、生きるも死ぬも好きにしなさい」ということになった。
無理矢理に現地人の食料を奪おうとして、逆に襲撃され命を落とす兵士もいたし、現地の人と良好な関係を作ることができ、生還できた者もいた。
父が「南洋の島の人たちの、のんびりした暮らしを見た」というのは、1945年夏までの、「分散自活体制」下でのこと。
父は、現地の人と良好な関係を作ることができた。
軍帽も背嚢も食べ物と交換した。かわりに、器用な父は草やつるで菅笠を編んでかぶり、しょい籠(背負い籠)を作って荷を入れた。
ナイフ一本針ひとつ残しておけば、何でも自分で作ることができた。父は裁縫でも編み物でも大工仕事でも、何でもできた人だった。
軍服のボタン1個でも、バナナ大房と交換できる。かわりのボタンは、木を削って自分で作ればいいのだ。
空腹というより、餓死寸前の体に、バナナはどれほどうまかったことだろう。
父がそのままニューアイルランド島で暮らしたら、終戦後もグアム島のジャングルで28年を過ごした横井庄一さんのようになったのかもしれない。
1945年夏、父の部隊は捕虜となり、ラバウルの収容所に集められた。収容所もまた、人が裏切りあう場だった。
「死しても天皇陛下に忠義をつくせ」と語っていた将校が、捕虜収容所では、たちまちアメリカ軍将校にすりよる。
「生きて虜囚の辱めを受けず」と言っていた人が、少しでも多くの配給品を得ようとして争う。変わり果てていく将兵の姿を見て、父はますます人間不信になった。
<つづく>
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2008年08月28日
ぽかぽか春庭「さらばラバウルよ♪のバナナ」
2008/08/28
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(9)さらばラバウルよ♪のバナナ
父は決して「戦友会」などには参加せず、「戦友」との個人的なつきあいもしなかった。
戦友たちは父を慕い、毎年、年賀状をよこす人が何人もいたのに、自分からは返信せず母に代筆を命じるくらい、徹底して距離をおいていた。
父は、「オレは自分だけを信じ、他人を信じることを二度としない」と言い、「親友など自分の人生に必要ない」と言っていた。復員後、仕事仲間とのつきあいはしたが、決して親しい友人を作らなかった。
どれほどの目にあったのかと思う。
職場の部下たちにも慕われ、上司の信頼が厚かった父なのに、人間への不信は胸をえぐったままだった。
父は、仕事帰りに職場の人たちと居酒屋で飲んで帰るということもなく、仕事がおわればまっすぐ帰宅した。家で母の手料理をつまみながら手酌で1合だけ晩酌を楽しむ。
毎日帰宅が早いので、母は、月に一度の句会に出かけるのも、父に遠慮しながらだった。
母が句会に出かけた夜など、私と妹はふざけて「酔っぱらいごっこ」をした。妹はこれを「おっとっとごっこ」と言っていた。水を入れたとっくりを並べて、「おっとと、もう一杯」なんていいながら、お酌しあって飲み、茶碗をたたいてでたらめな歌を歌う。
普段の夜は、三人姉妹がさわいだり口ゲンカしたりすると「やかましい。ほんとにオマエらは女三人寄ると姦しい、だな」と、小言を言っていた父も、母親がいない夜のさびしさを、でたらめ歌でさわいでこらえている幼い末娘を不憫と思うのか、「おっとっとごっこ」は、「姦しい」と言われた覚えがない。
酔っぱらい役の私が、「♪.さらばラバールよ、また来るひぃまで~」などと、聞きかじりの歌を歌っても、もう、父が戦時中の夢を見て、夜中にうなされることもなくなってきた。
♪さらばラバールよ また来る日まで~、 しばし別れの 涙が滲む 恋し懐かし あの島見れば 椰子の葉陰に 十字星~」
南洋戦線の動画つきラバウル小唄
http://jp.youtube.com/watch?v=6nctM7_FgdM
バナナの房を前にした兵士の写真などが出てくる春日八郎の歌うラバウル小唄
http://jp.youtube.com/watch?v=bcLzbSlE-eM
私が「椰子の葉陰に十字星が光るのを見たいなあ。赤道の向こう側に行ってみたい」と言うと、母は、「赤道の向こうなんて遠くでなくてもいいから、お父さんと旅行してみたい。でも、お父さんは、オレは連れはいらない、一人がいちばんいいって言う人だからねぇ」と、ため息をつく。
敗戦混乱の時期の結婚式で、文金高島田での結婚式はしたものの、新婚旅行なんてものはなかった。結婚してすぐに長女を身ごもり、年子で次女を生み、あとは子育てですごしたから、父と母がふたりで旅行したことは一度もなかった。
