2008/01/29
ぽかぽか春庭やちまた日記>どうも(1)新聞記者を取材する
何度もネットに書いているけれど、私の初恋の人は新聞記者でした。40年前の昔話になります。
相手は、私という人間が目の前に存在していることすら気づかない、という完全なる片思いでした。存在に気づいてもらえたとしても、鼻も引っかけてもらえなかったことでしょうけれど。
ついでに言うと、私が二度目に入学した大学は、彼の出身校でした。
片思いのヒトのことは、↓のページほかに書いてあります。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/oi0310c.htm
Googleで、そのお方の名前を検索したら、私のサイトが2番目に上がっているのでびっくりした。
新聞社のモスクワ支局長、外信部長、テレビのキャスターを経て、現在は、山梨にある大学で教えていらっしゃる。
在京テレビ深夜の「あしたの朝刊」のキャスターをしていたころは、ヒゲをたくわえていて、とてもカッコよかった。きっと今は、大学生あこがれの教授になっていると思います。
私が初級公務員で彼が前橋支局の記者だったころの、初恋片思いは遠い思い出になってしまいましたが、まだまだ、いろんな人との出会いが人生には待っていることでしょう。
ウェブ上で、さまざまなことばや人に出会うのも楽しみですし、現実社会でもさまざまな人との出会いがあります。
2008年1月に、ひとりの新聞記者とお話する機会がありました。
彼にとっての私は、毎日次々に出会う取材相手のひとりで、すぐに私の名も忘れてしまうでしょうけれど、私には、なかなか得難い出会いだったので、記録しておきます。
題して「新聞記者を取材する」
ひさしぶりに「新聞記者」という種族に会うのだし「天下のアサヒ」記者に会う、というので、せっかく記者に会うのなら、逆取材してブログネタにしてやれ、と思ったしだい。ころんでもタダでは起きない。
1月13日、日曜日。秋葉原のホテル1階喫茶室で取材を受けることになりました。
記者さんからは
「私は40歳で、めがねをかけ、中肉中背です。ヒゲを生やしています。黒いリュックを持ち歩いています。」
という自己紹介の目印をメールでもらいました。
「中肉中背」は、特に目印にはなりません。めがねをかけている40歳も、黒いリュックサックを持ち歩いている人も多いです。だとしたら、目印は「ヒゲ」です。
<つづく>
2008/02/01
ぽかぽか春庭やちまた日記>どうも(2)目印はヒゲ
現代日本社会で、「髭を生やす」というのは、「私は、勤務時間と上司に縛られている一般の会社員や銀行員とはちがう自由度の高い仕事をしている」という記号になりうる。ヒゲは、目印として「見つけやすい度」の上位にあります。
私は、先に喫茶室で待っているつもりだったので、「私は座って本を読んでいます。本のタイトルをあててください」というクイズを出題しておきました。
読んでいた本のタイトルは『本』です。シャレのつもり。
『本』は、講談社の出版情報サービス本です。『一冊の本』という朝日新聞の出版情報サービス本『一冊の本』もバッグにいれてありましたけれど。
『本』は2007年12月号で、森村泰昌の「ロス・ヌエボス・カプリチョス/諷刺家伝 私は飛ぶ・あんたらが踏み台にされたのは自業自得だよ」というタイトルのついた絵が表紙になっています。
「自由度の高い職業」の記号として、「ヒゲ」を目印にする記者さん相手なら、私の目印は『本』の表紙。「あんたらが踏み台にされたのは自業自得だよ」という気持ちの表明として、見てもらうつもりでした。
無名の取材ソースなんてのは、踏み台にされて終わりですから。
でも、お互いに、お互いの目印を見つけることができませんでした。
記者さんは「ヒゲ」が目印のはずなのに、入ってきたときマスクをしていて、私には見つけられませんでした。
風邪気味だったのだそうですけれど、自己紹介のメールに「髭を生やしています」と、書いたのなら、ヒゲを目印にさせてほしかった。
記者さんは、「自分は待ち合わせの10分前にきたのだから、相手より早いはずだ」という思いこみで、店内にいる待ち合わせの相手を見つけ出そうという気をおこしませんでした。さっと見渡して、見つからなかったから、禁煙席にすわりました。
私は待ち合わせの20分前に喫茶室についていました。
私はタバコを吸わないけれど、入り口から入って一番すぐ目の前の席は喫煙席だったから、すぐに見つけてもらえるよう、隣の人の煙をがまんしながら喫煙席に座っていたのです。目印の『本』をみつけてほしかった。
結局5分後に「あの、今、どちらにいらっしゃいますか」という電話がかかってきた。「どちらにって、オヤクソクした場所にいます。椅子に座って、本読んでいるんですけれど」
