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兵士と人形

2008-08-26 10:12:00 | 日記
兵士と人形

2008/08/23
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>兵士と人形(1)50年前の東京で

 今は昔。
 50余年前の話。
 敗戦から12年がすぎて景気が回復し、「もはや戦後ではない」と、世の中は落ち着きを見せてきていた。

 私が小学校2年生の夏だった。
 4年生の姉と、夏休みが終わると8歳になる私は、伯母に連れられて上京し、「東京の会社」で働く叔父の案内で、はじめての東京見物をした。

 まだ、家庭にテレビも普及していないころの、田舎暮らしの小学生にとって、「東京見物」は大イベントだった。
 電機メーカーに就職した叔父が、夏のボーナスをもらい、伯母と姪っ子甥っ子を招待してくれたのだった。

 夏休み後の学校で、「東京見物をしたこと」を自慢できるのだ。
 クラスのだれも上野動物園も三越デパートも見たことがないのだから、「夏休みに東京へ行く」という私を、皆うらやましがった。
 田舎の小学校2年生のクラスには、東京はおろか、電車に乗ったことがない子供もいる、という時代だった。

 戦死した一番上の叔父に代わって母の実家を継いだクニヒロ叔父は、家の田畑を継ぐ予定ではなかったので、戦前から国鉄職員として就職していた。
 当時の国鉄には家族パスがあり、職員同士で家族パスを貸し借りして、親戚一同がいっしょに旅行していた。(たぶん、今、同じ事をやると、職務規程違反になるのだろう)
 鉄道旅行など分不相応のはずの我が家も、叔父の一家にくっついて「家族パス」を使わせてもらうことができ、海水浴へも東京へも、鉄道旅行ができたのだった。

 上野駅につき、まずは動物園へ。
 上野での動物園見物を終え、次は「三越へ行って、皆で買い物をする」という晴れがましい気分で、私も姉も浮かれていた。
 三越では自分の買いたい物を選び、自分の財布からお金を出して買う、という体験ができるのだ。

 生まれて初めての、東京の「デパート」というところでの買い物。
 姉は何を買うだろうか。
 留守番の母が、小さなカバンに入れてくれたこずかいは、姉より多いのか、少ないのか、私はまだ知らなかった。
 デパートに着くまで、カバンをあけてはならない。私は必ず落とすから。

 私は注意力散漫で、ちょっちゅうお金を落としたりなくしたりする子供だった。
 おつかいに行かされて、途中の本屋で本に気をとられて、お金を落とした、なんていうことがよくあった。 

 はじめての東京で、気を張っていたのでカバンを落としはしなかった。しかし。
 伯母と叔父が駅で切符を買っている間に、私は街頭に立つ白い包帯姿の兵士にお金を渡してしまったのだ。

 傷痍軍人は松葉杖をつき、不自由な体でハーモニカを吹いていた。もの悲しいその歌は、私もよく知っている歌だった。

 ♪ここはおくにの何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下~

 伯母は怒った。
 「もう、おまえが買い物するお金はやらないからね。お姉ちゃんが買いものしてても、うらやましがっちゃダメだよ。自分が悪いんだから」

<つづく>


2008/08/24
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>兵士と人形(2)ミルクのみ人形

 始めての東京旅行に出発する前、母は、父が渡してくれる乏しい毎月の給料から、姉に500円、私に500円、カバンにいれてくれた。
 当時は、一日10円のこずかいで、一ヶ月ため込んでも300円だった。一ヶ月分のこずかいより多い金額を、一日でつかってもよいはずだったのに。

 東芝に勤務し、田舎者の姪っ子を招待してくれた叔父は、私を諭した。
 「あの人たちは、本物の傷痍軍人じゃないんだよ」

 叔父は言った。「本当の皇軍傷痍軍人なら、軍人恩給がちゃんともらえているんだから、乞食をしているはずがないんだよ。あの人たちは、息子や兄弟や親を戦争で失った人の気持ちをクイモノにして、お金を得ているんだ。同情しちゃいけないよ」