<つづく>
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2008年08月29日
ぽかぽか春庭「南十字星のバナナ」
2008/08/29
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(10)南十字星のバナナ
父は、妻シズエを失ってから、20年以上のやもめ暮らしを貫いた。
53歳で妻に死なれた父に、再婚を勧める人は多かった。しかし、「定年退職したら、旅行にも連れて行き、楽させてやりたいと思っていたのに、苦労だけさせて、何も女房に報いてやれなかったオレには、再婚の資格がない」と言い張って、三女夫婦と暮らす方を選んだ。
入り婿のように父と同居してくれた、妹の亭主に感謝。
私たち姉妹が育った家は、目の前にバイパス道路が建設され、「畑の中の一軒家」どころか、「バイパス沿いの家」になってしまった。
蛍が出た裏の沢は、コンクリートで護岸されたどぶ川になり、沢で芹をとることもなくなっていた。
田園地帯に住みたい父は、古屋をアパートに立て替えて、人に貸すことにした。
父と妹一家は、シズエの母親(私にとっては祖母のキンばあさん)が生まれた村に、新しい住まいを建てた。
60歳で職を退いて以後の父は、三女夫婦の間に生まれた孫娘の子守をする合間に、歴史書を読むこと、歴史散歩史跡探索の会、ゲートボールの会、ウォーキングクラブ、などを楽しんでいた。
母が大切に育てていた家庭菜園は、アパートにしてしまった元の家の裏に残してあったので、父はその畑を引き継いで野菜作りに励んだ。
頑固一徹の父は、よく妹と喧嘩した。喧嘩するとプイと中郷の家を出て、畑のある坂下の家にもどり、畑道具などをしまっておく物置小屋に一人で寝泊まりした。
バナナは、長い間父にとって「二度と食べなくてもいい」食べ物だったが、このころ、ようやく父はバナナを口にするようになった。皮をむく手間もいらないバナナは、ひとりの夜を過ごすには一番手っ取り早い食べ物だった。
3日もすると、バナナにも飽きて「畑仕事が一段落ついた」と言って、家に戻ってきた。
美容院を経営する長女が離婚してしまったことは、父ユキオにとって唯一の心配事ではあったけれど、長女に孫が生まれ、父はひ孫の顔を見ることができた。
次女は変わり者でケニアくんだりにひとりで出かけていき、嫁にもいけないだろうと心配したけれど、貧乏ながらがんばって娘と息子を育てている。
私の息子は、父にとっては、6人目にして初めての男の子の孫だったので大喜びし、手作りの木馬を息子にプレゼントしたり、竹とんぼを作ったり、かわいがってくれた。ほんとうに器用で、なんでも作れる父だった。
1994年、私が中国へ単身赴任することが決まったあと、私の娘と息子を半年預かってくれた。この時5歳だった息子が、今年は二十歳。じいちゃんに似たのか、歴史書を読むのが大好きな子に成長した。
私たち姉妹にとっては、頑固一徹で癇癪もちの父だったけれど、娘と息子にとっては、「やさしいじいちゃん」だった。娘は「叱られたことなんかない」というので、毎日のように叱られてばかりだった私など、気が抜ける思いがするくらい。
<つづく>
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2008年08月30日
ぽかぽか春庭「旅立ちのバナナ」
2008/08/30
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(11)旅立ちのバナナ
父は、毎年1度の検査を欠かさず、医者からは「大丈夫」と言われていた。
1995年の秋、父は「前回の検査からまだ1年たっていないけれど、なんだか具合が悪いから、もう一度検査してもらおう」と、自分で入院を決めた。
名医がいるところがいいと、家から車で1時間もかかる病院に入ったけれど、入院した時点ですでに手遅れになっていた。
父は死期をさとったあとは、ほんとうに見事に死に向かっていた。
1年前の検査できちんと診断してくれていれば、治療の方法もあったのにと、私たち姉妹は、「何も問題なし」という診断を下した医者を恨んだけれど、父は泣き言を一言もいわず、従容と死を受け入れた。
死ぬはずだった1945年の夏から50年生き延びたのだから、もうこれで十分だという覚悟が父にできていたのだろう。
50年前1945年の夏を思えば、1995年の夏は、父にとって、思い残すことのないひとときであったろう。
私は土日に父のいる病院に通い、姉は美容院が定休日の火曜日。あとは妹が担当し、車で1時間の道を通った。