「あいさつことば」についての取材で、記者さんは、『話しことばの通い路』のコピーをテーブルにおいて、日本語に関して取材の質問をしてきました。
「どうも」ということばを挨拶語に使っていることについてどう思うか、という質問です。
私は逆に記者さんに、「記者さん自身は、どうも、という挨拶を使うことがありますか」と質問しました。
記者さん自身は、「どうも」なんていう簡略挨拶ではなく、きちんとした言葉遣いできちんとお礼のことばを言いたい、というお考えでした。
<つづく>
2008/02/01
ぽかぽか春庭やちまた日記>どうも(3)どうもありがとう
夫が駆け出しの記者のころ。
発行部数も少部数の地方新聞では、まず、取材相手に会ってもらうまでが一苦労。会えたところで、取材許可をもらうまでがまた困難。
それに比べてアサヒやヨミウリでは、大新聞の名詞さえ出せば、相手は喜んで取材に応じ、取材に何の苦労もしていない。
そういうのを「殿様取材」というんだ、アサヒやヨミウリの記者は、そういう殿様取材を続けているからダメになる、というのが、夫の持論です。
駆け出しでもワカゾーでも、「自分はジャーナリストとして、世の中に認められたエライ存在なのだ」と思ってしまう危険性がある、という夫の「大新聞ヤッカミ主張」です。
愛読してきた澤地久枝のエッセイに書かれていたこと。
『妻たちの二・二六事件』の取材をはじめたころ、澤地さんは『人間の条件』の資料助手として働いていました。
まったく無名だったし、『二・二六事件』という負の事件に関わった人々への取材だから、相手の人に取材を受けてもらえるようになるまで、何度も足を運んだ、というエッセイを書いています。
資料助手としての乏しい収入から、心ばかりの手みやげを買い、何度も取材のおねがいにあがる。取材のあとには、お礼状をだす。
ようやく一冊の本ができあがったあと、お礼に本を持参したときには、亡くなっている取材相手も少なくなかったのだそうです。
「本ができあがってからお礼をいえばよい」と思わずに、取材が終わったらすぐに「とにかく、相手の時間を自分に与えてもらった事へのお礼をいうのが先決」と、澤地さんが考えたことは、取材相手に対する態度として見習うべきことだと感じました。
澤地久枝の文章から、ノンフィクション取材相手への温かい視線を感じ取ってきたけれど、このような細やかな心遣いをしてきたからこその文体であったのだと、感じ入ったエッセイでした。
さて、今回の記者さんは、「取材によって、あなたの時間をいただきました」という挨拶をするか、しないか、どっちかなあ、と思いました。
「自分の目印はヒゲ」と書いておきながらマスクをしてきた感性の持ち主、ということから考えて、おそらく、取材を終えた日に取材謝礼メールはこないだろうと予測しました。
私はお礼のことばがほしくて取材に応じたのではない。新聞記者がどのようにしてどのような質問を切り出して取材をするのか、間近で見てみよう、というヤジ馬気分で取材に応じたのです。
でも、記者さんは、私の質問に対して「挨拶はきちんとしたいと思っている」と、言っていたので、取材相手を呼びだして1時間なりの面談時間を持ったことに対して、挨拶があるのか、ないのか、興味がわきました。大アサヒだから、たぶんないだろうと予測しました。
アタリ。
<つづく>
2008/02/02
ぽかぽか春庭やちまた日記>どうも(4)どうもすみません
私は、「ことばは、いつの時代であれ、変わっていくものだから、若者がドーモを挨拶用語として使いはじめたら、将来の日本語ではドーモが「万能挨拶語」として定着していく可能性はある、何もお礼を言わないよりは、「ドーモ」とでも、言うほうがマシ、という話をしました。
記者さんは、私のホームページの記載文章を参照し、私のURLを新聞に載せると言ってくれたのですが、まあ、世の中に日本語学者として知られている大学教授の名ならともかく、まったく無名の、著作の一冊も出版していない、大学非常勤講師にすぎない私のサイト、取り上げてもらえないとしても仕方がないなあ、と思いました。
案の定、記者さんからは、「紙面の都合で、今回の取材について、取材したコメントを載せることはできない」というメールが1月25日に届きました。
うん、そういうことだろうなあ。紙面に登場したのは金田一秀穂でした。
サイトを開設している以上、たくさんの人に読んでもらいたいと思ってきました。
でも、これまでどこかのサイトにリンクしてほしいとお願いして回ったこともなく、自分のサイトの宣伝はいっさいしてきませんでした。
読んでもらうことをお願いするより、書いている時間を確保することが大事でした。週に5日、あちこちの大学を回って授業をする非常勤講師の非情なる細切れ時間の合間を縫って、書き続けました。