 結局、三越で「ミルク飲み人形」というのを、叔父に買ってもらった。
 口から小さなほ乳瓶で水を入れてやると、本当におむつが濡れる人形。私が失った金額より多い、700円する人形だった。1957年の700円は、今ならどれほどだろうか。
 私が子供の頃に買ってもらった持ち物のなかでは、一番高いもののひとつになった。

 今になって、1950年代の新卒者の初任給が数千円だったと知った。就職したばかりの叔父は、伯母の前でせいいっぱい背伸びしてみせて、700円の人形を買ったのだろうと思う。

 母の兄弟たち。長女の伯母、次女の母シズエ。母の下に4人の弟がいた。長男のタキオ叔父は戦死。それより前、次男のクメオちゃんは、4歳で病死。家の惣領となった三男のクニヒロ叔父は、国鉄駅員。三男カズオ叔父は銀行員。

 末っ子のヒサオ叔父が就職したことで、ようやく兄弟がみな自立できた、というほっとした思いが母の一族のなかにあった。
 ヒサオ叔父も、兄弟たちの助けと見守りを得て、ようやく念願どおりに就職できたことの感謝を表したかったのだろう。

 伯母はこののち、ミルク飲み人形で遊んでいる私を見るたびに「この子は、傷痍軍人にお金をやっちゃったから、ヒサオさんがこの人形のお金をだしてくれたんだよ」と、母に告げた。毎度毎回言わなくてもいいのに、、、、、。
 もっとも、私の失態を何度も言いたてられたからこそ、このエピソードを50年たっても忘れないでいるのかも知れない。

 古くなって、足がポロっとすぐもげるようになってしまったミルク飲み人形を、私は長いこと捨てられずにいたが、私が東京に出てきたあと何年かして、実家の押入を探したときには、もう人形はなくなっていた。

 20歳で東京へ出た当時には、「古い人形を東京まで持っていく」という考えは私にはなかったし、足がもげる古ぼけた人形など、実家をついだ妹にとっては何の思いいれもないものだったから、捨てられてしまっても仕方がない。

<つづく>


2008/08/25
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>兵士と人形(3)ニセ傷痍軍人

 実家の古いアルバムの中に、三越の屋上で、いとこのヨシユキと私と姉が並んで、大きな口を開けてソフトクリームを食べている古い写真が残っている。

 田舎町にはアイスキャンディ屋がいて、自転車で売りにまわっていた。伯母は「こんなの食べるとおなかをこわすのに」と渋い顔をするけれど、母は自分も大好きなので、よく買ってくれた。でも田舎にソフトクリームは売っていなかった。
 三越で始めて食べたソフトクリーム。今でも、ソフトクリームは私の大好物。

 姉は6年前に亡くなり、ヨシユキは、実家のある市のJR駅長を今年勇退して、支社勤務になった。
 ヨシユキが育った家、母の生家のなげしには、戦死したタキオ叔父の軍服姿の写真が掲げてあった。

 祖母は、タキオ叔父の写真を見上げては「お国のために戦地へ行ったけれど、お骨もないんだよ」と、言っていた。

 東京街頭で、私がなけなしのおこずかいを出してしまったのは、傷痍軍人の姿をタキオ叔父の軍服写真に重ね合わせてしまったのかもしれないし、ここはおくにの何百里~というメロディに心うごかされたのかもしれない。
 今になっては、8歳のそのときの自分の気持ちをはっきりと覚えているわけではない。

 辺見庸コレクションNo.2『言葉と死』の中にある「消えゆく残像--駅頭の兵士たちと寂しい詩人」を読み終えて、思わず巻末の初出一覧を見直してしまった。
 「書き下ろし」と書いてある。
 この本で初めて読んだ文であるはずなのだ。だが、既読感があった。

 書き下ろしのはずの「消えゆく残像」に、既読感があることの理由はすぐわかった。
 ここに辺見が描き出した敗戦後の駅頭光景、傷痍軍人の姿は、私が見た光景であり、辺見が「あの人たちはニセモノだよ」と親に言われたのと同じことを、私も子供の頃、言われたからだった。