他家に出した私と姉には、父は遠慮してあまりわがままを言わなかったけれど、名字は夫の名前になったとはいえ実家で同居の妹には、きついことも遠慮無しに言う。
この夏のお盆に墓参りに帰って、妹から父が死の床で食べたがったものの話を聞いた。
「なんでも食べたいものを言って。明日買ってくるから」と、妹が病院からの帰りぎわにたずねたら、「バナナ」と、答えたのだという。
「バナナ」と言ったって、買ってきたバナナにぜったい「こんなんじゃない」と、言うだろうと予想して、それでも妹は、高級なほうのバナナを買って、翌日病室へ持っていった。
案の定、ひとくち食べただけで、父は「こんなんじゃない」と、つぶやいた。
「そんなこと言ったって、南洋の島で、木からもいで食べるバナナなんか、南洋へ行かなければ食べられないし」と、妹は言う。「第一、戦争で飢えた末に食べたバナナと同じほどおいしく食べられるバナナなんか、どこにもありゃしない」
父が死の床で食べたがったバナナ。
どんなごちそうよりも、空腹に耐えた末に食べた1本のバナナが、人生最上の味として脳裏に残っていたのだろう。
満州での凍てつく寒気の中、軍馬を守りぬいた話はしたが、飢えつつニューアイルランド島のジャングルを敗走した話は、ついに語られず、父は1995年に76年の生涯を終えた。
<つづく>
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2008年08月31日
ぽかぽか春庭「南十字星のかなたへ」
2008/08/31
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(12)南十字星のかなたへ
今、中国15年戦争、太平洋戦争に従軍体験をした人たちが、つぎつぎと亡くなっていく。
中国戦線、太平洋戦争に従軍した人たち、つらい記憶であろうけれど、できる限り孫や子に語るか、自分史として書き残すかしておいてほしいと思う。
「私の体験した戦争」を語り残す運動をしているグループなども各地にあるので、ひとりでは書けないという人も、録音などの手段で、思い出す限り、断片でもいいから伝えて置いてほしい。
時代の証言は、多数の人の声が集まるほど、後世の人が参考にできる部分も多くなるだろう。
私は、父に戦争体験を語り継いでもらうことができなかった。
せめて、戦争を記録した本を、読み継いでいきたいと思う。
半月ほど、人様に読んでいただくには少々気の重い戦争話を書き続け、ようやく、父が語らなかった「ニューアイルランド戦記」について、自分なりにまとめることができたと思う。読んでくださった方々、コメントをくださった方、ありがとうございました。
父の人生をあらためて振り返ることにもなった。
「自分に親友など必要ない」と言った父に対して、思春期反抗期のころの私は反発し、「戦争という特殊な時期に人を信じられなくなったことがあったからと言って、それを引きずって生きることはない」と、批判をぶつけたこともあった。
今思うと、極限の中を耐えて生き残った父に対して、思いやりのないことばだったなあと申し訳なく思う。
父が生きた戦後50年について、私は「平凡な会社つとめを続け、可もなく不可もない人生。可もなく不可もない三姉妹を育てるために、一生を費やした。ほかにもっとやりたかったことはなかったのか、男の一生をかける壮大な夢を持たなかったのか」と、思ったこともあった。
しかし、地獄をかいくぐって生還した父にとって、「平凡で穏やかな日々」こそが何より大切なかけがえのない日々だったのだ。父は父なりに、戦後の日々をせいいっぱい生ききったのだ、と、今は思う。
いま、天にいる母と語り合いながら、父は思う存分「南洋の完熟バナナ」を食べているのだろうか。
そのバナナ、1本を半分にわけて、シズエさんに食べさせてやりなさいね。クメおばあさんを優先したら、お母さん泣くよ。
「男はねぇ、どんなに育ての母親を恋い慕ってたとしても、結婚したあとは妻子優先にしなくちゃね。それができないなら、女房もらうべきじゃない。結婚せずに、母親が死ぬまで孝行息子してりゃいいんだから」って、お母さん言ってたよ。
日本からは見えない南十字星。
自由な魂となった父は、母に、「あれが南十字星だよ」と語りかけているだろう。
母は、はるかに遠い星たちを指さし、父と並んで見ているだろう。
現在のニューアイルランド島とニューブリテン島
http://pngtourism.jp/charm/nip/
http://pngtourism.jp/charm/enbp/
<おわり>