たくさんたくさん書きたいことがあって、毎日書き続けることが楽しかった。
自分のホームページに書き続けたこと、原稿用紙にすれば、1年間で400字詰め原稿用紙千枚分になります。2003年からトータルすれば、5千枚分以上いになるでしょう。
宇野千代が「何か書きたいと思っている人、どんどん書いたらいいですよ。毎日原稿用紙3枚分、書き続けてごらんなさい。1年で千枚を越えます。千枚といったら、あなた、長編小説2~3冊分です。それを5年つづけて、まだ書きたいことがあったら、たぶん、物書きをめざす資質があります」と、いう意味のエッセイを書いていました。
それ以来、私は宇野千代のことばを信じて、毎日原稿用紙3~5枚分をネットにUPし、プラスアルファとして、さらに、過去の文章からも3~5枚分UPし続けてきました。1日にネットに原稿用紙にして5~10枚分は掲載してきた。
2003年から2008年まで、宇野千代のいう5年間書き続け、まだまだ書きたいことがあります。
<つづく>
2008/02/03
ぽかぽか春庭やちまた日記>どうも(5)雑学ネタ
2007年に中国生活の日記を書いたことと、2007年の終わりに「落語でおいしい日本語食堂」として、日本語学をおもしろく読んでもらう工夫をして文章をまとめたこと、私なりに文章を楽しんで書くことができました。
今年1月に掲載した「てれすこ」を書いているときは、「日本語学の研究者は大勢いるけれど、私はわたし独自の編集方法で対象を描くことができる」という自信を持つことができました。
世の中に落語に詳しい人、江戸時代の博物学を調べている人、日本語の外来語研究をしている人、語彙論音韻論を研究している人、それぞれの専門家はいます。私には及びもつかない、すぐれた研究がなされています。
でも、「てれすこ」の一語から、落語と江戸大名博物学と平賀源内と、英国人による望遠鏡献上と、オランダ語と葛飾北斎の「物見遊山の癖・遠めがね」と、ポルトガル語と天璋院のミシンとシェークスピアを同時に思い浮かべて、外来語のはなしをまとめ上げた人はいない。
雑学研究者春庭のオリジナル編集です。
さらに、私がHPに書いたことに関して、記者さんから取材を受けたことは、「私のホームページの文章がだれかの目にとまり、読んでもらえることもあるのだ」という大きな自信になりました。コメントは掲載してもらえなかったけれど。
記者さん、私のHPに目をとめてくださって、ありがとうございました。
私のホームページURLは掲載してもらえなかったけれど、誰かが読んでくれた、というだけでも、うれしいものです。
それから、もうひとりの「元新聞記者」さん。
私が何を書いても、彼は、私の文章をけなすのでした。
「あんた程度の文章が書けるヤツは日本中にゴマンといる。あんた程度のオリジナリティなど、吹けばとぶ」と。
1983年に、私がフリーランスライターとして、400字詰め原稿用紙1枚5千円の原稿料を得て連載ページを持てるようになったとき、あなたは「この程度じゃだめだ、続けられない」と、けなしました。
私はその評をきくたびに自信がなくなり、ライターとして仕事を続けることをあきらめました。
ライターを断念し、1985年、大学に入学し直しして、日本語学を学ぶことになりました。今では、日本語学は、私の大事な「ネタ」です。
<つづく>
2008/02/04
ぽかぽか春庭やちまた日記>どうも(6)記者さん元記者さんありがとうございました
「修士号を得て、大学教師として働きながら、日本語学エッセイをネット上に書き続ける」という生活を始めたのは、夫がライターとしての私を認めず、ライター生活をあきらめさせたから可能になったのかも。
たしかに、当時、収入のない夫と、乳飲み子を抱えてライターをつづけることは不可能でした。赤ん坊を預ける施設も当時は住居の近くにはなく、子どもを抱えて取材には出られなかった。
私をけなし続けた元地方新聞記者さん、ありがとうございました。「毀誉褒貶」のうちの誉褒なしに、毀貶だけをこれまでつづけてくれて。
「読む価値のないものを読む時間が惜しい」といって、私が書いた文章を読んだこともないのに、よくもけなし続けてくれたわね。
アサヒの記者さん、私のホームページ記事を読んでくださって、ありがとうございました。お話ししていただき感謝しています。
初恋のあこがれだった元記者さん、「ヨミウリ明日の朝刊」のテレビキャスターの時代もすてきだったけれど、今もかっこよくきめて大学の先生しているんでしょうね。
私、あなたが卒業した大学に入学し、大学院を修了。今では母校の留学生日本語授業を担当しています。
三人の記者さん、ありがとうございました。
ドーモドーモ!
今、私はのびのびと書きたいことを書いています。
書きたいです。これからも。
<おわり>