 辺見の単行本は、これまで発行とほぼ同時に買ってきた。
 2007年11月発行の『言葉と死』を、買わずに図書館で借りてすませようと思ったのは、収録されている文のほとんどは、これまで読んだ単行本からの抜粋アンソロジーだったから。
 一部の書き下ろしを除いて、ほとんどが既読作品だったので、「本冊書き下ろし文」を、図書館の本で借りて読んでしまおうと思ったのだ。
「消えゆく残像--駅頭の兵士たちと寂しい詩人」は、書き下ろしエッセイだった。

 1991年の『自動起床装置』からはじまり、『ハノイ挽歌』『赤い橋の下のぬるい水』『ゆで卵』などの小説、『不安の世紀から』『もの食う人びと』『屈せざる者たち』などのノンフィクション、『眼の探索』『反逆する風景』『単独発言』『永遠の不服従のために』『抵抗論』などの評論、吉本隆明との対談本である『夜と女と毛沢東』、坂本龍一との対談本『反定義―新たな想像力へ』など、ほとんどの単行本を読んできた。

 辺見が「私の書いた文章のもっともすぐれた読解者」と呼ぶ「確定死刑囚A」さんほど鋭い感性をもった読者ではないが、20年間を辺見の読者として過ごしてきた。

<つづく>


2008/08/26
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>兵士と人形(4)ここはお国の何百里

 「消えゆく残像--駅頭の兵士たちと寂しい詩人」は、「読んだことがある」のではなかった。
 「私自身が書いたこと」でもあるかのように、私が経験したこと、考えたことがそっくりそのまま文章になり活字となっていたゆえの既読感だった。

 お金をめぐむ者に対して鋭い目つきを向け、不自由になった身体の不幸はおまえのせいだ、とでも言うように、幼い私が握りしめていたお金を受け取ったあの松葉杖の兵士、、、、。

 「消えゆく残像」は、書き下ろしではあるが、私自身が経験したこと考えたことと重なり合う光景があった。

 「よき市民たち」は、傷痍軍人=乞食とみなした。
 駅頭にたった傷痍軍人は、もの悲しげな音楽を奏で、傷ついた体をさらしていた。
 叔父は、「あの人たちは、日本皇軍兵士なんかじゃない、ニセモノだ」と断じた。

 辺見はその当時の風説「ニセモノ傷痍軍人」について、人々が「にせもの」と断じたのには、次の種類があったと書いている。

(1)ほんとうは障害などないにも関わらず、傷痍軍人のふりをしているニセモノ。前科ものなども多い。
(2)もともと先天的な障害や事故による障害だったのに、兵士として負傷したふりをし、戦争で家族を失った人々の同情をかっている人
(3)日本人兵士ではない人(旧植民地出身の兵士で、日本兵士として出征しながら、日本国籍を奪われた人たち)

 私は(3)の人々については、叔父にも聞かされなかった。叔父の話では、「本物の皇軍傷痍軍人だったら、恩給を得ているはず」だった。
 私が日本国籍を失った元植民地出身の戦没軍人傷痍軍人について知ったころには、白衣を着て立つ傷痍軍人は、駅頭や街頭から消えていた。

 辺見は、(3)の人について、「日本人が利用し、捨て去った人々」と解説している。
 半島や大陸の出身者、台湾島の出身者の人々も、皇軍兵士として従軍した。
 従軍するときは、「真の日本人となるために、お国のために戦え」と、最前線へ駆り立てられた。

 戦地で戦い、負傷して帰国したとたんに「中国籍朝鮮籍の者は、大陸、半島へかえれ」と、言われて日本国籍は与えられなかった。
 在日朝鮮人韓国人中国人となった人には、軍人恩給も傷痍軍人手当も出ないのだった。日本人じゃないから。

 一部の人は、アコーディオンやハーモニカでもの悲しい音楽をながしながら、人々の善意にすがる生活をした。
 ♪ここはおくにの何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて~

<つづく>


2008/08/27
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>兵士と人形(5)赤い夕日に照らされて

 ニセモノ傷痍軍人の中に、「障害がないのに、負傷者のふりをする前科者」などもいたのかも知れない。
 だが、「国籍を失ってしまったがために、傷痍軍人恩給を受けられなくなった植民地出身者」も、少なからずいただろう。

 わたしがお金を渡した傷痍軍人が、どのような「ニセモノ」だったのか、今はもう何もわからない。
 辺見の「消えゆく残像・駅頭の兵士たちと寂しい詩人」を読んで、私は、あの駅頭の光景をまざまざと思い出し、足がもげてしまうようになった古いミルク飲み人形を思い出した。

 辺見が描き出した「日本国籍傷痍軍人となることを拒否され、駅頭に立って物乞いをした傷ついた兵士たち」の話は、50年前の東京の駅頭での私の思い出とともに、夏の日本の光景となって重なった。

 辺見は、この「駅頭の兵士と寂しい詩人」で、シベリアラーゲリに抑留され、望郷と怨郷の念を詩にした石原吉郎(1915~1977)を取り上げている。

 『 孤独な詩人、石原吉郎も、駅頭の白衣の兵士たちの前を通り過ぎたことがあるに違いない。石原ははたして何を思ったか。1953年、つらいラーゲリ生活を経て帰国した元関東軍特殊通信情報隊員、石原は間違いなく彼らの前を何度となくとおりすぎ、睨める視線を浴びたであろう。彼らが奏でた「戦友」を幾度となく耳にしたはずだ。
 ここはおくにの何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下、、、、』

 「戦争を知らない子供たち」であった私も、この「戦友」を歌うことができる。
 私のこずかいを受け取った傷痍軍人たちが歌っていた歌であり、「なつかしのメロディ」などの番組でよく聞いた。

 石原の詩を引用して「傷痍軍人とミルクのみ人形」の思い出を閉じることにしよう。
 私にとって、まだ昇華されない思い出である「兵士と人形」。
 石原の詩を読んでも、まだ、私にはあの駅頭の兵士たちとの距離を埋めることはできないだろうと思う。

 私にできることは、あの兵士たちの姿を忘れないでいることだけだ。
 敗戦後、12年という時を経ても、まだ「傷痍」の姿のまま、「友は野末の石の下」と悲しいメロディを奏でていたあの兵士たちを、私は忘れない。

<つづく>


2008/08/28
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>兵士と人形(6)友は野末の石の下

石原吉郎 第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』(思潮社1963)より
[位置]
   しずかな肩には
   声だけがならぶのでない
   声よりも近く
   敵がならぶのだ
   勇敢な男たちが目指す位置は
   その右でも おそらく
   そのひだりでもない
   無防備の空がついに撓(たわ)み
   正午の弓となる位置で
   君は呼吸し
   かつ挨拶せよ
   君の位置からの それが
   最もすぐれた姿勢である

『満月をしも』(思潮社1978)より
[死]
  死はそれほどにも出発である
  死はすべての主題の始まりであり
  生は私には逆(さか)向きにしか始まらない
  死を〈背後〉にするとき
  生ははじめて私にはじまる
  死を背後にすることによって
  私は永遠に生きる
  私が生をさかのぼることによって
  死ははじめて
  生き生きと死になるのだ
===========
 辺見は私にとって、最初に卒業した学部の先輩にあたり、石原は二つ目の大学の大先輩にあたる。そのようなつまらぬ縁を辺見は笑うだろうけれど、私は辺見の本を読むことでかろうじて「大政翼賛」に自分の心が抗するのを、支えることもできる。
 私はひよわな日和見だからね。

 8月は、すべての死者たちのための月。すべての死者たちに祈りをささげてすごす。
 私は、故郷の寺へ行き、父母と姉の墓にお参りしてすごす。
 石原の詩を朗読して、8月をすごす。
 「戦友」の、赤い夕日に照らされて~のメロディを低く歌ってすごす。

 ♪ここはおくにの何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下、、、
 
<おわり>
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